思考の部屋

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エルサレム34億人の聖徒

2006年09月24日 | 仏教

 昨夜NHKの世界遺産の旅「エルサレム34億人の聖徒」を見た。NHKの取材番組いつも感心させられる。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の聖地エルサレム。聖地を取材するに死を覚悟をするようなところが他にあるだろうか。

 旧約聖書の世界、新約聖書の世界、イスラムコーランの世界。この世界に共通する神は一つ、一神教の世界である。民族と宗派が複雑に絡み合っている世界が映し出された。

 「コーラン第10章37節」には、
 このコーランは神をさておいて捏造されるようなものでなく、それ以前に下されたもの(旧約聖書・新約聖書)を確証するものであり、万有の主よりのまぎれもない啓典を詳しく説明するものである。
と書かれている。(マホメット 藤本勝次著 中公新書P39引用)

 単一の、共通の神であるから宗派と私は表現するが、各宗派は、信仰の対象である神を、日常的にその論争の基にしているのではないことは画面からはっきり分かる。聖地が同一のところが根源だ。

 最大の問題は、イスラム教の関係者が「各人の心の問題」と述べていたのがそのとおりだと感じた。真理を伝える教えの正当性を各派が妥協無き主張をするところにその不幸の源にあるのだが、真理という「形而学上の問題」をあたかも心の外、身の外にあるとする民族が抱える過去からの業は、消えることはないであろう。

 紛争といえば、領有権を問題にするカシミール地方が思い出される。インド、中国、パキスタンの三国による領有権争いである。
 このカシミールの民は、イスラム教徒でイスラム教の中でもイスラム神秘主義に属する。ここにいうイスラム神秘主義は、人間は神が具現されたものであるという考えで、「神とは私だ」という。

 集団で瞑想し、他のイスラム教徒のような神へのひれ伏しはない。信仰は個人の努力に求められ、仏教における「自灯明」に似ている。

 その信仰形態に至る道は長い。そもそもこの地方には、古代汎神論的な信仰がなされていた。自然の個々に神が宿るとするものであった。その後インドから釈尊の仏教がきて仏教が盛んになり、弟4回仏典結集はこの地で行われている。鳩摩羅什も玄奘もこの地を訪れたのは承知のとおりである。

 しかし、9世紀に入るとインドの仏教が衰退するとヒンデュ(ズ)ー教に変わる。女性聖者シバァ・シャクティーが「地上のすべてに神が宿る」と信仰指導した。
 このことから自然と人間の一体感という古代からカシミールの民に引き継がれている業に共鳴し、その後14世紀にイスラム教がこの地に入ってきても、「人も動物もアラーの神が作り出したもので平等である。」と、ラルディッド14世という指導者が信仰指導するなど、民の信仰心の形態は完成をみ、今日に引き継がれている。

 私は、カシミールの民の信仰形態は、神の存在を内に観る形態であると思う。真理をその身の外に求める間は妥協のない信仰が貫かれる。エルサレムの各派の人々を見るとその信仰は、壁にあり、場所にあり遥か遠くの神に向いている。

 日本人の神父さんが、時間を超えてその場所の信仰でなくイエスの復活、イエスとともにあることの実感というようなことを話されていたが、それでも主体は未だ外に出ることが可能という、「自性」があるという段階を離れていない。

 自灯明の本来的な意味は、一毛大海の境地にいたるときにしか理解できないのだろうか。
 不幸なことだが、エルサレムという聖地が信仰とともにあるうちは何も変わることはないと思う。


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