最近のネットニュースで印象に残った記事に、N国党代表がマツコデラックスの言動に抗議するためにラジオ番組の放送局へ突撃を予告し実際に突撃したという話題があった。
有言実行、気に障ることに対しては即実力行使、高速道路ではあおり運転を行い、相手の車を停止させ殴る、などということを行う者もいる。
飲みすぎて覚えていないと車内に子を置き去りにし熱中症で死亡させてしまう母親の話もあった。
外国に目を向ければ日韓関係の話のズレには驚かされ、真剣なのか冗談半分なのか判断する基準をもてないような気がしてくる。
ある新聞記事を読んでいると、相模原殺傷事件から3年が過ぎ、植松被告は、意思疎通のとれない障がい者を「心失者(しんしつしゃ)」と彼は独自語で語り、それが日本の財政難をはじめ、さまざまな問題の根源である、と言っているようである。
無駄遣いの犯人探しをするとこのような論理が正当性をおび理性的判断を生み出し、衝動へと走り出させる。
人の存在するそのこと自体にそもそも存在能力があるからで、存在する能力がなければこの世に浮き出ることもない。存在し空気を吸い食生活をするという当たり前のこと自体存在能力であり他者からの命令ではなく自発的衝動だともいえる。転びそうになった子供に自然と手を差し伸べるように意識無き行動としてそれを「良心」と呼ぶ人もいる。
良心の呼び声は「現存在に他ならぬ自分自身の、自己として存在する能力を目指すように呼びかける性格をもち」そのことは「他ならぬ自分自身の、負い目ある存在へ呼び出すという仕方によってなされる」
などとハイデガーは『存在と時間』の中で語るわけで、良心の呼び声は常に負託されたものとして自覚させ彼を行動へと走らせる。彼は言うに違いない「私の良心がそう呼びかけるのです」と。
反社会勢力が持つ刃物(ドス)と外科医の持つ刃物(メス)がある。どちらも金属を研磨して物を切る道具として存在する。
私という主体の前に客体としてこの二つの刃物があるとする。この金属を研磨した客体(刃物)には善し悪しがあるわけではなく、主体の私がドスを悪とし、メスを善しとする。
世の中の事物・事象は無記であり、原子力技術も善し悪しの無記にある。しかし廃炉の話はこの無記という次元を超え、人間の禁断の技術を語っているようにも見える。
制御できない可能性の内に在る原子力。そもそも人間が手を出すことができる範疇に存在する。誰が何と言おうが、欲するものは叫び行動するのである。
多様性の時代という言葉をだれもが使う。最近耳にする言葉に「アスペルガー症候群と配偶者のカサンドラ症候群」がある。以前ならば性格の不一致で話は済んだが、今の時代何かと理由付きでないと今の私の立ち位置が見つからない、精神医学の発達はある意味人の立ち位置の発見でもある。
他人を気にしないと言えば、共感の心が喪失しているように見え、理由づけ解釈にのめり込むと「心失者」を生み出す。
自分にとっての正しさ、正義、理性、善的行動も、他者から見れば悪にも見える場合がある。
昨日は終戦記念日、昼少し前に有明山麓の標高650メートルに軽の街宣車が来て、終戦記念日だと言って平和憲法と安倍内閣批判を15分ほど語っていた。暑い中ご苦労な話で実に正しさの内に生きる人の激しさを見聞きした思いがした。