思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

生の肯定、生の否定・いま本当に問われているもの

2011年07月19日 | つれづれ記

 最近ニュースを聞いていると「嘆き」の話ばかりである。人はそれぞれに時の流れの中に流され、その自由さを失い迷走するばかりに見える。

 養父母の面倒を見ながら山麓の中で住まいし、日々感謝の中にいる。精神疾患が加わり五大疾患の世の中になっていることの自覚が、問題意識の希薄が、ゲートキーパーたるものに欠如しているように思われて仕方がない。

 今問題になっている重大ごとは何か、究極は「生の肯定・否定」なのではないだろうか。

 放射能におびえる姿、被災者の中には疎開し、戻るか戻らないかで離婚にまで発展している例がある。

 ここにはもう正義論はない。垣根を超えた心の共有しかない。樹齢何百年の大木は、その地において、生の輪廻を繰り返し、人は宇宙の単なる一点、地球上の一点において、生の引継ぎで輪廻を繰り返す。

 出生率の現象は、自由選択における輪廻の否定であり、よくよく考えれば生の否定でもある。

 生の肯定、生の否定は、己だけの問題ではない。本当の意味での生の肯定、これがこの世の中で今一番必要としているように思えてならない。

<引用『ユング名言集』(PHP)から>

生の肯定、生の否定
                                         私たちが生を享(う)けた世界は、粗雑で残忍であると同時に、神々しいほど美   しい。したがってその中で、生きることが無意味かそれとも意味があるかそして、どちらが優勢であるかという判断は各人の性質によってきまる。
                                         無意味が断然優位を占めれば、時の経過とともに生を充実させる意味はしだいに減少していくとみられる。しかしそれは事実に合致しない。-----あるいはそのように私には思われる。

 おそらくすべての形而上学的な問題と同様に、生の解釈をめぐる正反対の二つの論議はともに真実であろう。生は意味があり、しかも無意味である。あるいは生は意味と無意味を共有しているというようにも表現できる。私は生の肯定論が優勢になり、否定論との闘いで勝つことを不安の念をまじえながら期待している。                                     〔思い出〕

<以上同書p123から>

 連休中にあづみ野コンサートホールで友人のコンサートが開かれ、久しぶりに歌を唄った。男性四重唱ワンダーQというのが彼らのグループの名である。全員私よりも年上で、学生時代から歌を唄いつづけている。

 ロシア民謡から地元の「穂高の四季」まで唄い最後にお客さんを含め全員でカチューシャとふりさとを唄った。

 実の善い時を過ごすことができた。感謝である。

お決まりのブログアップを終え、坐して、走り三昧に入ろうと思う。これが私のきょうのはじまりである。

 


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