現象学の初歩的な参考書を読んでいて次の記述に出会ったことがある。
<或る「主客一致」の記述>
・・・ここにもうひとつの難問が現れる。それは、もしも主観と客観(認識と現実)とが完全に「一致」するとすれば、じつはすでに「一切は決定され」おり、人間の努力はただこの「決定済みの」真理を見つけ出す点にしかない、ということになってしまうのです。また、この完全な認識が獲得された暁には、人間にはもはやするべきこよは何一つ残っていないことにもなります。
何が真理で何が必然か、何が善くて何が悪いか、歴史はどう進むのか、すべてが、「決定済み」なのです。そうなるともう人間には自由の余地は何一つ残されていないことになります。・・・・・略・・・・・要するに、こういうことです。もし主観と客観との「一致が」なければ、人間は「善し悪し」や「本当・嘘」の根拠を失って、その生の意味を脅かされる。一切が無根拠で、ただ力の強いものが勝つだけ、ということになるからです。しかし、主観と客観とが「一致」するはずのものなら、人間の価値判断の多様性は否定され、あたかも神の定める摂理が一切を支配していると考えた中世神学のテーゼとかわらないことになる。つまりそれは、人間の「実存」や「自由」の意味を根本的に脅かすのです。
これは当にギリシャ神話におけるパンドラの箱(壺)物語の箱に残された「希望」の話のようです。もしも最後の魔物の「前知魔」がこの世に出ていたら人類は「希望」を失っていたという内容と全く同じではないかという印象を受けるのです。
「人間にはもはやするべきこよは何一つ残っていないことにもなります。」
「何が真理で何が必然か、何が善くて何が悪いか、歴史はどう進むのか、すべてが、『決定済み』」
「一切が無根拠で、ただ力の強いものが勝つだけ」
パンドラの箱ではこれ以上の深刻さが発生します。その時その瞬間に全てがわかってしまう。
引用した著書には次のような言葉が付されます。
<これが近代哲学を貫いた主観と客観との「一致」という問題が隠していた深刻なパラドクスでした。>
主客未分
主客一致
そして
「自己と宇宙の本来的同一性の経験」
とは一体どういうことなのか。
人間は現象学において「主観と客観」に何を求めているのか。
ギリシャ神話は何を語っているのか。物語だと一笑に付すことができるのか。
「あなたの全てが知りたい」
「世の中の全てを知りたい」
飽くなき充足の論理が支配してしまうと人類は破滅に襲われる。
「一切が無根拠で、ただ力の強いものが勝つだけ」
などという甘いものではない。
人間は心を失うのです。
「同一性の経験」
という言葉、精神的感応の世界のことであり、現前には世界が開かれているということです。
世界が閉じてしまうという閉そく性のことではありません。自分の前に世界が開かれているから自由意志もそこにあるということです。
我々は日々の経験や体験から多くを学んでいるのです。
したがっていえることは「経験や体験」というものが人間にとって必要不可欠なことであり、そこには深い意味があることが分ります。
「人間は苦悩する存在である。」
について昨日書きましたが、決してネガティブな話ではないのです。日々出遭う喜びや悲しみの中でどんな意味を感得し、また人生に期待される存在であるかを実感するという話です。
小学5年生の自殺の話を書きました。残されていたリックの中にはメモがありそこには次のように書かれていたそうです。
《自分をぬいて25人全員が「とうはいごうがなくなってほしい」に賛成しました。また一人たりとも「なにもしない」人がいませんでした。これは勇気がいることとさっします。ちなみにぼくは「とうはいごうがなくなってほしい」「なんでもする」に賛成です。どうか一つの小さな命とひきかえに、とうはいごうを中止してください》
この小学生は自分が通う小学校の廃校に伴う統廃合に思い悩んでいて、「統廃合をやめさせるためなら何でもする」と言って自殺の道を選んでしまいました。
親や教育者、また周りの人たちは何をこの児童に教えるべきであったのか。
「経験や体験」
には苦悩するという現実があるということを、それがまた大切なことでもあることを教えておく必要があったのだと思う。しかし心やさしさを感じる児に見えるだけに悲しい出来事です。