思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

可謬性そしてノエマ、ノエシス

2005年07月07日 | 宗教
 分別智(知)を考える時、ポーパーの「可謬性」やフッサールの現象学上のノエマ、ノエシスのもつ意味も考えたくなる。

 精神医学上の二分法的思考もその極度の思考が人格崩壊に至るのであるから、生来的にもつその思考傾向を改めざるを得ない。

 個人の持つ真理の定義はそれぞれに異なり、グローバルな視点で見れば、家族から国家、宇宙に至るまで異なる。

 我々は、己の感覚で対称面をとらえ、己の内に対象物や対称面のもつ理(ことわり)を描き出す。
 ノエシスという働きかけが、ノエマという仮想的なものかもしれない対象物、対称面の理を描き出している。したがって対象物、対称面のもつ理は、実際(確認の術ははないが)として存在する物、理とは異なることもある。

 このようにフッサールの現象学から物事の捉え方をみると心に思うことは、はたして真理であるかは、それぞれ個人の勝手であるような気がする。

 次にポーパーの「可謬性」になるが、我々は個人の勝手で生きている。
 生かされていると思考できる段階にある人は、この言い方について批判的に思うが、意識段階の切り替えを行い考えてもらいたい。

 勝手に生きている人間は、相手と共存し生活を営むためには、ノエマを変化させる必要がでてくる。
 すなわち共存するためには、相手となる人物が心に描くノエマ(異なることは当然だがここではそうだとしてしまいます)に合わせることで、さらにノエシスという相手の意識の働きをも予想し、ある時にはそれに合わせないといけないときが出てくる。

 可謬性とは、個人の真理はあくまでも個人的なもので、誤りを当然に含んでいると考えられ、絶対的真理ではないということである。

 議論においては、「自分にも誤った部分もありますが、話し合いでどうにか互いに協調しあいましょう。」ということになる。

 社会生活で開かれた社会実現のためには、個人のもつ他人にとっては批判的な理性と思われる部分は、ある程度抑えることが大切だということにもなる。

 可謬性の心情は、分別の明滅段階で無分別智に至る経過段階では無いであろうか。

 そして、フッサールの現象学上のノエマは五蘊の作用で、ノエシスは内的な「色」といえないだろうか。すると「色即是空」は、無分別智が、ノエマ、ノエシスも無い段階であることを表しているのではないかと思う。

 そしてその段階では、「客観的な実体は、あるのであるが、また空(ない)でもある。」という表現になる。