思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

きく文化(2)・色即是空、空即是色

2010年10月21日 | 仏教

山岳信仰につきものである六根、

 1眼根(視覚)
 2耳根(聴覚)
 3鼻根(嗅覚)
 4舌根(味覚)
 5身根(触覚)
 6意根(意識)

この六つになります。私も山岳信仰ではないのですが山登りの際は、六根清浄を唱えながら登ります。目にしたもの、耳にしたもの、鼻にしたもの、舌にしたものこれらを心のうちに「きかない」ことを誓います。

               

 昨夜は、「きく(聞く・聴く)文化・高木美保の香り学」(http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/baedb9e7f20454505d1439bad85050a1)で「きく文化」について書きました。

 その際、医師の問診を「聞診」としたらと話しましたが、個人的に感じるのですが、触診はやはり「きく」のうちにあるように思います。一輪の花を生ける。構成や配置や器や飾る場所、それらもやはり「きく」の内、庭園などは石の位置は場所の声を聴いているように思います。

 般若心経には「五蘊皆空」とあります。五蘊(ごうん)とは、

1色蘊(しきうん) - 人間の肉体を意味したが、後にはすべての物質も含んで言われるようになった。
2受蘊(じゅうん) - 感受作用
3想蘊(そううん) - 表象作用
4行蘊(ぎょううん) - 意志作用
5識蘊(しきうん) - 認識作用

さらに、「色」「受想行識」は皆「空」だと言います。「きく」ものは全て空間に帰す。

               

 六根の最後は意識です。心理学的に考えてみると感受し、表象し、意志し、 認識しが何を意味するのかは分かるような気がします。哲学や心理学がすでに仏教の中に存在すると言いますが確かにそう思います。

 長野県の千曲川に鮭がのぼってきました。母の話だと母が子どもの頃は鮭があふれんばかりにのぼってきていたとのこと、いつしか排水や河川工事により水の汚れ、のぼりづらい河川環境が鮭ののぼりを妨げてきました。
 
 「サケ・マス論」に学ぶ(http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/cb1926a22a6460bf73548a0320a72f34

 で、鮭については古代の歴史、信濃の国の話をしました。自然とともにあった日本人の話でもあります。

 さて話はずれてしまいましたが、根はずれてはいません。聞く耳を立てると何かが聞こえる感じる。空間の漂いの中に、他人と私の間の中に、目には見えないが何かがあり、何かを感ずる。昨夜は、そんなところに「きく文化」を考えてみました。

 色即是空、空即是色

               

 どうして日本人は好きなんでしょう。日本人と言うよりも日本にいればと言った方が良いかもしれません。ドイツ人の建築学者ブルーノ・タウト。

 Ich liebe due japanische Kultur. 「我、日本文化を愛す」 ブルーノ・タウト
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/a04d86355742eb8734495004729477e0

に書きましたが、彼はほんの短時間の滞在でしたが、日本文化を間違いなく語った人で、またヨーロッパに紹介しました。西洋人の、建築界での話ではありますが学ぶべき点を紹介しているのです。

 「きける人間」「きけた人間」どうも世の中は、世の中の漂いを聴けないない人があまた多い(ダブった言い方ですが)ようです。

 今朝は昨日の追加です。短いですがこのくらいにします。

 今朝の写真は、10月11日の涸沢~奥穂高の風景です。紅葉がすごいです。

 登山は専門家でも一歩一歩に神経を注ぎます。いつも初心者であることを忘れてはなりません。

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5 コメント

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失礼いたします。 (tenjin95)
2010-10-22 06:32:33
> 管理人様

道元禅師の『正法眼蔵』「現成公案」巻に、次のような一節があります。

「常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬおりも風をきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。」

大学院の時、この文章の訳文を作らねばならなくなって、「風をきく」というニュアンスを捉えられず、苦労した記憶があります。そもそも、「きく」に、どの「漢字」が当て嵌まるかも分からず、ホント困りました。今の我々に残っている感覚なのか?無くなってしまったものなのか?それについては、今でも検討課題です。
返信する
気が付きませんでした。 (管理人)
2010-10-22 19:43:37
>tenjin95様
 いつもすみません。まったく気が付きませんでした。

 課題が一つ増えてしまいました。

 寺への落書きですが、今日は悪がきと接する機会がありました。

 手を見たらマジックで書いたような×や訳の分からない記号が書かれているではありませんか、聞くまでもなく衝動、親にもらった体など分かるはずもなく・・・です。

 悪がきではありますが19歳、来年20歳になるボクですが、話すと素直で性格はいいのです。

 どうも集団の中にいると、とんでもないことをやるようです。

 昔やくざの老人が、眉毛を刺青にしたことを嘆いていました。

 集団の中の個の埋没、現代社会は特にその感が強いように思います。

 とつまらないことを言ってしまいましたが。

 今後もよろしくお願いします。
返信する
きく (管理人)
2010-10-24 19:28:34
>ネアンデルタール様
 コメントありがとうと言うべきか、吾輩のブログのコメントですから、わたしがの考えを述べたいと思います。

>「世界や命の根源を一瞬にしてまるごと掴み取る」という意味だろうと思っていますよ。やまとことばの「き」は、そういう「世界の完結」あるいは「完結した世界」というようなニュアンスの感慨がこめられている音韻です。<

 やまと言葉における「き」については根源的な世界を追及していませんのでどうともことえられませんが、今回の「きく文化」の「きく」は現代の「聞く・聴く」世界の耳で感じ取る。音声の聞き取りという単一なことと違って、仏教的な「きく」の話です。

 したがって次のブログで法華経の法師功徳品19を紹介してありますが、ここでは「三千世界の声を聞かん」が説明されています。一般的な法華経紹介本では紹介されることもないもので、華厳の世界で森羅万象をきくこともありましょうが、ここではより具体的に語られています。

 その仏教思想がすんなり理解できるところに、古代精神史的なものと重なるのではということになります。道元さんの「きく」は「きく」先も含まれるので難しいという話だと理解しています。

 貴殿のコメントは掲出しませんが、そう理解してください。
返信する
Unknown (ネアンデルタール)
2010-10-25 07:04:41
最後にもうひとことだけいわせてください。
べつにこれはあなた個人に語っているのだから、アップしてくれなくてもけっこうです。
でも僕は、ただの嫌がらせではなく、それなりに言葉を尽くしたし、彼にとってももしかしたら参考になるかもしれないという思いはありましたよ。
でもあなたは、まったく無知な人間のたわごとだと「軽んじて」くれました。
僕が、音声のことだけに解釈し、「きく」の先のことも何も考えていないなんて、あんまりです。ずいぶん人をバカにしてくれるじゃないか、という思いはないわけではありません。
あなたたちは、自分の立場を守ることが大事で、真実なんかどうでもいいのですか。
僕は、自分のブログのコメントに対する返信に関しては、どんなレベルのものでも「軽んじる」ことだけはするまい、という態度でやっているつもりです。自分の記事を後回しにしても、返信だけはちゃんとしていこうと思っています。
自分の立場を守ることよりも、真実を「きく」という態度は失うまい、できるだけ相手の文意は正確に受け止めよう、とつとめています。相手がそれなりの思いを持って書いてきてくれたのなら、自分のことなんか同でもいい、という原則はあります。ときには、自分の仕事をほったらかしにしてあとで窮地に陥ることもしばしばです。

「きく」ということばには「はたらきを持っている」という意味があります。「腕がきく」というように。
とすれば、この場合の「きく」とは、この世界における仏のはたらきに気づく、という意味もあるのかもしれません。
そして、「風」ということばは、「無常観」を象徴していることばです。風は、「何もない」ということを教えてくれる。だから「風性をもしらぬなり」ということになる。
風は、風が吹いたことも忘れてしまうほど「無我」の状態にしてくれる。そうやって「風にきく」という体験がある。
「きく」とは「何もきかない」ということだ、と道元はいっているのかもしれない、と僕は解釈しました。道元のことばには、そういうパラドックスがたくさんちりばめられている。
まあ、あなたたちにはなんの参考にもならないド素人のたわごとでしょうが、ひとまずそういわせていただきます。


返信する
今後もよろしく願います。 (管理人)
2010-10-25 19:15:23
>ネアンデルタール様
軽率なコメント解釈だったようです。

最初のコッメントが
>○○○○
と私ではなく内容も私の理解不足か、貴殿の意に沿わないもののようでした。まったく私は貴殿を無知な戯言などといっていませんそれはこれまでも無かったはずです。
コメントの掲出は、あて先が違うと思い掲出しなかったただそれだけのことです。
貴殿が私にもつイメージがあるとするならば、全く180度異なるものだと思います。
なお断っておきますが、Gooブログは、コメント確認が画面を変えないとできません。朝の出勤時がに忙しい場合など、全くコメントが来ること(嫌がらせは別ですが)はないので、確認をあまりしないのが現実です。

最終のコメントの後半部、
>「きく」ということばには「はたらきを持っている」という意味があります。「腕がきく」というように。
とすれば、この場合の「きく」とは、この世界における仏のはたらきに気づく、という意味もあるのかもしれません。
そして、「風」ということばは、「無常観」を象徴していることばです。風は、「何もない」ということを教えてくれる。だから「風性をもしらぬなり」ということになる。
風は、風が吹いたことも忘れてしまうほど「無我」の状態にしてくれる。そうやって「風にきく」という体験がある。
「きく」とは「何もきかない」ということだ、と道元はいっているのかもしれない、と僕は解釈しました。道元のことばには、そういうパラドックスがたくさんちりばめられている。<

これについてはその通りだと私も考えています。
 最近は、いろいろと書きたいことがあるのですが、休日は冬を前に畑と庭木剪定で追われ中々時間が取れません。

今回のコメントは掲出しますが、今後怒りのコメントだけは勘弁してください。

一呼吸おいて、お願いします。私は悪人ではありません。

一日他人様に迷惑をかけない仕事に従事しています。それになりきっていますのでどうということはありませんが、せめて私の趣味のブログで怒りを感じてもらいたくありません。

 今後も宜しく願います。
返信する

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