思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

アスファルトのひび

2005年07月04日 | 宗教
 人間の意識は「分ける」ことによって成立する。光と闇、天と地など区別を明らかにすることによって意識が成立する。そのような区別は他の動物ももっている。それに加えて「自」と「他」の区別を明確にすることによって、明確な「自我」が生じてくる。

 これは日本評論社河合隼雄・成田善弘編集「境界例」の「二分法的思考へのプロテスト」の章に書かれた内容であり、臨床心理学の分野の境界性人格障害に関係する書籍内の内容である。

 仏教は、「分別」の教えであるとともに「無分別智」の教えである。

 釈尊がこの世と人生について知的作業を進めるに当たり観察と分析を行い、徹底した観察により知見したからである。その意味で前者の「分別の教え」ということになる。
 その後の仏教の発展において、いろんな仏教用語があるように細やかに人間の心、行動等について分析がなされている。

 後者の「無分別智の教え」であるが、これは悟りの行において分別心の消滅、分別心を惹起させないことに力点をおくことからその意味を知ることができる。

 無分別の実践には、多角的な見解がある。慈悲の教えや、諸高僧の教えの中の四行観などというもある。
 その意味では、慈悲は、釈尊の教えよりも、釈尊の無分別智の教えから発生する釈尊死後の釈尊お教えを分析して発生した教えであると思う。

 最近書店に「般若心経」の本を良く見かける。サイトにも数多く見かけるが、その中のひとつに「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時」を「聖なる観音菩薩は、深き無分別智(無心、はからいや、とらわれのない心)を行じ」と訳す人がおられて感動した。

 今日の写真はジョギングの際に、瞬間に出会うアスファルトのひび割れである。
 
 あるものの認識(アスファルトのひび割れ)は、過去に知覚したものと記憶と分析との照合で認知し成立するが、これは動物である人間の当然の分別から生ずる。

 しかし、ある時その分別心が起こらないときがある。ただそれだけの存在。
 この時「存在」と表現するが「有るがしかし無の時」を体感する瞬間がある。

 文頭に二分法的思考について書いたが、最近特にこの二分法的思考を極端に行う境界例の人々が増え、さらにそれが社会問題になりつつある。

 社会の流れは、全て縁起によるとするならば、巷の書店の棚の現象も理解できる。