早朝山麓を一巡り。
正福寺の仁王門の柱に蜩(ひぐらし)のぬけ殻を発見。
さて今朝は、なでしこジャパンの初優勝から始まりました。やればできる、若者たちが興奮する姿が各所で見られました。東日本大震災から何かと沈みがちな日本、殻から抜け出し、新しい日本を力強く踏み出してもらいたいものです。
さて本論に入りますが、最近、「月読」に関わる話を書きました。そこで月つづきで今朝も「月」に関する話を進めたいと思います。
古典の中で月にかかわる話といえば誰もが「竹取物語」の説話を思い出すのではないかと思います。話の最後は月からの出迎えが現れ、かぐや姫は月へと帰って行きます。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると「竹取物語」は、
日本最古といわれる物語。『竹取物語』は通称で、『竹取翁の物語』とも『かぐや姫の物語』とも呼ばれた。成立年、作者ともに不詳。仮名によって書かれた最初期の物語の一つでもある。
と書かれていて、
光り輝く竹の中から現れて竹取の翁の夫婦に育てられたかぐや姫の物語。『万葉集』巻十六の第三七九一歌には、「竹取の翁」が天女を詠んだという長歌があり、この物語との関連が指摘されている。
と万葉集第16巻のことが書かれていて「天女」という言葉が出てきます。この説話に関係するものとしては、万葉集の他に『丹後国風土記』、『今昔物語集』などの文献、謡曲『羽衣』、昔話『天人女房』、『絵姿女房』、『竹伐爺』、『鳥呑み爺』などがあるようです。
「当時の竹取説話群を元にとある人物が創作したものと考えられる。」成立年代については、通説は「平安時代前期の貞観年間 - 延喜年間、特に890年代後半に書かれた。」ということです。
今朝の見出しは「疑いは人間にあり」で「月」に直接つながる題名ではありません。これからそれを関連づけていきたいと思います。
上記の竹取物語に関係する説話の中に謡曲の「羽衣」があります。わたしは「能」には全くの素人です。能を勉強したいと関連する本やEテレ、そして年に1回松本市と安曇野市で開催される薪能が唯一の勉強の場です。
幸いEテレでは関連する番組がよく放送されています。最近では「にほんの芸能」という番組が放送されており、能も取り上げられていました。昨日はそれらを録画しておいた7月15日に放送された「花鳥風月第14話・能~羽衣~」と6月に放送された「芸能百花繚乱~能を楽しむ~道成寺・八島・羽衣」を見ました。
「羽衣」は、誰もが知っている静岡県美保の松原の天女と漁師伯龍の話です。
昔々天空より美しい天女が舞い降り水浴びをしていました。
魚師白龍がその近くを歩いていると何とも言えぬよい香りと華やかな音楽が聞こえてくる。そして近くのおかれている羽衣を発見します。
手に取ってみるとこの世のものとは思えない美しい羽衣で、家に持ち帰ろうとします。
それに気がついた天女、それがないと天上界へ帰れないと、返してくれるように懇願します。
そのとき魚師は、天上界には天人の舞があることに気がつき、返すに当たり天人の舞を見せてくれと頼みます。
そして一言いうのです。衣を返した途端に舞を見せずに行ってしまうのではないかと。
その時美しい天女は、
「いや疑いは人間にあり、天に偽りなきものを。」
と答え、天女に一目ぼれた漁師ですが可哀そうに思い返そうとします。
そして天女は、月の舞を披露し、天へ去って行きます。
単純明快に約束事は守られ、不履行はない・・・・そういう話なのですが、ここで魚師伯龍に語られた、
「いや、疑いというのは人間にだけあること、天には偽りということはないのに。」
という言葉、言葉を変えれば、人間には疑念の心がもともと備わっているものと言っているわけです。
作者は世阿弥か否か不明とのことですが、私には本当に天の言葉のように響きました。
「疑いは人間にあり」
何百年も前に書かれた人間の手による戯曲。しかし普遍性を有する真実、これこそ偽りなき天女の言葉に聞こえます。
虚偽がない。嘘偽りのない世界。
天帝に仕える天女は、人間界はそうではないというわけです(作者は言う)。
だからいつまでも人間は問い続ける。問うとは納得できないから、落ち着かないから問う。
本当に問うているものは何なのか?
何なのかというよりも、そのように「ときめく」ように造られている。善きに、悪しきに心が躍るのです。
虚偽がない。嘘偽りのない世界。
とは縁起論、実相論と論ずるまでもなく目の前で展開されるそのものだと思うのです。
天の世界が月にあるわけではなく自然(じねん)として現れている。「ときめく」な!、というのではなくそのことを知悉して掴んでおく・・・・・そこが大事なのだと思います。
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