思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ハーバード白熱教室では語られなかった「対話型」(1)・「汝と我」

2010年10月30日 | 宗教

       (写真:昨年の10月31日の爺ヶ岳です。寒いですからやめましょう。明日は早朝から休日ですが別用で登りません)

 毎回ハーバード白熱教室を題材にしていると思われることでしょうが、通常ベストセラーにならない哲学の本が、片田舎の本屋さんにも並び確実に売れているのを見ると、ノーベル文学賞を逃した某氏の本とは、作られたベストセラーか否かはっきり示しているようにみえます。

 しかし出るくぎは打たれる的に、批判はつきもので、その中には対話型講義自体を「沈黙型講義」などとほとんどいやがらせ的か、偏狭的な懐疑主義者が実際いることは確かのようです。(断定してしまうといけないとは思いますが、思い入れが強いのでどうしてもそう言いたくなるのです)

 発言している学生以外は挙手をするか笑うかで、発言する生徒は秀才型、まるでシナリオがあるようにみてしまうのでしょう。しかしこの番組はドラマでも映画でもなく実際の授業なのです。それを懐疑的に観るとなると、そのように思う自分を疑った方がよいかもしれません。

 素直というよりも、ありのままを見る方が楽なのですが、・・・・といいながら一方考えること、思考することは現実を生きる上には健全な絶対条件であることのようにも思います。

 ※ 矛盾した話のようですが、矛盾と考えるとき、どこに矛盾する自分があるのか、それを見つけ出すのもまた何かを得ることになるように思います。
 
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 さて本論です。今朝はハーバード白熱教室で語られなかった「対話」について、二元論的な立場について書きたいと思います。

 ハーバード白熱教室では語られなかった「良心」(1)・一元論二元論の世界
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/c189471da3c0000fec0db24775ec114c

の中で、「良心」という言葉のもつ意味、

 ①「世間と共に知る」
 ②「神と共に知る」
 ③「自己自身と共に知る」

という石川文康教授の見解を書きました。言葉の性質からこの表現は意味的なことばかりではなく、「汝と我」という関係の対話型の表記になっていることが分かります。

②の場合には明らかにはその関係が示されよく分かると思います。そこには宗教的人間と対話的人間の関係も見て取れるのではないでしょうか。

 私は専門家ではありませんのでいつも専門家の書籍を参考にしていますが、今回はルター研究家で知られる金子晴勇先生の名著『対話的思考』(創文社)を参考にして話を進めたいと思います。

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 ソクラテスが問答法により心理を探究した哲学者であったことは誰もが知るところだと思います。一方イエスキリストは、どのような方か、・・・・イエスは神の子です、が本質的には宗教的人間であったともいえると思います。

 しかしこの宗教的人間は彼の下で対話的人間と重なっています。どういう意味かといいますと、神の前で、また人々の前で語るイエスの姿は、宗教的、対話的人間の典型であるということです。

<聖書参照>

 イエスは永遠なる神との絶対的関係のなかで、もっぱら先に言いましたがもっぱら「子」であり、まさしく子としての彼イエスの汝を「父」と呼んでいます。

 そしてかかる父子の人格的汝関係のなかで彼は人々を招き入れ、交わりの共同を生きぬこうとします。

 また、わたしは彼らのためだけではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じる人々のためにも祈ります。

 どうか信じるすべての人を一つにしてください。

 父よ、あなたがわたしにおり、わたしがあなたにいるように、彼らもわたしたちにいるようにしてください。

 そうすれば、この世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるでしょう。
 
 わたしはあなたから賜った栄光を彼らに与えました。

 それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
                                      (ヨハネ17・20~22)

 イエスの宣教はこの交わりの共同を実現するための人々への呼びかけです。

 <以上同書p17~p18参照>

 ここで宗教的人間は不可逆性という神の言葉の絶対性はあるものの、神に対する立場は対話的人間です。そしてイエスが宗教的人間となり宣教を始めるとき神との交わりのある共同体の実現を人々に呼びかけます。

 マルコの福音書の5には「ゲラサの悪魔つきの話があります。悪しき霊につかれた人々とのめぐりあい、邂逅(かいこう)の話があります。

 金子先生は、ドストエフスキイの『悪霊』の物語に登場する悪霊は、

 悪しき観念の虜になった人、つまり西洋の無神論とニヒリズムに感染した人

を指すと表現します。マルコの福音書の悪霊はイエスに走り来てひれ伏して次のように対話を試みます。

 いと高き神の子イエス、わたしをどうしようというのですか。神のみ名によってお願いします。どうかわたしを苦しめないでください」(5-7)

と語ります。悪しき霊は「私をほっといてくれ」と叫んで、汝関係を拒否します。悪しき霊につかれた人は他者との交わりを断ち切り、自己の内に閉じこもり、ここで金子先生は「倨傲(きょごう):おごりたかぶる」という言葉を使っていますが、

 倨傲にも自己を絶対視し、狂気の如く粗暴な振舞いをしている。

と表現しています。

 マルコの福音書はその様子を墓を住処とし、鎖を引きちぎり昼夜絶え間なく叫びまわっていたと告げています。

<同書p19引用>

 イエスは他者のために献身した人であるから、イエスと悪霊とは決定的に対立している。また、イエスは一人の単独着であるのに、悪しき霊の名は「レギオン」、つまりローマの一軍団に等しい多数であって、大衆の生き方をしている。さて、イエスにより悪しき霊は追放される。この「悪魔祓い」の奇跡物語には民間説話や民俗的物語またメルヘンが使われているかもしれない。しかしレギオンという名前をもつ癒された人はイエスとの交わりを願い求めていて、以前にはイエスとの交わりを拒絶したのに今や交わりのなかで新しく生まれ変わっている。聖書は彼が以前は裸で叫んでいたが、今や着物をきて静かに語る者となっている有様を述べている。ここにイエスとの邂逅と対話の事実があって、奇跡物語が伝達している真の現実は「対話の奇跡」であることが知られるのである。

<引用終わり>

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 突然「宗教的人間と対話的人間」の話として聖書の話をしました。
 
 対話は対話として成立するには、そこにいる対話的人間の特徴等により状況は異なります。
 
 詩人・思想家・宗教家・芸術家・科学者・政治家・実業家・労働者・学生・主婦等それぞれの集団はそれぞれの対話的な特徴点を有します。金子先生は、

>彼らはあらゆる社会の中で外面的な装いをもって現れるので、外的な観察ではとらえられない。<

といいます。つまり客観的には特徴点はとらえにくいと語っているのですが、漠然とした類型として前置きし、R・L・ハウ「対話の奇跡」の4つの特徴点をあげています。

① 対話的人間は真正な人間である。
② 対話的人間は素直な人間である。
③ 対話的人間は熟達した人間である。
④ 対話的人間は他者にかかわる人間である。

一つの対話型の特徴点を語るものです。さらにアメリカの倫理学者リチャード・ニーパーの考え方も示しています。彼は対話的人間は応答的人間とみなしこの人間の特徴点を「責任性」のシンボルとしてとらえ、二つの有力な人間像と対比して論じています。

<引用同書『対話的思考』p7>

 二つの人間像のうちの一つは制作的人間であり、これはある目的に向かって行為し事物に形を与えてゆく形成的人間である。もう一つは市民的人間で法のもとに生きる義務に服するタイプの人間をいう。これに対して応答的人間は対話に従事している人間で、他者の自己に対する行為に応じて行為する人間をいう。

 制作的人間の動機は「私の目標は、理想ないし目的は何か」と問うことによって成立する「目的性」であり、市民的人間の動機は「法とは何であるか、道徳法則は何を命ずるか」を問う義務論的「道徳性」にあり、応答的人間のそれは決断という選択のあらゆる瞬間に「何が起こっているか、いかに対処するか」と問う「責任性」にある。
 
 この三つはアプローチの相違は「善さ」、「正しさ」、「適切さ」をそれぞれの行為のなかで問題にして追及している点に求められる。
 
<引用終わり>

と解説しています。これだけでも十分に対話型に登場する人物像の特徴点と在り方を理解できそうですが、最初に示した「宗教的人間と対話型人間」には行き尽きません。

 次に登場する類型化が「ブーバーによる類型化」です。


<引用上記書p8.>

 ブーバーによる類型化 対話的人間をとらえるもう一つの視点はマルティソンブーバーの名著『我と汝』によって確立されている。彼は人間が世界に対して語りかける態度のなかに二つの根本的な対立を見ている。「汝」と「それ」の対立がこれであって次のように述べられている。

 世界は人間にとっては、人間の二重の態度に応じて二重である。
 
 人間の態度は、人間が語り得る根元語が二つであることに応じて二重である。
 この根元語とは、単一語ではなくて対偶語である。
 
 根元語のうちのひとつは対偶語、我---汝である。
 
 もう一つの根元語は対偶語、我---それであり、この場合には、それを彼あるいは彼女のいずれかで置きかえても、その意味するところに変わりがない。
 
 このように根元語が二つあるからには人間の我もまた二重である。
 
 なぜなら、根元語・我---汝における我は、根元語・我---それにおける我とはことなっているからである。

 「汝」と語って呼びかけることによって開かれてくる関係のなかにたっている人間こそ対話的人間であり、人間をふくめてあらゆる実在を「それ」という単なる物的対象として扱う非人格的人間と区別されている。対話的人間の特徴をもっとも簡潔にこの区別は指摘している。しかし、対話をこのように「語る言葉」に限定することは狭義においては正しいが、対話は広義において発語されない本性上「無名」なものにも関わらせることができる。

 つまり言葉という象徴的語音の手段による交わりのみならず、主体と主体との間の相互的交わりのあらゆる形式を含むものとならなければならないように思われる。
 
 ブーバーによってもっとも簡潔でしかも明確に示された対話的人間の類型をいま述べた修正を加えながら、歴史上の人物のなかにたずね、この人問のイメージをその具体的な形姿において求めてみたい。このように探求してみると対話的人間が他の人間類型と重なり、多様な形態をとって実現していることが知られる。

<引用終わり>

以上のように述べ、金子晴勇先生は『対話的思考』の中で

○ 演劇的人間と対話的人間

○ 宗教的人間と対話的人間

と類型化し語り、上記の聖書による「宗教的人間と対話的人間」を語っています。

ここで見て取れるのは、『我と汝』の関係が冒頭の「共に知る」という「良心」にも関係しているということです。しかも二元論です。内包する関係ではなく自己と他者の関係です。

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 西洋的な「良心」の二元論は、『我と汝』に関係し私は特に「宗教的人間と対話的人間」関係において成立しているように思います。しかしこれは私の独創ではなく『良心論』(名古屋大学出版会)の石川文康先生の良心論の根底をなすものです。

 断っておきますが、今朝は聖書を問題視しているのでものでもなく、ましてキリスト教を批判しているわけでもありません。

 さらに思考を進めると「宗教的人間」という聖書ならばイエスキリストですが、現実の社会には「宗教的人間」すなわち「汝と我」の関係が散見され、その中に宗教的人間を装った語りを見ることがあります。

 ですので非常に興味を持つのです。そこでさらに思考を展開します。

 「悪霊の叫び」は逆思考で考えるとどのような叫びとなるのでしょう。
 
 わたしをどうしようというのですか。
 神のみ名によってお願いします。
 どうかわたしを苦しめないでください。

という叫びの中にあなたは何を見ることができるのでしょうか。

 今朝も取りとめのない話をしてしました。いつもの口癖、知らなければ通り過ぎる話ですが、ハーバード白熱教室は、実に示唆に富んだ素晴らしいものを私に残しています。


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2 コメント

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Unknown (ネアンデルタール)
2010-10-31 08:50:41
いいたいことはいろいろあるけど、それはともかくとして、僕は、ひとまずあなたとtenjin氏に、道元の言う「きく」という言葉を一緒に探求しようじゃないか、と持ちかけたのですよ。「課題だ」といって立ち止まっているわけにいかないじゃないか、といったのです。
でもあなたは、その「対話」を拒否された。
そのときあなたはほんとうに、「対話」の姿勢をとりましたか。
僕が怒っているとか、あなたがつつましく善人として生きているとか、これはあなたの趣味の世界だとか、そんなことはどうでもいいことですよ。
ひとまずここに、そのことばが投げ出されたんじゃないですか。
そして僕は、その「きく」ということばに反応した。僕の反応の仕方なんか、下品だろうとなんだろうと、あなたにいちいち指図されるいわれはありません。
あなたが「対話」を拒否して、「よけいなことをいってくるな」と僕に指図してきたのは、あなたの支配欲ですよ。
このごろあなたは、ものすごく自己肯定的ですよ。自己中心的ですよ。そして何もかも自分の都合のいいように解釈して「腑に落ちた」だの「感動した」だのとおっしゃる。
それでは、思考の「展開」なんか、生まれてこないですよ。展開してこその「思考」でしょう。
あなたはこのごろ、すごく人を裁くようになられた。そしてその傲慢を、有名人の言説に「感動した」だの「腑に落ちた」だのということで帳消しにしておられる。
僕は、あなたがこのごろどんどんそんな方向に居直って思考が停滞していっているように思えてなりません。それが、気になってならなかった。
親鸞だって道元だって、自分なんか地獄に堕ちても仕方のない悪人さ、というところで考え、生きていたはずですよ。
「私は悪人ではありません」なんて、なんという傲慢な言い草ですか。そんなことは、他人が決めてくれることだ。自分で勝手に決めることじゃない。
あなたは、ほんとうに「対話」をしていますか。
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謙虚 (管理人)
2010-11-01 09:32:38
>ネアンデルタール様
コメントありがとうございます。

謙虚というと傲慢にとらわれてしまいそうですが、

>あなたはこのごろ、すごく人を裁くようになられた。そしてその傲慢を、有名人の言説に「感動した」だの「腑に落ちた」だのということで帳消しにしておられる。<

これは全く考えていなかったことだけに、深く考えてみたいことだと思っています。

これは謙虚ではなく、真実そう思うのです。

今回、緊急避難の問題について2回掲出しました。あるサイトにコメントをしたことが原因しました。

 「恥を知りなさい」的なことを言われ、それ以上反論する気にもなりませんで早々退散しました。

 毎日欠かさず書いていることはその時にまたは、ある一定期間考え続けていることを記載しています。

 自分の心理状態を検証することは不可能に近くそのように指摘されると、そうなのかもしれないと思うわけです。

コメント本当にありがとうございます。
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