思考の部屋

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フランクルの『夜と霧』第三回目を見て(2-2)体験価値「美しいという体験」

2012年08月19日 | 思考探究

[思考] ブログ村キーワード

Eテレのフランクルの『夜と霧』第3回目に放送された三つの価値の内の二番目の価値、

 愛に生きる力を与える~体験価値~

については「(2)体験価値と現存在」で「妻とともに今ある自分」体験、「愛の体験」については既にブログに書いていますが、この他に自然の体験、芸術の体験などがあります。

 番組では『夜と霧』から次の二つの例が話されていました。講師の諸富祥彦先生は二例目を「体験価値」ではなく「態度価値」の事例として紹介していますが、フランクリンの著作の翻訳、フランクリンの人生論などの著作がある哲学者の山田邦男先生はこの事例を「体験価値」で紹介しており自然の体験に視点をおいて「体験価値」で紹介します。

 なお後日「態度価値」においても運命愛の視点から参考にしたいと思います。

<夕焼けの風景>

 若干の囚人において現われる内面化の傾向は、またの幾会さえあれば、芸術や自然に関する極めて強烈な体験にもなっていった。そしてその体験の強さは、われわれの環境とその全くすさまじい様子とを忘れさせ得ることもできたのである。

アウシュヴィッツからバイエルンの支所に鉄道輸送をされる時、囚人運搬車の鉄格子の覗き窓から、丁度頂きが夕焼けに輝いているザルツブルグの山々を仰いでいるわれわれのうっとりと輝いている顏を誰かが見たとしたら、その人はそれが、いわばすでにその生涯を片づけられてしまっている人間の顏とは、決して信じ得なかったであろう。

彼等ほ長い間、自然の美しさを見ることから引き離されていたのである。そしてまた収容所においても、労働の最中に一人二人の人間が、自分の傍で苦役に服している仲間に、丁度彼の目に映った素晴しい光景に注意させることもあった。

たとえばバイエルンの森の中で(そこは軍需目的のための秘密の巨大な地下工場が造られることになっていた)、高い樹々の幹の間を、まるでデューラーの有名な水彩画のように、丁度沈み行く太陽の光りが射し込んでくる場合の如きである。

あるいは一度などは、われわれが労働で死んだように疲れ、スープ匙を手に持ったままバラックの土間にすでに横たわっていた時、一人の仲間が飛び込んできて、極度の疲労や寒さにも拘わらず日没の光景を見逃させまいと、急いで外の点呼場まで来るようにと求めるのであった。

 そしてわれわれはそれから外で、西方の暗く燃え上る雲を眺め、また幻想的な形と青銅色から真紅の色までのこの世ならぬ色彩とをもった様々な変化をする雲を見た。そしてその下にそれと対照的に収容所の荒涼とした灰色の掘立小屋と泥だらけの点呼場があり、その水溜りはまだ燃える空が映っていた。

感動の沈黙が数分続いた後に、誰かが他の人に「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」と尋ねる声が聞えた。(霜山徳爾訳『夜と霧』みすず書房p126~p127から)


<死に死に逝く女性の言葉>

 この若い女性は自分が近いうちに死ぬであろうことを知っていた。それにも拘わらず、私と語った時、彼女は快活であった。

「私をこんなひどい目に遭わしてくれた運命に対して私は感謝していますわ。」

と言葉どおりに彼女は私に言った。

「なぜかと言いますと、以前のブルジョア的生活で私は甘やかされていましたし、本当に真剣に精神的な望みを追ってはいなかったからですの。」

その最後の日に彼女は全く内面の世界へと向いていた。

「あそこにある樹はひとりぼっちの私のただ一つのお友達ですの。」

と彼女は言い、バラックの窓の外を指した。外では一本のカスタニエンの樹が丁度花盛りであった。病人の寝台の所に屈んで外をみるとバラックの病舎の小さな窓を通して丁度二つの蝋燭のような花をつけた一本の緑の枝を見ることができた。

「この樹とよくお話しますの。」

と彼女は言った。私は一寸まごついて彼女の言葉の意味が判らなかった。彼女はせん妄状態で幻覚を超しているのだろうか? 不思議に思って私は彼女に訊いた。

「樹はあなたに何か返事をしましたか?-----しましたって!-----でほ何て樹は言ったのですか?」

彼女は答えた。

「あの樹はこう申しましたの。私はここにいる-----私はここにいる-----私-----ここに-----いる。私はいるのだ。水遠のいのちだ・・・・・。」(上記書p170~p171から)

※せん妄状態:軽度や中等度の意識障害の際に、幻覚・錯覚や異常な行動を呈する状態のこと。

 どちらも人と自然との関わりの姿、受動的に世界から何かを受け取ることによって体験される価値の例です。

 自分たちの状況とは関係なく存在する夕焼けの風景、花咲く一本の木、それを見つめているときの人の実存、現存在としてある自然の姿ではなく実存で見る実在のリアリティをまさに受け取っている、受胎のような瞬間のように思います。

フランクルは著書の中で、

 体験価値は世界(自然、芸術)の受動的な受容によって自我の中に実現される。これに対して態度価値は、ある変化しえないもの、ある運命的なものがそのまま受け容れられねばならない場合に至るところで実現されるのである(フランクル著『死と愛』霜山徳爾訳 みすず書房p120)。

と体験価値は自我の中に実現され、これは運命的なものとは異なり、辛い生活を一瞬でも忘れることができる事実、経験で、「この世のどんな力も奪えない」と解説されていました。

 番組中の伊集院光さんはこちらが聞きたいことをかゆい所に手が届くように講師先生に質問するときがあります。

【諸富祥彦】 ある大自然に囲まれている時に私たちはものすごい圧倒的な感動を得ます。それからものすごい芸術作品、たとえばオーケストラの音楽に感動に打ち震えているその時に、「人生に意味はあるかい?」と聞かれたらその人は「何いう、決まっているじゃないか。」というふうに答えるだろう。人生に意味があるのかどうかの問いが不問になってしまう体験、圧倒的な心ふるえる体験によって実現されるのが「体験価値」です。

本当に苦しい時の美しさ

本当に苦しい時の笑い

そういうものは何よりも人の心を引きつける。

【伊集院光】 なぜ人間は、その地獄の様な中で見る夕日をきれいだと思ったり、夕日こそが今一番きれいで、自分にとってすごくいいものに思えたりするのか、想像もつかないです。それが人間だからとしか言えない感じですね?

【諸富祥彦】 それが「人間が人間たる所以(ゆえん)」でしょうね。極限状態で美に感動する能力が人間特有の力なのだとフランクルは考えています。

という対話がありました。

 伊集院さんの言葉に「夕日をきれいだと思ったり、夕日こそが今一番きれいで、自分にとってすごくいいものに思えたりする」という人の感情について質問しています。

「きれいだと思う(わたし)」

「いいものに思えたりする(わたし)」

という言葉です。諸富先生は、

本当に苦しい時の美しさ

本当に苦しい時の笑い

と「美しさ」と「笑い」が人を引きつけるとしそれに対して伊集院さんは「きれい」「いいもの」という感覚表現を使っています。

「美しさ」とはどのような言葉なのだろうか? 「うつくしい」の名詞で「絵にも描けない美しさ」などという表現があります。当然文字でも表わされない「美しい」がある。何となく日常的に使われる「うつくしい」という言葉を探求してみたいと思います。現代語としての「うつくしい」はどういう意味なのか、三省堂の『大辞林』を調べてみます。

うつくし・い【美しい】(形)
(1)視覚的、聴覚的にきれいで心をうつ。きれいだ。
(2)精神的に価値があって人の心をうつ。心に深い感動をよびおこす。清らかだ。
(3)いつくしみ・いたわりの気持ち、愛情を感ずるありさま。いとしい。
(4)(特に小さいもの、幼いものなどについて)小さくて愛らしいかわいらしい。
(5)不足なく整っている。申し分けがない。
(6)(連用形を副詞形に用いて)
  ア 心や行動がさっぱりしているさまを表わす。きれいさっぱり。
  イ おだやかに。静かに。

現代語が分かると、いつもの古語の世界に入りたくなります。古語の「うつくし」を調べてみます。『岩波古語辞典』です。

うつく・し【愛し・美し】
〔形シク〕《親が子を、また、夫婦が互いに、かわいく思い、情愛をそそぐ心持ちをいうのが最も古い意味。平安時代には、小さいものをかわいいと眺める気持ちへと移り、梅の花などのように小さくかわいく、美であるもの形容。中世には入って、美しい・綺麗だの意に転じ、中世から近世にかけて、さっぱりとして、こだわりを残さない意も表わした。類語ウルワシは端正で立派であると相手を賞美する気持。イツクシは神威が霊妙にはたらき、犯しがたい威厳のある意。ただし中世以降、ウツクシミは、イツクシミと混同した。平安時代、かわいいの意にラウタシがあるが、これは相手をいたわりかわいがってやりたい意。》
(1)かわいく思う。いとしい。
(2)(見た目に小さくて)かわいい。
(3)(見た目に)きれいである。美しい。
(4)見事である。
(5)きれいさっぱり。手際よく。何事もなく。

さて本論に立ち戻りますが、「本当に苦しい時の(自然の)美しさ」とは、そこに立ち現れてくる心ふるえる感覚、感情です。

 美しい夕日はあるが。夕日の美しさという様なものがあるのではなく、心ときめかす震える感動がある、感動する息づかいがある。感動する息づかいとは生命の感覚を受け取る、受動するということです。

体験価値における自然の体験、芸術の体験、愛の体験=美しい体験

ここには美しいものがあるのではなく体験があるということです。

 フランクルの体験価値における体験=自然、芸術の体験

「体験価値は世界(自然、芸術)の受動的な受容によって自我の中に実現される」というフランクルの言葉がありました。実存的考え方はトコトン自我を問いつめていきます。

それはいつ起こるのか。起きるその時がくるのではなく、「愛の体験」で述べたフランクルの言葉、「存在が開かれ露わになるのは、私が自分を存在にさし向け、それに自分を捧げる場合だけである。」(フランクル著『意味への意志』山田邦男訳 春秋社)を思い起こします。

 そして今回の自然の体験と今回言及しなかった芸術の体験に関しフランクルは次のようにも語っています。

 (前略)体験において実現される価値、すなわち「体験価値」も存在する。この価値は、世界を受容すること、たとえば自然や芸術の美しさに没入することによって実現される。

 この価値が人生に与えうる豊かな意味は過小評価されてはならない。人間の生活における一定の瞬間の現実的意味が、あらゆる行為や行動によってではなく、つまり活動による価値実現によってではまったくなく、単なる体験によって充たされうることを疑う人は、次のような思考実験をしてみるとよい。

すなわち、一人の音楽を愛する人間がコンサートホールに座り、彼の好きなシンフォニーの最も感動的な小節が今まさに耳に響きわたり、その結果、ひとが最も純粋な美に触れたときに体験するような、あの身震いするような感動に打たれている、と想像しよう。

そして、このような瞬間に、誰かが彼に、あなたの人生には意味があるか、と問うたと想像しょう。このとき、問われた人間は、きっと、このような恍惚とした瞬間を体験するだけでも生きる価値がある、と答えるにちがいないであろう。

なぜなら、それがほんの一瞬間のことであったとしても、その瞬間の大きさだけで一生涯の大きさが測られうるからである。山腹の高さは、谷底の高さによってではなく、もっぱら最高峰の高さによって示される。

それと同じように、人生の有意味性についても、その頂点が決定的なのであり、この比類のない瞬間が人生全体にさかのぼって意味を与えるのである。山歩きの途中で、アルプスの夕焼けを体験し、背筋が寒くなるほどの自然のまったき素晴らしさに打たれている人間に、こうたずねてみるがよいこのような体験の後でも、自分の人生がいつかすっかり無意味になるということがありうるだろうか、と。(『人間とは何か』春秋社p112から)

 「夕焼けを体験し、背筋が寒くなるほどの自然のまったき素晴らしさに打たれている人間」は現存在の只中にある場合であること、そしてそれは「存在が開かれ露わになるのは、私が自分を存在にさし向け、それに自分を捧げる場合だけである。」ということになります。

 宗教学者の山折哲雄先生の3.11東日本大震災の直後に被災地を訪れたときに、ガレキの向こう側に見える海を見て次のように述べていました。

こころの時代~人生と宗教~ 共に生きる覚悟(1)・魂の行方
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d745a19480c5e86d91c3b3b63e002318

から、

【山折哲雄】・・・・・よく文明というものは、いずれは自然によって復讐を受ける。その文明を作った人間たちが、やはり自然の牙で復讐される、打ち砕かれる。
 
 自然の猛威とも言われてきましたし、私も言ってきました。・・・しかし眼前に横たわっている自然は、いわゆる災害の後の自然は、ものすごく美しかった。
 
 ちょうど晴れた日でした。海が凪いで、太陽の光をキラキラと照り返して、遠くに島影が美しく浮かんでいるのです。・・・・・

この言葉はまさにフランクルの言う「体験価値」だと思います。

 フランクルの『夜と霧』がなぜ人々に多く読まれるのか。フランクルが体験したことでもあるからです。

「ものすごく美しかった。」

私はそれでいいのだと思います。

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