思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

維摩の一黙、響き雷鳴の如し

2008年07月13日 | 仏教
 昨日は、仏教哲学者の鈴木大拙先生の命日でしたので、時間が無く今日掲出することにしました。

 読み進めている本の中に一冊に鎌田茂雄先生の書籍がありその中で鈴木先生の思考の世界について興味深い話を知っり、それが命日の前日でした。

 「不二法門」と維摩の沈黙については前にも掲出していますが、文殊師利がぎりぎりの答えを出し、最後に維摩に質問する。「私たちはみな、自分の考えを話しました。今度はあなたの番です。不二法門に入るにはどうしたらよいですか」と。固唾をのんで待つ菩薩。これに対し維摩は黙然として答えない。

 この一連の流れにおいて、「維摩の一黙、響き雷鳴の如し」をどのように捉えるか、について鎌田茂雄先生の「華厳の思想 講談社学術文庫」に、鈴木先生の維摩の沈黙について次のように書かかれていました。
 維摩の一黙を、沈黙の意味に理解してはならないことを鈴木大拙博士はつぎのように言う。
普通には維摩の一黙をしの黙にのところに解(げ)すのであるが、自分の考へではさうでない。この一黙は、不言不説ではなく、凝然不動でなくてはならぬ。黙を言説のの上に見ようとするのは浅い、印度流である黙のうちに維摩その人を見なくてはならぬ。黙の中に維摩は跳ってゐるのである。骨を父に還し、肉を母に還して、然る後、その本身を現じて、父母のために、真実の法、不二の法門を説く那咤太子その人がここにも拝まれなくてはならぬ。維摩はここで南無阿弥陀仏の体を示してゐるのである。それ故、文殊はこの一黙の上にこの体を看取しなければならぬ。維摩の黙は維摩拠坐(きょざ)である。(『鈴木大拙全集』第十五巻、三八一ページ。)
 世界的な禅学者である鈴木大拙博士の理解は、ふつうの仏教学者と見方が違う維摩の黙をけっして沈黙から見ることをしない。維摩の黙ではなく、維摩即ち黙であるという。維摩の外に黙があるのではなく、また黙を離れて維摩を見るわけにもゆかぬという。黙と維摩とは同一事実であり、文殊の面前にはただ黙が坐しているだけにすぎない。
 維摩が文殊の面前に拠坐しているということは、その居場処を離れず、そのままじっとしていることだ。具体的で、現実的で、絶対性を持ったものがそこにある。もっとも絶対的なものは、もっとも現実的でなければならぬ。

またまた思考の視点が揺らぐ。

 「沈黙」というとみている私があり、「黙」というと「黙」を維摩の身にある働に、私はみなければならない。そのように理解するのですが、それにしても深さのある視点は限がないように思う。

 今日の写真は、松尾寺の水車小屋と紫陽花である。水車の水音に小鳥の声、静寂の中の自然の形像である。
                               

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2 コメント

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Unknown (だんご)
2008-07-13 13:12:13
今日の写真の処で、野立てでよいので一服飲みたいものです。自然や鳥の声などがオーケストラですね。
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失礼いたします。 (tenjin95)
2008-07-13 15:05:29
> 管理人様

昨日が命日でしたか。
すっかり失念しておりました。多忙というのはダメですね・・・
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