思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

身を鴻毛の軽きにおく

2008年07月07日 | 仏教
 「自分が自分で自分を自分する」
 というこの言葉は、沢木興道老師の口ぐせであったことを無量寺の青山俊董先生から教えてもらいましたが、もう一つ沢木老師の言葉に
 「仏法とは此方(こちら)の目や耳や頭をかえることじゃ」
 という言葉もあることを知りました。

 此方とは「わたし」のことで、私の持ち物である心の視点を変えるということを意味していると思います。
 いわゆる心のもちようでものの見方も変わるということだと思うのです。
 
 今日の写真は、剣道大会の写真です。
 昨年も観にいったのですが、きのうは青少年育成剣道大会がありました。
  今日はその剣道大会で思ったことについて書きたいと思います。

 剣道にも関係するのですが、漢文によく出てくる言葉で「身を鴻毛の軽きにおく」という言葉があります。この言葉は、太平洋戦争中は「特攻隊」の精神のイメージが強く、また、この言葉の使用法を誤り失敗した政治家もあり最近ではあまりイメージのよくない言葉になっているような気がします。

 剣というと最近ではナイフと同様に「持凶器」のイメージが強く、言葉を変えると「凶器不祥」というイメージが強くなってしまいました。
 しかし、剣といっても剣道の剣は、剣道にみるように「礼に始まり、礼に終わる」精神修養の道であり、「身(み)」というものの「あるべき姿」を作り出すものだと思います。

 剣道の流派には「直心、神道、無敵、無念、天心・・・」などの名称があり大森曹玄先生は、「剣と禅」(春秋社)の中でこのような流派の名称には、

 「勝敗の両頭を超越し、人間本来の根源的な主体を剣のはたらきの上に発露して、自在を得ようとするのが剣の道というものであります。逆にいえば、剣の作用を凝視して、そこにそこに流れ出てくる人間という、その未知なるものをつかもうとする道であるといってもよいと思います。剣の道は殺し合いの術ではなくて、実に人間の道なのであります。ここに本質的に剣と禅とが一如なる理由があるのであって、かならずしも剣の妙を得るために禅の力を借りることを禅剣一致というのではないと思います。」

 と語っています。

 今日のブログは「身を鴻毛の軽きにおく」という言葉を主題にしたいのですが、現在の剣道はどうしても思考の世界に二元的な志向性の視点を持ってしまい、「心の自在」「無心」などの中に「身体」から出(いず)る無我の作用、動作に惹かれていると思います。

 あるべき姿は、そうではないと思います。「身(み)」というときの「み」は、やまと言葉です。
 植物になる「実(み)」と同じ言葉です。もの的(やまと言葉のもつ動作、作用、はたらきの視点で言葉にすること)に思考すると「み」とは「結実なるもの」を意味します。
 意味といっても「はたらき」ですので動詞的にとらえることをいっています。

 表現が分かり難いというか、どうしても自己満足的な表現になってしまうのですが、沢木老師のいう「私」「此方」が「結実なるもの」のはたらきを表していると思うのです。
 ところが二元的な世界でみてしまうと「重み」「厚み」の無い私で、自在に、事態に対応し、変化する姿に見えてしまいます。

 しかし、結実なる「私」「此方」は、「重みのある」「厚みのある」はたらきのうちにあるものだと思うのです。正義を決する私は、不動なる結実した私でありながら鴻毛の軽き動きを示し、事象に対し「自在」に対応できる。
 「身を鴻毛の軽きにおく」が「命を鴻毛の軽きにする」になるとき、それを美とする思考は、超越的なものに絶対性をおく二元的な思考のあらわれです。

 豆剣士の姿をみながら思いました。

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2 コメント

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Unknown (だんご)
2008-07-07 11:27:42
剣道と言えば、森田健作主演の「おれは男だ!」が有名です。
ドラマのなかで主人公は老婆から「滝の水は何故下に落ちるか?」と尋ねられました。「万有引力の法則だ」と言ったところ、あたまを滝の水で冷やした方がいいといわれました。結局主人公がたどり着いたのは「悔いのない青春を生きることだ」と言う答でした。
(おれは男だ! 第33話「なんたって若いんだモン!」1971年12月5日放映)
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本心 (管理人)
2008-07-07 19:30:40
 私も「おれは男だ」を毎回見ていました。その当時聞いていたのかもしれませんが「滝」の話は知りませんでした。
 滝は、「垂水」といいますが、水が流れゆく速さを「垂れる」という表現で表しています。
 青春期は、速きに過ぎた気がします。沢庵さんの「不動智神妙録」に「本心妄心」というのがあります。 
 心を一つの事に止めてしまうことは、水を氷らせてしまったようなもので、氷が自在に使えないように、心も自在に働かせることが出来ません。身体中に水を行き渡らせるように、心をのびひろがせ、その上で自在に使いこなす、これを本心という。
という話です。若いときは、悔いのない、実のある基盤をつくってもらい、壮しても頑張りが利く大人になってもらいたいものですね。
 コメントありがとうございます。
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