哲学好きな人にはたまらない、ハーバード白熱教室。16日(日曜日)は、前回までの講義とともに、カント哲学とは何たるかがわかる講義でした。
参考書による理解と、この講義を聞いての理解では、理解の深度と何を求めているのかという方向性がわかってきます。
次のLecture14「契約は契約だ」でジョン・ロールズの「正義論」から政治哲学にはいっていきますが、その理解のためにもしっかり掴んでおきたい講義です。
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ハーバード白熱教室弟7回「嘘をつかない練習」
Lecture13「嘘」の教訓
サンデル教授 今回の授業では、最高の道徳を追及するカントは、どんな場合でも嘘をつくことを認めませんでした。果たしてそれは可能なのか、そして現代社会では不可欠の契約と言う行為についても考えていきましょう。
「嘘」の教訓
サンデル教授 前回の講義は、カントの道徳理論をひと通りみていくことからはじめた。さて『人倫の形而上学の基礎づけ』で述べられている、カントの道徳理論を理解するには、三つの質問に答えられることが必要だ。
義務と自律とは、どうやったら両立できるのか?
義務に答えるということにおける重要な尊厳とは何か?
義務と自律という二つの観念は、一見対立しているように見える。
これに対するカントの答えは何か、誰かに説明してもらいたい。カントには答えがあるのかどうか。
マット カントの考えでは、人間が自律的に行動しているといえるのは、義務という名のもとに、何かを追究しているときだけ、自分の個人的な利益のためではなく、義務のために何かよい道徳的な行為をしているときだけだからです。
サンデル教授 その行為は、なぜ自由から生じたといえるのかな?
マット 道徳法則を受け入れることを、自分で選んでいるからです。強制されたのではなく。
サンデル教授 よろしい。義務から生じた行動が、のとっている道徳法則は?
マット 自分で自分に課したものだからです。
サンデル教授 自分で自分に課したものだから、それが義務と自由を両立可能にする。
マット はい。
サンデル教授 よろしい。その通り。それがカントの答えだ。ありがとう。
カントは、私は法に従っているから、私には尊厳がある、とは考えない。いやむしろ、まさにその法に関しては、私が創作者なのだ。
そして私がその法に服している理由は、私がその法を引き受けたから、マットの言葉でいえば、自分で自分に課したものだからだ。私がその法を望んだからなのだ。
それがカントにとって、義務にしたがって行動することと、自由に行動することが自律という意味において同じである理由だ。そこから次の疑問が出てくる。
道徳法則は幾つあるか。なぜならもし尊厳が、私が自分で自分に課する法によって統治されることになるのであれば、私の良心が君の良心と同じことを保証してくれるものは何か?
これについてカントの答えは、君。
ケリー 道徳法則は主観的な条件には左右されません。個人の間の違いをすべて凌駕(りょうが)するので普遍的な法であるわけです。つまりそれは究極的な法なので、世界にはひとつの法しか存在しません。
サンデル教授 そう、その通りだ。カントの考えでは私達が、自由に良心から道徳法則を選べば、私たちは唯一の同じ道徳法則にたどり着けることになっている。
ケリー はい。
サンデル教授 なぜかと言うと、それは私マイケル・サンデルが選んでいるのではなく、ケリーがケリー自身で選んでいるのでもないからだ。
それは正確にはどういうことか。選択しているのは誰か?
誰が主体、行為者なのか。選んでいるのは誰か?
ケリー 理性。
サンデル教授 そう理性?
ケリー 純粋理性です。
サンデル教授 純粋理性。純粋理性とは正確には何のことかな?
ケリー 純粋理性とは、さっきも出ましたが、どんな外部条件にも左右されずに自分自身に適用されるものです。
、
サンデル教授 そう、その通りだ。望むことをする理性。つまり、私が道徳法則を望むときに、私の意思を支配する理性は、君が君自身で道徳法則を選ぶときに働く理性と、一致するのだ。
ケリー はい。
サンデル教授 だから、それが自律的に行動すること。自分で選択すること。一人一人が自分自身の意思で自律的な存在になろうとすると、その結果として、全員が最終的には、同じ道徳法則、つまり定言命法を望むことになるのだ。
ところが、だとすると大きな難問が一つ残る。マットとケリーが言ったことをすべてその通りだと受け入れたとしても、定言命法はどうやったら可能になるのか。道徳性はどうやったら可能になるのか。
この問いにカントは「区別することで可能となる」と言っている。私たちは自分の経験を理解する、二つの立場を区別する必要がある、と言う。
これら二つの立場によってカントが何を意味したのか説明しよう。
経験の対象としての私は感覚の世界、感性界に属している。そこでは私の行為は、自然の法則や原因と結果の規則性によって決まる。
しかし経験の主体としての私は知性によって理解可能な世界、叡知界(えいちかい)に住んでいる。ここでは、自然の法則の支配を受けずに、私には自律の能力がある。
つまり私は、自分で自分が与える法によって行動できるのだ。カントの考えでは、この二番目の立場からのみ、私を自由だとみなすことができる。なぜなら原因による決定の支配を受けないということは、自由であるということだからだ。
もし私が功利主義者が考えるような、経験主義的存在であった場合、もし私が、苦痛と喜び、飢えと渇きと食欲などの自分の感覚だけに支配される存在であった場合。
もしそれが人間性のすべてであるとすれば、私たちに自由の能力は無い。とカントは論じた。なぜならこの場合、意思の実行はすべて何らかの対象に向けられた欲望によって条件づけられているからだ。
この場合すべての選択は、他律的な選択であり外部の目的を追求することに支配されている。
我々が自分自身を自由だと考えるとき、我々は叡智界の一員として、意思の自律性を認識する。
とカントは述べた。これが二つの立場についての考え方だ。ではどうやったら定言命法は可能になるのか、その理由は、ただ自由という考えが私を叡智界の一員にするからである。
カントも認めているが、私たちは理性的な存在あるだけではない。私たちは、叡知界、つまり自由の領域だけに住んでいるわけではない。
もしそうだとすると私達の行為すべては、必ず、常に、意思の自律性と一致するだろう。しかし同時に二つの領域、自由の領域と必要の領域という、二つの領域に住んでいるからこそ、常に両方の領域に住んでいるからこそ、私たちがすべきこととすべきことの間には、常に潜在的な隔たりがあるのだ。
何々であると、何々であるべきの違いがある。
この論点を別な方法で説明しよう。カントはこの説明で、『人倫の形而上学の基礎づけ』を締め括(くく)ったが、道徳性は、経験的なものではない、ということだ。
この世界で何を見ようが、科学を通して何を発見しようが、道徳的な問題を判断をすることができない。道徳性は経験主義的なこの世界から、一定の距離を置いて存在している。
それが科学が道徳的真理を導き出せない理由なのだ。
ではカントの道徳理論をカントが提起した最も難しい状況で考えてみよう。
人殺しが来たらどうするかだ。
カントは嘘はいけないと言う。その理由については、話し合ってきたが、嘘をつくことは定言命法とは相入れないからだ。
フランスの哲学者ベンジャミン・コンスタンは、『人倫の形而上学の基礎づけ』に対し論文を書き、
「嘘をつくことを完全に禁止するのは間違っている。それれが正しいはずがない。」
と述べた。もし殺人犯が、君の家に隠れている友達を捜して玄関に現れたらどうする。殺人犯から、単刀直入に「友達は家にいるのか?」と聞かれたら、どうする。
哲学者コンスタンは、そんな場合であっても道徳的に正しいのは、真実を告げることだというのはおかしい、と述べた。コンスタンは、殺人犯は真実を告げられるには値しない、と主張した。
それに対してカントはこう答えた。カントは、「嘘をつくのは間違っている。」という原則を譲らなかった。
例え家にやってきた殺人犯に対しては、そしてそれが間違っている理由は、
帰結を考慮に入れはじめると定言命法に例外を設けなければならなくなり、道徳の枠全体をあきらめることになってしまうからだ、と述べた。
そうなれば帰結主義者か規則功利主義者になってしまう。しかし君たちの多く、そしてカントの読者の多くは、この答えには納得できないのではないかと思う。
この点について私は、カントを弁護してみたい。そして君たちが、私の弁護を聞いて納得するかどうかをみてみたい。
私はカントの弁護を、カント自身の道徳性の説明の精神の範囲内で、行ってみたい。
さて、殺人犯が君の家の玄関にやって来て、「友だちはいるか?」と聞く。 君は、友だちをかくまっている。嘘をつかずに、かつ友達を売り渡さないで済む方法はあるだろうか?
誰かいいアイディアがある人は? 君。
女子学生 私だったら、かくまっている友達と前もって打ち合わせをしておいて、もし殺人犯が来たら「あなたがここにいる」て言っちゃうけれど、「逃げてね」と言っておきます。(会場笑い)でも選択肢の一つでしょう。
サンデル教授 カントはその選択肢を選ぶかな。それはやはり嘘だ。
女子学生 いいえ。友だちはまだ家にいます。後で出て行くけど。(会場笑い)
サンデル教授 あ、そうか。よろしい。もう一人聞いてみよう。
ジョン 友達がどこに居るか知らないと言ったらどうでしょう。友だちはクローゼットから出て行ったかも知れないから、どこにいるかわからない。
サンデル教授 だから知らないと言ってもいいわけだ。君はその瞬間、クローゼットの中を覗いてはいないわけだから、それは嘘にはならない。
ジョン そうです。
サンデル教授 だから厳密に言えば真実だ。(会場笑い)
ジョン はい。
サンデル教授 だが、人を欺くような、誤解を招く言い方だよね?
ジョン でも真実です。(会場笑い)
サンデル教授 ジョン、結構。ジョンはいいところに気がついたかもしれない。ジョン。君は、賢く言い逃れるオプションを提示してくれた。それは厳密に言えば真実だ。
ここでひとつ疑問が生じる。あからさまな嘘と、誤解を招くような言い方で述べられた真実との間に、道徳的な違いは、あるのかないのかという、疑問だ。
カントの考え方からすると、嘘と誤解を招くように言い方で述べられた真実の間には、大きな違いがある。それはなぜか。両方とも同じ結果を生むかもしれないのに、なぜ違うのか。
ここで思い出して欲しいのは、カントは道徳性の基礎を結果には置かない、ということだ。カントは、道徳性の基礎を道徳法則の形式的な遵守に置いている。
さて、日常生活の中で私たちは嘘をついてはいけないという、ルールに、嘘も方便という例外を設けることがある。
例えば、人の気持ちを傷つけないためにつく嘘は、嘘ではあるが、結果によって正当化されると私たちは考えるのだ。カントは嘘も方便には賛成はできないが、誤解を招くような真実には賛成できるかもしれない。
例えば、誰かからネクタイを貰ったとしよう。箱を開けて見ると、ひどい代物だった。さあ何と言う。
某学生 ありがとう。
サンデル教授 ありがとう。ありがとうはいい。だが相手は、君がネクタイをどう思ったか知りたいし、聞いてくるかもしれない。君は嘘も方便だとばかり、素晴らしいということもできるが、それはカントの考え方からすれば、許されない。なので、誤解を招くような真実で逃げている。
箱を開けて「こんな、ネクタイは見たこともないよ! ありがとう」(会場笑い)
某学生 気を使ってくれなくてもよかったのに。
サンデル教授 気を使ってくれなくてもよかったのに。(会場笑い)それはいい。
現代の政治指導者で、このテクニックを使った人物を思いつかないか。思いつく、それは誰かな。(会場笑い)
クリントン元アメリカ大統領が、モニカ・ルインスキーとの情事を否定するのに、注意深く選んだ言葉を覚えているかな。その否定は弾劾公聴会で非常に露骨な討論や、議論の対象となった。
クリントン元大統領の発言を見てみよう。嘘と注意深く表現された誤解を招くような真実との区別に、道徳的に重要な何かが、あるのだろうか?
記録ビデオ
ビル・クリントン大統領1998年1月26日
クリントン大統領 国民のみなさんに言いたい。ルインスキーさんと性的な関係を持ったことはありません。誰にも一度も嘘をつけと言ったことはありません。疑惑は誤りです。
下院司法委員会 弾劾公聴会 1998年12月28日
下院議員 その女性とセックスをしたことはないと嘘をついたでしょう。
大統領側弁護士 大統領は、嘘をついたとは思っていません。彼は国民に「性的な関係を持っていない」と言いました。あなたがこの答えを納得せず、言い逃れだと思うのはわかります。しかし彼の定義では・・・
下院議員 結構。その主張はわかりました。
サンデル教授教授 両者のやり取りを聞いたね。当時、君たちはこのやり取りを、クリントンを弾劾したい共和党と彼を擁護しようとする弁護士との間の杓子定規な、重箱の隅を突っつくようなやりとりだと思ったかもしれない。
しかし、今はカントの見方に照らして、嘘と言い逃れ、つまり真実だけれども誤解を招く主張との間の違いに、道徳的に重要なものがあると思うかな。
違いがあると考える人。カントを擁護する人から、聞きたい。よし君の弁護を聞こう。
ダイアナ 嘘と誤解を招くような真実は同じだと言う場合、それは帰結主義に基づく議論です。どちらも同じ目的を達成するからです。でも真実を話し、それを人に信じてもらおうとするのと、嘘を話し、それを人に真実だと信じてもらおうとするのとでは、道徳的には同じではないと思います。
サンデル教授 よろしい。ダイアナの意見ではカントに一理あることになるね。クリントン元大統領を援護する主張だが、その点はどうかな。君。
ウエズリー カントにとっては動機が鍵です。自己満足から誰かに施しをしたら、カントは道徳的な価値を認めないでしょう。となると誤解を招くような言い方は、嘘と同じで、人を欺くことが目的ですから動機は同じ、つまり両者は同じです。
サンデル教授 よろしい。ダイアナに聞こう。両者の動機は違うのかな?
動機は同じだとする意見に対する君の反論は、どちらも真実を追究しようとする相手を欺こう、欺きたいと思っているわけだが?
ダイアナ 直接な動機は、私を信じるべきだということだと思います。結果的にはみんなが騙されて、事実を誤認するかもしれませんが、言う側の動機は自分は真実を言っているんだから、みんなは信じるべきだ、ということだと思うんです。
サンデル教授 助けてあげようか。
ダイアナ 是非。
サンデル教授 君とカントを。ウエズリーにこう反論したらどうだろう。
嘘をつくケース、誤解を招くような真実をいうケース。この両者のどちらも人を欺くことが動機だとは必ずしもいえない。
友だちがどこにいるか知らないとか、けっして性的な関係をもってはいない、と言うことによって、発言者は、相手が欺かれることを期待している。
相手が欺かれることを期待してはいるが、しかし真実を話しているのは確かであり、その動機は欺くことであったとしても真実を告げ、道徳法則に敬意を払い、定言命法の内側にいるのもまた事実だ。
カントの答えはきっとこうなると思う。ダイアナどうかな。賛成かな。
ダイアナ はい。
サンデル教授 よろしい。カントならきっと、「誤解を招くような真実は、嘘や偽りとは違い、義務に対してある種の敬意を払っている」と言うのではないかと私は思う。
義務に対して敬意を払うことは、言い逃れをも、正当化するものだ。ダイアナ、賛成かな。よろしい。
慎重に表現を選んだ言い逃れの中には、道徳法則の尊厳に対する敬意が含まれている。クリントン元大統領は、あからさまな嘘をつくこともできたが、そうしなかった。だからカントはきっとこう言うだろう。
慎重に表現を選んだ言い逃れには、道徳法則の尊厳への一種の敬意がある。そしてその敬意は、あからさまな嘘には存在しないものだ。 ウエズリー、それも動機の一部だ。
確かに私は、殺人犯が欺かれてくれることを願っている。殺人犯があきらめて、どこかへ行ってしまうことを望んでおり、クローゼットの中をのぞいて欲しくはない。
私はその効果を望んでいるが、しかしそうコントロールすることはできない。私は結果をコントロールすることはできないのだ。私にできることは、どんなに自分が望む結果が出るように努めても、道徳法則に対する敬意と調和するやり方で見守ることだけなのだ。
ウエズリーが完全に納得してくれたとは思えないが、少なくとも今回の議論では、カントの定言命法の概念において、何が道徳的に問題なるのかを明らかにできたと思う。
終了。
解説
千葉大学小林正弥教授
今回はカントの理論の締めくくり。
第1 感覚の感性界と思考の世界の叡知界とを区分する。
感覚の世界---衝動・欲求に押し流れやすい。
思考の世界---自分で考え、自分で決めて、自分に課すことができる。これが自律につながる。自律は近代の理念。カントはこういった形で近代を解き明かしていった。
第2 義務論(義務論の義務論たる所以)
例:殺人犯、クリントン元大統領の不倫事件
「慎重に言葉を選んだ言い逃れには、道徳法則への敬意がみえる」
我々は、日常生活でややもすると道徳法則の意味を見失いがちだが、道徳法則は大事だ、ということがわかる講義であった。
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もぅみんなを苦しめたくないのでどうしたらうそをつかなくなりますか。
根拠のないことは言わないようにしています。
自分自身が考えたことは、「そう思います」と書くなりいうことにしています。
私はどちらかと、先生方の論文を参考にしますので出典を明らかにして記述することにし、人に話すときには、「ある先生はこのように話しています。」それに対して私はそう思いますというようにしています。
「うそをつく」ことに対する疑問よりも「なぜ本当のこと」を言えないのかの方が根本的な問題だと思います。
正直になりなさいということではなく、「なぜ対する人に本当のことが言えないのか。」の方が重要だと思います。
相手にマイナス的にみられたくないので、などと相手ばかりを気にしていて、本筋の話の内容についてのまことが出ないのが原因だと思います。
したがって話の内容だけにしぼって、または注目して話すようにしたらよいかと思います。
そうすればうそとかまことではなく本当の会話ができると思います。