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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

無常という名の心臓の鼓動

2011年07月25日 | 文藝

 今から千年ほど前に書かれた『和漢朗詠集』という歌集があります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』には次のように解説されています。

<引用ウィキペディア(Wikipedia)>

 『和漢朗詠集』(わかんろうえいしゅう)は、藤原公任撰の歌集である。寛仁2年(1018年)頃成立した。『倭漢朗詠集』、あるいは巻末の内題から『倭漢抄』とも呼ばれる。
 
もともとは藤原道長の娘威子入内の際に贈り物の屏風絵に添える歌として編纂され、のちに公任の娘と藤原教通の結婚の際に祝いの引き出物として贈られた。達筆の藤原行成が清書、粘葉本に装幀し硯箱に入れて贈ったという。
 
下巻「祝」部に日本国歌『君が代』の原典がある。

背景
 
国風文化の流れを受けて編纂された。往時、朗詠は詩会のほかにも公私のさまざまの場で、その場所々でもっともふさわしい秀句や名歌を選んで朗誦し、その場を盛り上げるものとして尊重されていた。こうした要請に応ずる形で朗詠題ごとに分類配列し撰じたものである。

<以上>

とあります。そして

構成 [編集]
 
上下二巻で構成。その名の通り和歌216首と漢詩588詩(日本人の作ったものも含む)の合計804首が収められている。和歌の作者で最も多いのは紀貫之の26首、漢詩では白居易の135詩である。『古今和歌集』にならった構成で、上巻に春夏秋冬の四季の歌、下巻に雑歌を入れている。
 上巻 春 立春 早春 春興 春夜 子日付若菜 三月三日付桃花 暮春 三月尽 閏三月 鶯 霞 雨 梅付紅梅 柳 花 落花 躑躅 款冬 藤
夏 更衣 首夏 夏夜 納涼 晩夏 橘花 蓮 郭公 蛍 蝉 扇
秋 立秋 早秋 七夕 秋興 秋晩 秋夜 八月十五夜付月 九日付菊 九月尽 女郎花 萩 槿 前栽 紅葉附落葉 雁付帰雁 虫 鹿 露 霧 擣衣
冬 初冬 冬夜 歳暮 炉火 霜 雪 氷付春氷 霰 仏名

下巻 雑 風 雲 晴 暁 松 竹 草 鶴 猿 管絃附舞妓 文詞附遺文 酒 山附山水 水附漁父 禁中 古京 故宮附故宅 仙家附道士隠倫 山家 田家 隣家 山寺 仏事 僧 閑居 眺望 餞別 行旅 庚申 帝王附法王 親王附王孫 丞相附執政 将軍 刺史 詠史 王昭君 妓女 遊女 老人 交友 懐旧 述懐 慶賀 祝 恋 無常 白

<以上>

ここ解説の構成に注目すると下巻の最後から二番目に「無常」とカテゴリーがあります。千年以上前の撰者の「無常感」に基づく選出を見ることができ、そのことはその当時に生きた人々の普遍性のある「無常感」ということになります。

 さて現代社会に生きる日本人は、古典文芸の素養はどう身につけて来ているのか、自分の身の回りにそのような素養を持つ者がいて、その影響下にない限り、自分を例に考えれば、学校教育における「古典」の授業の時間・場で知るだけであるということが言える。

 その後の人生においては趣味的に興味を持つ以外に絶対に接するものではないと思う。

 そもそもこの「無常」という言葉はどこから来るのか、岩波書店の『古語辞典』には次のように書かれている。

<引用『古語辞典』(岩波書店)>

むじゃう【無常】
1 〔仏〕一切のものは生滅・転変して、常住でないこと。
 「古へよりこのかた無常の身なり。・・・誰かよく万年の春を保ち得たる」<性霊集一>
 「無上の思ひ、物にふれておこる」<源順集>

2 死。
 「無常たちまち到る時は、・・・ただ一人黄泉に赴くのみなり」<正法眼蔵出家功徳>
 
 ---き【無常気】世間を味気なく思う心。無常心。「唯無常でをかしうない」<近松五十年忌中>

 ---しょ【無常所】墓場。墓地。「神明寺の辺に無常まうけて侍りけるが」<拾遺502詞書>

 ---じんそく【無常迅速】死が来るのが早いこと。「無常なり、生死事大なり」(正法眼蔵随聞記二>

 ---どり【無常鳥】《冥途にいるということで》ホトトギスの異名。「鳴き騒げ日本堤の無常」<俳・貝おほひ>

 ---の【無常野】火葬場。また、墓地。「無常の焼場を隔夜して廻りけるに」(西鶴・諸艶大鑑四)

 ---のかぜ【無常の風】人の命を奪い去る無常の定めを、花を散らす風にたとえた語。無常の嵐。「無常ひとたび吹きて、有為(うゐ)露ながく消えぬれば」<拾遺語燈録中>

 ---のかたき【無常の敵】「無常の殺鬼(せつき)」を和らげていった語。死。「静かなる山の奥、無常、きはひ来たらざらんや」<徒然一三七言)

 ---のせっき【無常の殺鬼】《死の恐ろしさを鬼にたとえていう》死。「無常をば暫時も戦ひ返さず」(平家六・入道死去)

<以上>

ということで明治の文明開化前の古語の世界での「無常」は上記の意味合いと使われ方をしていた。

和漢朗詠集の「無常」というカテゴリーにはいくつの歌が選出されているのかというと、

<引用『和漢朗詠集』(新潮日本古典集成)>

 無常

789 身を観ずれば岸の額に根を離れたる草 命を論ずれば江の頭に繋がざる船 羅維

790 年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず 宋之門

791 蝸牛の角の上に何の事をか争ふ 石火の光の中にこの身を寄せたり 白

792 生ある者は必ず減す 釈尊いまだ栴檀の煙を免れたまはず 楽しび尽きて哀しび来る 天人なほ五衰の日に逢へり 江

793 朝に紅顔あて世路に誇れども 暮に白骨となて郊原に朽ちぬ 義孝少将

794 秋の月の波の中の影を観ずといへども 花の夢の裏の名を遁れず 江

795 世の中を 何に譬へむあさぼらけ 漕ぎゆく舟の 跡のしらなみ 沙彌満誓

796 手にむすぶ水に宿れる月影の あるかなきかの世にこそありけれ 貫之

797 すゑの露 もとの雫や世の中の おくれ先立つ ためしなるらむ 良僧正

<以上>

の9首が歌が選出されている。ここで注目したいのは、

795 世の中を 何に譬へむあさぼらけ 漕ぎゆく舟の 跡のしらなみ 

の沙彌満誓(さみまんせい)の歌で、この歌はこれまでブログで「無常」について書いたときに引用した万葉集にのせられている一首である。

 しかし、この万葉集の歌を知っている人はその違いが見て取れると思います。

<引用『萬葉集一』(小学館日本古典文学全集)>

万葉集巻3-351
 
 世の中を 何に喩へむ 朝開き 漕ぎ去にし船の 跡なきごとし

<以上>

と「跡のしらなみ」=「跡なきごとし」と異なっている。なぜか・・・・。同でもいい話で素通りしても人生に悪影響がある話ではないのだがなぜか気になるのが我が習性。

 大岡信先生の『私の万葉集』(講談社現代新書)に解説され、和漢朗詠集の立ち位置も含め千年間の「無常感」の知識の理解の仲間入りを果たすことができた。

<引用『私の万葉集』(大岡信著 講談社現代新書)>

 世の中を 何に喩へむ 朝開き 漕ぎ去にし舟の 跡なきごとし
                     〔三五一沙弥満誓〕

「朝開き」は、朝が来て舟が港を出てゆくこと。

  世の中の無常を何にたとえようか。朝がくれば港を出て漕ぎ去ってしまった舟の、あの水脈(みお)が、跡かたもないようなもの。

 作者満誓は、大宰府にあってしばしば海辺にも出ていたので、これはふと見た光景から感を発した作品だと思われますが、このささやかな吟詠が、後世どれほど多くの無常感を詠む詩歌に直接影響を与えたか知れません。

『万葉集』巻三の編纂に当たった人物は、この歌を大伴旅人の讃酒歌十三首に続けて出していますが、これも注目されます。つまり、この歌は旅人の連作的憂愁吟に対して、いわば長歌に対する反歌のような意味合いをもった作として、そのような位置に配されたのではないかと考えられるからです。

旅人の歌を読んできてこの歌に至ると、この一首が讃酒歌全体に対する実にみごとな要約的応答になっているのを感じないではいられません。少なくとも私は、巻三編者の編集者としての技倆(ぎりょう)の卓抜さに脱帽します。

さて、この歌と後世との関りについて。
 まず指摘せねばならないのは、この歌が勅撰和歌集第三の『拾遺集』で、巻二十哀傷の巻に次のような少し変形した形で収録されたという事実です。

 題知らず     沙弥満誓

 世の中を何にたとへむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の白浪

 この歌は、『万葉集』にある形ではなく、『拾遺集』で右のように修正された形が後世に伝えられ、愛誦されました。

『拾遺集』が編まれた時代に、歌人として、また歌論家として抜群の影響力があったのは藤原公任(きんとう・966-1041)です。彼は『拾遺集』(花山院ほかの撰とされる)そのものの成立にも深く関与したとみられますが、和歌の文学的批評としては最初の歌論と見なされている『新撰髄脳』の中で、この満誓の歌を安倍仲麻呂の「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」(『古今集』)、小野篁(たかむら)の「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海士(あま)の釣舟」(同)と並べて「これは昔のよき歌なり」と評しています。

彼はまた、その編になる『和漢朗詠集』の巻下「無常」にもこの歌を入れました。以来、『拾遺集』に載った形での満誓の歌は、無常を詠んだ歌の代表となりました。『袋草紙』の説話では、かの恵心僧都源信がこの歌を聞いて感銘を受け、「和歌は観念の助緑と成りぬべかりけり」とのべて、和歌を単なる狂言綺語としてきた考えを改めたとされています。

鴨長明は 『方丈記』で、「もし跡の白波に身をよする朝には、岡の屋に行きかふ船をながめて、満誓沙弥が風情をぬすみ」と自らの起居のさまを描いていますし、松尾芭蕉は「寒夜の辞」で深川の芭蕉庵を描写して、「遠くは士峰(富士山)の雪をのぞみ、ちかくは万里の船をうかぶ。あさぼらけ漕行船のあとのしら浪に、芦の枯葉の夢とふく風もや、暮過るほど、月に坐しては空き樽をかこち、枕によりては薄きふすま(ふとん)を愁ふ。/艪(ろ)の声波を打て腸(はらわた)氷る夜や涙」と書きました。

この俳文で「芦の枯葉の夢」と言っているのは、西行の有名な「津の国の難波の春は夢なれや声の枯葉に風わたるなり」(『新古今集』)を踏んでいますが、満誓の歌は西行歌と並んで芭蕉の発想に文学的・伝統的な奥行きを与えているのです。

 この種の引用は他にも枚挙にいとまがないほどですが、興味深いのはそれらがほとんどすベて、『万葉集』の原形ではなく、『拾遺集』の改作に拠っているということです。その理由は、私の推測では、一にかかって「漕ぎ行く舟の跡の白浪」という下旬の魅力にあります。

単に「跡の白浪」というだけで満誓の歌が想起され、無常観の表明であることが了解されたほどだったのです。

つまり沙弥満誓という奈良朝歌人は、後人の改作した歌により、日本文学史において最も好んで引用される作者の一人となったわけです。この経緯は、文学伝統というものの自律的な持続と展開の興味深い一例を示しています。

<以上上記書p135~p138から>

 ここまで引用文を続けてきて何を言わんとしているのか、

 跡なきごとし=しらなみ

船が海のかなたへ向かう後ろに広がる航跡がいつしか消え去って行く。白波・白浪は扇形に浪のかなたに吸い込まれて行く。常なる当たり前の光景、何が人を惹きつけるのか?

 先の和漢朗詠集の9種。

789 「岸の額(ひたひ)に根を離(かか)れたる草」 「江の頭に繋がざる船」

790 「年々歳々」「歳々年々」

791 「石火の光」(意:石と石とを打ち合わせて出る火で極めて短い時間の喩え)

792 「栴檀の煙」「五衰の日に逢へり」(五衰 意:寿命が尽きて死ぬ時に示す五種類の徴候)

793 「朝に紅顔・・・・暮に白骨」

794 「月の波の中の影」(意:水面に映ずる月影)

795 ・・・略・・・

796 「水に宿れる月影」

797 「すゑの露 もとの雫」「おくれ先立つ」

勝手ながらの話なのだが、以上の抽出したものや現象中に波紋の生滅、白波の航跡と同類のゆらぎや波を感じる。

 凪(なぎ)という言葉がある。風がやんで波が静かになる状態をいうが、以前ブログで書いたが、山折哲雄先生は東日本大震災の被災地で瓦礫の向こうに見える「凪」を見て「無常」について語られていた。

 ※参照:こころの時代~人生・宗教~「共に生きる覚悟」(2)・天然の無常観
   http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/2f114445bff6f3eec11e6e5116abf03e

 思うに、消えるでもない波、静かだが動的にある存在、それがなぜか日本人を情感の中に引き込む。

【アラン・チューリングの言葉】(イギリスの数学者)
 
 二つの物質が、ある条件のもとで反応しながら広がるとき、そこに物質の濃淡の波ができその波が生物の形や模様を作りだす。
 
 ※参照:体をつくる不思議な波・世の中の単純模様を見る・チューリングの方程式
  http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/f43b162316c9a669c2d43cad89f3d63a

 砂漠の風紋、水面の波・・・・風のそよぎも多分そうであろうと思うが、このチューリングの言葉、チューリングの方程式で説明される。

 神経細胞におけるカルシュームイオンも波と係わりを持ち、心臓の鼓動も然りなのである。

 波と無常感との関係は、身体的な自らの場からの感覚だがら、万人がそうであるのだが、殊更に千年前の人々は現代人が失いつつある感覚を有していた。

 言葉を知っているから「無常」と言うが、なぎのこころ、なみのこころの情感を持つことも橋掛りを渡り去る身には必要ではないか、と思うのである。

 無常という名の心臓の鼓動

という今朝の題にしたが、時々平家物語の「諸行無常の響き」を現代風な短絡的解釈をする方がおられるが「響き」という「波」を忘れた解釈であると思う。

 「諸行無常」が問題ではなく余韻の中にある「響き」が重要なのかも知れない。


人間なんて

2011年07月15日 | 文藝

和泉式部という女性の歌人がいました。

 和泉 式部(いずみ しきぶ、天元元年(978年)頃 - 没年不詳)は平安時代中期の歌人である。越前守・大江雅致の娘。中古三十六歌仙の1人。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 この方に、

  はかなしとまさしく見つる夢の世を

   おどろかで寝る我は人かは
                              
        (『和泉式部続集』)

という歌があります。訳は、

  愛するあなたが死に、この世のはかなさは骨身にしみている。それなのに驚きもせず、夜がくれば寝ているわたし。わたしって、いったい人間なの?

となるそうです。

 千年以上も超えて、現代の世で詠んでもなるほど・・・・なのです。

ある解説本にはこう説明されています。

<引用『万葉集ほか』(講談社)から>

 和泉式部の恋歌は日本の詩歌のなかでとびぬけてすぐれているものです。なかでも有名なのは、当時都でも評判になっていた恋の相手、帥宮敦道親王(そちのみこあつみちしんのう)が夭折したときの挽歌群です。熱愛した人が死んで悲嘆のどん底にいるというのに、わたしったら朝がくれば起き、夜になれば寝る、まったく生物って悲しいものね、と自分をつきはなして見ています。そもそも人間とはいったいなんなのか、という思想的な問いまでふくんだ恋歌です。

<以上上記書p143>

益々なるほどなのです。何がなるほどか、言葉にするのは大変難しいのですが、

 人間て馬鹿だなあ

 人間て薄情だなあ

逢瀬の話なのですが、「思想的」という言葉に囚われれば、

 人間の本質をよく見つめている。

というところではないでしょうか。時代を超えて、民俗や宗教観の違いを超えて普遍性を有する真理のように思います。こういうことを言うと批判を受けそうですが、貴族社会のきらびやかな世界に居る女性宮廷人の何気ない吐露。現世に生きる人間観の吐露です。

 男性ではなく女性ですから性別も超えての感慨の溜息です。

まずこういう人は昨日の話ではありませんが、1000回ため息をついたとしても鬱病にはならない、絶対にならない人だと思います。

 何があなたをそうさせる。

 どういう生き方をすればそういう考えに至るのか。そこがぜひ知りたい・・・という衝動に駆られ、タイムハーンターになって、直接和泉式部さんに聞いてみたいものです。

 どんな哲学書、どんな宗教書を・・・・・読むわけはなく、生き方の中で、民俗学的伝承の生き方の中で、外来の仏教の教えの中で・・・・・それはあり得るかもしれません。

 現代社会を見ていると、こういう吐露をするべきだと思う人が散見しています。

 恋愛話の御仁ではありません。人を見てその人に対してお馬鹿だなあ・・・

という己を見つめる目から他人へ視点換えしての話です。

 そして当然自分を見たときも含め

本当に「人間なんてラッラーラ、ラララララー」なのであります。

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恋心と情識・合歓木(ねぶ)の花

2011年06月28日 | 文藝

 きょうのEテレ「日めくり万葉集」万葉集巻8-1461(紀女郎)・1463(大伴家持)の歌でした。

 撰者は指揮者の大伴直人さんで、歳が相当離れている紀女郎(年上)と大伴家持(青年)との男女間の恋にまつわる話、年上の女性に惚れた青年家持の悲しさや悔しさの吐露に時代の自由さを感じての選出のようです。



< 巻8-1461(紀女郎)>

 昼は咲き
 夜は恋ひ寝る
 合歓木(ねぶ)の花
 君のみ見めや
 戯奴さへに見よ


 昼は咲き、夜は恋して寝る合歓木の花よ。主君(あるじ)の我(われ)だけが見るものではない。下僕(しもべ)のそなたも一緒に見なさいな。



<巻8-1463(大伴家持)>

 我妹子が
 形見の合歓木は
 花のみに
 咲きてけだしく
 実にならじかも


 あなたの、身代わりにくださったあの合歓木は、花だけ咲いてひょっとしたら実を結ばないのではありませんか。

この歌は、紀女郎が家持に送った歌と家持の返しの歌です。

 恋愛の自由さ、恋心の自由さ、万葉時代の自由奔放さを語る歌と言われています。しかし、こんな倫理観もへったくれもない自由さを「集」とする神経は清浄なのかとも疑ってもいいのではないかと思うのです。

 こんな恥ずかしい話を、廉恥心はないのかとの疑いです。

 そこで、このところ時々述べるやまと言葉の「微笑み・笑む」の第二の意味、「花が咲く」でイメージすると「冗談話の明るさ」見えるのです。

 それがその時代の共通感覚ならば「冗談話の明るさ」で「集」にもなるだろうと思うのです。愛欲の世界の自由さなど他人に見せる破廉恥話があるであろうかと思うのです。

 話を変えます。チンパンジーが人間の言葉を話せるとします。この場合に猿から猿社会の人間関係を聞き出せるか、否かという疑問です。

 私は絶対にありえないと思うのです。なぜなら・・・チンパンジーは目の前で裸です。人前で裸でいることに廉恥心がない動物が、そもそも人間と共通の次元で意思に疎通ができるわけがないと思うのです。

 安心できる人間か、敵ではない存在か、飢えを満たしてくれるものか・・・個体としての存続に益がある善きことならば親近感を感じることができても、人間の想像し得る話はできないと思うのです。

「恥文化は日本特有か」となると旧約の世界の無花果の葉が示すところです。「恥は」人間の特有の感覚ではなかろうかと思います。

 愛欲はひっそりとしたものであろう、と思うのです。したがって上記の歌は、「花が咲く」という微笑み返しで詠んだ方が善いのではないか、そういう気がするのです。

 詩人で評論家の東京芸術大学名誉教授大岡信(おおおか・まこと)先生は、『私の万葉集(三)』(講談社現代新書)で次のように述べています。

<引用『私の万葉集(三)』(講談社現代新書)から>

・・・・・家持がこの巻を構成する作品を個人的な資料として集め、その後あらためて手を加えることをせずに、万葉の巻八として編んだことを証拠だてるものだと見なされているわけです。

「形見」は、身代りの品。「花」と「実」の対比は、花だけ咲いて、ひょっとすると実はつかないのではないか、と言いたいため。(巻8-1463)

 わが君さまにこの若輩めは恋しているらしうございます。ご下賜になった茅花(つばな)、いくら食してもますます恋痩せに痩せてしまいまして。(巻8-1462)

 いとしいあなたの身代りにやってきた合歓木は、花ばかりが咲いて、ひょっとすると実を結ばないんじゃないでしょうか。(巻8-1463)

 一首目は、「恋しているらしい」などとは言っているものの、どうもいい加減な気持ちらしいという印象があります。単なる言葉のお遊びで逃げている感じです。

 二首目はさらにその感が強いようです。ここでは家持は、相手の言葉を、美しい花は咲かせているが、実は結ばないのではないのか、と言っています。この言い方は恋歌の常套手段の一つで、私はあなたを心から愛しているが、あなたの方は言葉だけなのではないか、といって、相手の気持ちを疑ってみせる形をとります。

平安朝和歌では紋切り型の一種とまでなってゆくものです。家持の歌はそういう恋歌の、いわば走りの一つともいえるでしょう。

 この種の技巧は、心に多少やましいところを持っている恋人がよく使う手で、ここでの家持がそうだというのではありませんが、彼はどうやら紀女郎の恋ごころの表現を、多少深情けの重苦しさとして感じている面がありそうに思われます。

<以上同書p24~p26>

 学者先生方のいうことですのでそれでいいのかも知れませんが、春先からの木々に咲く花、草花の花の姿を見る際に「微笑む・笑む」で見ると本当にそう見えるので不思議です。

 先ほどのチンパンジーの話ではありませんが、花と話しができると決して微笑んでるとは言わないでしょう。

 「嫌だねこんなところで一日中太陽にさらされ、暑いし、動けないし気が狂いそうだ」

そういわれそうです。

 「微笑み」は、あくまでも人間の微笑みであって親愛の情の顕現であろうと思います。

 花にそう感じる心を取り戻すことは、現代人の失いつつある情識の体得になるように思います。

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畜生残害の類

2011年06月22日 | 文藝

 物事を考えるときに視点を変えるということがとても重要に思います。考察の手法を変えることで別な結論が導き出されるかもしれません。

 また、結論は同じでも考えの過程が異なる場合もあり、それも物事を考える上で参考になるように思います。

 昨日「なぜ動物の命は尊いのか」という見出しのブログを発見し、立ち寄らせていただきました。

 仏教的な立場から「輪廻転生」を主題に説かれていました。

 今朝は日本の古典から動物の愛護の視点を見てみたいと思います。「有情」という言葉が使われ仏教的な話ではありますが、作者の考察視点をどこに置いているかがよくわかる話です。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 人間以外の動物界の集団や親子関係の観察から「共感(Empathy)」について探求し、現代人の行き過ぎた競争社会に、人間の取り返すべきものは何かということを追及する動物行動学者(フランス・ドゥ・ヴァール『共感の時代』(紀伊國屋書店)もいれば、ペットとして共に生活する中にやすらぎを求める人もいます。

 動物を見る視点は異なりますが、ともに何かを動物から教えられるからではないでしょうか。

 反面、人は他人を軽蔑するときに「あなたは犬畜生以下だ」という言葉を使う時があります(今はほとんど死語化しているかもしれませんが)。

 「畜生道」という言葉は仏教語で、「生きているときのに悪いことをしたために死んでから落ちるという境遇」をいい、六道の中の三悪道の一つとされています。

 今朝紹介する古典は、吉田兼好の『徒然草』です。人によっては『ヘタな人生論より 徒然草』(荻野文子 河出書房社)と言う人もいるくらいで、昔から多くの人にありされている古典です。

 しかしかの有名な作家芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中で、

>・・・・・正直なところを白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利ではあることは認めるにしろ。・・・・・<

というように、あまり善しとしない人も多いのは事実です。

さて徒然草第128段に「畜生残害の類」の次の話があります。現代語訳を紹介します。

<第首二十入段>

 雅房大納言(まさふさのだいなごん)は学識のすぐれた、りつぱな人なので、近衛大将にもしてやりたいものだとお思いになっていたころ、上皇の側近に仕えていた人が、「ただ今、あきれはてたことを見ました」と申しあげられたので、

「何事か」とお尋ねになったところ、「雅房卿が、鷹に餌をやろうとして、生きている犬の足を斬っておりましたところを、中垣(なかがき)の穴から見ました」と申しあげられたので、いとわしく、憎くお思いになられて、ふだんのご寵愛も変わってしまい、雅房卿は官位の昇進もなさらなかった。

これほどの人が、鷹をお持ちになっていたことは、思いもよらぬことだが、犬の足の一件は根のないことである。嘘を言われたのは、気の毒なことであるが、かようなことをお聞きになって、お憎みになった上皇の御心は、たいそう尊いことである。

 いったい、生きているものを殺し、傷つけ、たたかわせて遊び楽しむような人は、畜生が互いに食いあっているのと同類である。すべての鳥獣、小さな虫にいたるまで、注意してその様子を見ると、子を思い、親を慕わしく思い、夫婦が連れそい、ねたんだり、怒ったりし、欲望が多く、わが身を愛し、命を惜しんでいることは、ただただ愚かで無知であるがために、人間よりもいっそうはなはだしいものである。

彼らに苦痛を与え、その命を奪うようなことが、どうしてふびんでないことがあろうか。総じて、あらゆる生き物を見て、あわれみの心を起こさないような者は、人間ではない。

<以上日本古典文学全集27『徒然草』小学館から>

 文中に、

>すべての鳥獣、小さな虫にいたるまで、注意してその様子を見ると、子を思い、親を慕わしく思い、夫婦が連れそい、ねたんだり、怒ったりし、欲望が多く、わが身を愛し、命を惜しんでいることは、ただただ愚かで無知であるがために、人間よりもいっそうはなはだしいものである。<

と書かれています。

 ねたみ・欲望・自己愛・命惜しむ姿は、人間よりもはなはだしい動物

 そういうはなはだしい境遇にあるものを虐待する人間=すべて一切の有情をみて慈悲の心なからむは、人倫にあらず。

というのです。文頭にも言った仏教用語「有情」ですが、

うじょう【有情】〔名〕感情を持つすべての生物。人間と動物

で、相対する言葉は、

ひじょう【非情】〔名〕心がないこと。木石など、感情を持たないもの。情識あるもの。

という意味です。

 参考にした小学館の『日本古典文学全集』には、兼好の考察視点について注釈には、

 人間以上に本能に左右されて生き、欲望も強い生物も「心をとめて」観察し、そこから彼らの心情世界を想像し、その内面にはいっていく。「一切の有情」に対する深い同感が、兼好の精密かつ深切な観察によって裏づけていることに注目したい。

と書かれています。

 人は一方では動物を愛し、他方では軽蔑します。そして人間も動物ですから愛したり他人を蔑(さげす)んだりするわけで、「有情」でない「非情」の木や石を軽蔑し、蔑む人はいないところを見ると、人は元々、互いに心あるものとみていることになります。

 「情識(じょうしき)あるもの」とは「常識あるもの」という意味ではなく、仏教語で

「 凡夫のもつ迷いの心。心。」を持つもの。

ということです。したがって「迷いの心」がある内は、非情のものではない、ということであると言えるわけです。

 『徒然草』作者の吉田兼好は兼好法師とも呼ばれてた鎌倉時代の知識人です。神主の家に生まれた人ですが、当世の知識人として仏教も学んだようです。

 『徒然草』と言えばこの冒頭の言葉を知らない人はいないと思います。

 『ヘタな人生論より 徒然草』などと極端な話ではありませんが、日本の古典も読むと別な視点が開かれるように思います。

※今日の写真はEテレ「10minボックス(古文・漢文)徒然草から拝借しました。

 

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母という名の花・日めくり万葉集・おひさま

2011年06月10日 | 文藝

 最近のNHK[日めくり万葉集」で印象に残った歌に、長野県上田市にある無言館館主窪嶋誠一郎さんの選んだ防人の歌があります。

 時々の

 花は咲けども

 なにすれそ

 母とふ花の

 咲き出来けむ

巻20-4323 丈部真麻呂(はせつかべ・ままろ) 遠江国の防人


 四季折々の
 花は咲くのに
 なぜ
 母という名前の花が
 咲きだしてこなかったのだろう
 ああ、母さまに合いたいことだ

という歌です。何とも悲しい歌なのだろうと思うわけです。
 窪島さん選んだ歌は、

日めくり万葉集・「画(ゑ)・縁(え)」の意外性[2011年04月27日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/133e5e5b7b42651c61a3e4b2d93c234d

でも紹介しました。
 窪島さんは、第二次世界大戦で亡くなられた画学生の絵を全国から集め展示している美術館の館長です。



 戦没された画学生の心と防人の心に重なる部分、死を覚悟して旅立った若者たちの心を、この歌に感じて選出しました。

 番組に窪島さんは次のように語っていました。

【窪島誠一郎】

 花の持っている強さと弱さ、母というのはそんな二つを持っている大切なもののような気がします。

 お母さんは決して、そんなに強くはない。自分のことをいとおしんでどこかで泣いている母も想像できる。しかし、一方では強い。絶対枯れない。ずっと自分を待っていてくれる。

 花の持っている可憐さと強さを、母親は兼ね備えている、そんな気がします。

 ですから僕たちは、花を見ても母を感じるし、母を見てもそこには花を感じる。二つを重ね合わせる。とりわけ、子ども時代はそうでした。だから、四季折々の花のなかにお母さん花がないというのは、わかります。そのぶん、子どもの心の中にはいつもお母さんの花は揺れているんです。とてもいいですよ、この歌。

<以上>

 第二次世界大戦中、出征兵士が持って行くことができる本は制限されていました。多くの兵隊さんが選んだ本、それは万葉集でした。

 コロンビア大学名誉教授日本文学研究者ドナルド・キーン先生は、太平洋戦争中、アメリカの日本語学校を卒業した後最前線に送られ、終戦後日本人捕虜や兵士が残した書類や所持品の整理をしていてそのことに気がついたということです。

 万葉集は地方を含めた多くの歌を集めたものです。中国古代では、民謡を集めることはいわゆる諜報活動の一環で、地方の不穏な動きは民間で歌われる歌謡に見ることができるという考え方で集められました。

 したがって万葉歌もそうだろうと考える方もおられるのですが、このような「母恋歌」を詠んでその説は、いかがなものでしょうか。

 NHK連続テレビ小説「おひさま」主人公陽子(井上真央)の旦那さん和成(高良健吾)が出征してしまいました。



陽子の心の内を思うと涙なのですが、和成の母徳子(樋口可南子)の子を思う心にも涙です。



※今朝の写真は、Eテレ「日めくり万葉集(272)」NHK総合「おひさま」からいただきました。

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NHK「日めくり万葉集」巻10-1939・於吾欲得

2011年05月03日 | 文藝

(見出し写真は、土筆と有明山です)

 上代文学研究者 森陽香先生は美人です。


(NHK日めくり万葉集から)

 美的感覚はそれぞれに異なるのでそうでもないという方もおられようが、5月2日のNHK教育「日めくり万葉集」の撰者は森先生でした。

 番組では三首紹介され最初の歌は、

 霍公鳥  汝始音者  於吾欲得  五月之珠尓  交而将貫


(NHK日めくり万葉集から)

【意】
  ほととぎすよ おまえの鳴く初声を私におくれ
  そうしたら五月(さつき)の玉に交ぜて通そう

万葉集巻の十1939 作者未詳

でした。番組では、

ほととぎす 汝が初声は 我にこせ 五月の玉に 交(まじ)へて貫(ぬ)かむ

 「於吾欲得」を「我にこせ」と読み、テキストにもNHKの番組サイトの解説にも「我にこせ」と書かれていました。

 他の手元の万葉集の解説書を読むとこの歌は、

ほととぎす 汝が初声は 我にもが 五月の玉に 交へて貫かむ

と「於吾欲得」は「我にもが」と詠んでいます。

 他の人の訳は、

大野信先生は(『私の万葉集(三)講談社現代新書)』、

 ほととぎすよ、お前の初音は私にくれ、その鋭くよく通る声を、五月の玉に混ぜ合わせて、袋の緒に通そう。

中西進先生は(『万葉集(二)講談社文庫』)、

 霍公鳥よ、待ち遠しかったお前の初音を我にくれ。五月の薬玉(くすだま)に、草とまぜて通そう。

日本古典文学全集『萬葉集』(三) 小学館では、

 ほととぎすよ、おまえの初音は わたしにくれ、五月の玉に 混ぜて緒に通そう。

となっていて、普通「於吾欲得」の意味は、「私にくれ」という意味のようです。


大先生は、「我がにもが」は、私にくれ。モガは欲しい。

中西先生は、「もが」は願望。

日本古典文学全集『萬葉集』も同じように、希求としています。

伊藤博先生は、私にぜひおくれ。モガはある目的を果たすための手段に対する願望。『万葉集上巻 角川ソフィア文庫』

サイト検索したところ、「親魄に逢う蔵書 」に、

「もが」は、 [終助]《係助詞「も」に終助詞「か」の付いた「もか」の音変化。上代語》名詞、形容詞および助動詞「なり」の連用形、副詞、助詞に付く。上の事柄の存在・実現を願う意を表す。…があればいいなあ。…であってほしいなあ。
上代は「もがも」の形で多く用いられ、中古以後は「もがな」に代わった。

と解説されていました。

と、総じて「於吾欲得」は「願望、希求、要望」的な意味で、「もが」と詠むようですが、森先生の読みだけが異なるのです。

 テキストには、文法的な解説はなく違いについての解説もありませんので、疑問は永遠とわが脳裏に残りそうです。

 別に批判ではありません。そんな考えは毛頭なく実に素敵な歌を選ばれたと思います。通常私は番組を起すのが好きですが、この番組にはテキストがあります。

 「日めくり万葉集」は2009年1月から始まりテキストはvo1.1~vo1.14まであります。2010年に再放送され今年から新シリーズになりました。

 本当は早朝の方が良いのですが、現在は昼間で録画をして楽しんでいます。万葉集が好きな人は必見です。

 番組起こしですが、テキストにしっかり書かれていますので、三首のうち今朝のこの歌の解説を引用させていただきたいと思いまます。

【森陽香】
 五月五日は端午の節句。菖蒲湯(しょうぶゆ)に入る家庭も多いのではないでしょうか。この季節に植物のカを身に取り入れで健康を願う習慣は、万葉の時代にまで遡(さかのぼ)ります。
      
この歌の「五月(さつき)の玉(たま)」とは、いったい何でしょう。

「五月の玉」は、万葉びとが端午の節句に作った薬玉(くすだま)のことです。薬玉は麝香(じゃこう)などの香料を袋に入れ、丸くかたどって、五色の糸を長く垂らしました。

 植物のショウブやヨモギ、またタチバナの実や花もあしらうことがありました。これらの植物が放つ強い香りに厄よけや邪気払いの効果を期待したものです。


(NHK日めくり万葉集から)


(NHK日めくり万葉集から)

 江戸時代の年中行事を記した書物に描かれた薬玉(くすだま)です。古代の薬玉の様子をうかがうことができます。


 「くす玉」というと、私たちはいま、おめでたいときにこれを割ります。現代では、その目的を大きく変えましたが、この長く垂らした丸い形は、万葉時代の五月の玉を受け継いでいます。

<以上>

 この歌は「香り」が印象的な歌です。”おひさま ”の主人公は陽子、森先生は「陽香・ようこ」なのであります。偶然でしょうが「太陽のように香る」、だから先生はこの歌がとても好きなのかも知れません。

 そういう意味でも「「於吾欲得」=「我にこせ」が「私にくださいね」という感じがとても素敵に思います。「我がにもが」というと「ホトトギス」ではなく「鴨・カモ」の鳴き声のように思ってしまいます。

 聞くこと、香ること、法華経の「 「耳根を壊(やぶら)じ」をふと思い出します。

 「耳根を壊(やぶ)らじ」とは、耳の働きを途中で狂うことなく、いつでも正しく聴いて、正しく解釈することができるようになった状態のことを言う。

 この聞くは、耳という機関の聴くではなく、五感(香りも味も・・)の全ての作用を含んだ一体的な人の心の作用だと思います。

 そういう意味でこの歌を詠むと(「我にこせ」で)詠むと五月の季節感の「ホトトギス」から「香りとホトトギスの声」が一体となってとけこんだ感じを受けます。

 畑の土手のヨモギの傍に「わらび」はニョキッと出ていました。季節は香り、色(しき)でもある、そんな春です。

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山姥(能)・舞を哲学する

2011年02月26日 | 文藝

 今朝は、能の山姥と舞について若干触れました。思うに舞はその時点の舞のみを観るのではなく、その痕跡や軌跡をも含めて見入るのではないかと思うのです。

 雪が舞う。天空から飛来する雪。それは飛行機雲のような痕跡があるわけではないのですか、時として鑑賞するかのようにその軌跡をも見入っているように思うのです。

 痕跡は背景のごとくに視点意識から去ってはいますが、歴然として心にとどまっている。それはまた演奏曲の過ぎ去った音符のようなものです。

 痕跡や軌跡は時間とともに闇の中に葬られていきます。
 
【万葉集歌・沙弥満誓(さみまんぜい)】 

世間(よのなか)を 
  何に喩へむ朝開(あさびら)き 
    漕ぎ去にし船の 跡なきごとし

  世のなかを何に喩えたらいいのだろうか。それは、朝早く港を漕ぎ出て行った船の航跡が、何も残っていないようなものだ。(NHKテキスト『日めくり万葉集テキスト』から)

 前にも書きましたがこの歌について、阿部謹也先生は著書『世間とは何か』(講談社現代新書)の中で次のように書かれています。

「船が漕ぎ去ってしまった跡には痕跡もなくなってしまうように世の中は無常なものだと歌っているのである。」

と語り、

 この歌は後に勅撰和歌集の「拾遺集」なので次のように変えられて採用されている。

 世間(とのなか)を何に喩へむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白浪(しらなみ)

  以後この歌はこのような形で世の中の無常を歌った代表作となり、小野篁(たかむら)から、恵心僧都源信、鴨長明、松尾芭蕉と名だたる歌人、俳人がこの歌を基準にして世の中の無常を歌っている。すでに万葉の世界において世の中ははかなく無常だと歌われ、それが連綿と続いて今日に至っているかにみえるのである。

無常観を歌ったものだと語っています。

 そのような感覚て能の山姥を観るとその舞の中にこの軌跡を垣間見てしまうのです。

 最近の信州大学護山真也教授のブログに、

 虫の文字[2011年02月18日]
http://www.shinshu-u.ac.jp/faculty/arts/prof/moriyama_1/2011/02/37822.html

という原始仏教典の虫食いの軌跡の話がありました。このブログを私見で、その文字の形は虫の葉を食べた軌跡です。それが文字のように見え、虫はそれを意図していたか? 

 意味ある思いの軌跡かなどと考えていて、昨夜深夜に能の「山姥」を観たとたんこのことが頭をよぎり、「朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白浪」になったのです。

 「語られるものと語られないもの」というそれが舞であろうと思うのです。能についてはこれまでに、

ワキ(僧)の役割 <前段>[2009年08月29日]

「伝統芸能」から学ぶ[2009年11月24日]

能と日本文化を語るとき[2010年01月01日]

この花は誠の花にあらず[2010年07月22日]

うつろふ(移ろう)・無常・もののあわれも・やまと言葉の世界[2010年09月30日]

呼吸と日本文化・本間生夫[2010年10月07日 ]

などと知ったふりで書き綴っています。まったくの素人の域を出ていませんがそれなりに楽しんでいます。


法政大学の山中玲子教授の解説による〔仕舞「山姥」クセ〕・〔能「鉢木」喜多流〕という番組で、今回取り上げるのは、仕舞「山姥」(シテ塩津哲生)です。[NHK教育2011.02.19 15:00能「鉢木」~喜多流~]から

 仕舞とは、能の略式演奏のことで、一曲の見どころの内で、シテが地謡(じうたい)にあわせて舞う部分をいう。

ということで、本編は長いのですが姉妹の場合は10分程度の部分です。

<仕舞 山姥>

【シテ】そもそも山姥は(立つ)、生所も知らず宿もなし(足拍子を踏む)、ただ雲水を便りにて(中央へ出る)、至らぬ山の奥もなし(扇を開く)。

【シテ】 しかれば人間にあらずとて(上ゲ扇をする)、<以下・下記の現代語訳参照>

【地謡】 「隔つる雲の身を変へ、仮に自性を変化して、一念化生(いちねんけしやう)の鬼女となつて、



目前に来れども(正面先へ出る)、邪正一如(じやしやういちによ)と見る時は、色即是空そのままに(角へ行く)、



仏法あれば世法あり(小さくまわり正面を向く)、煩悩あれば菩提あり(左へまわって大小前へ行く)、仏あれば衆生あり(中央へ出る)、



衆生あれば山姥もあり(ユウケソ扇をする)、柳は緑(扇を左肩に当て、右上を見る)、花は紅の色々。



さて人間に遊ぶ事(足拍子を踏む)、ある時は山賤(やまがつ)の、樵路(せうろ)に通ふ花の蔭(角へ出る)、休む重荷に肩を貸し(脇正面に下がり、膝をつく)、月もろともに山を出で(立つ)、里まで送る折もあり(あたりを見まわし、橋がかりのほうへ向く)、またある時は織姫(おりひめ)の(常座へ行く)、

五百機(いほはた)立つる窓に入つて(正面先へ出て足拍子を頼む)、枝の鶯糸繰(うぐいすく)り(見まわして日付柱へ向く)、紡績の宿に身を置き、人を助くる業をのみ(左へまわって笛産前へ行く)、



賤(しづ)の目に見えぬ、鬼とや人のいふらん(中央へ出る)。

【シテ】 世を空蝉(うつせみ)の唐衣(からころも)、<以上・下記の現代語訳参照>

【地謡】 「払はぬ袖に置く霜は、夜寒(よさむ)の月に埋れ(正面先へ出る)、打ちすさむ人の絶間にも、千声万声の(足拍子を踏む)、砧(きぬた)に声のしで打つは(両手を打ち合わせる)、ただ山姥が業なれや(ツレへ向く)、



都に帰りて(まわって常座へ行く)、世語(よがたり)にせさせ給へと(ツレへ向き、中央へ出る)、思ふはなほも妄執(まうシふ)か(正面を向く)、ただうち捨てよ何事も(角へ出る)、よし足引(あしびき)の山姥が(扇をかざして左へまわる)、山廻りするぞ苦しき(大小前でツレへ向く)。

<以上>

【現代語訳】

【山姥・シテ】「それゆえ人間ではないというわけで、

【地謡・山姥】 物を隔てる雲のような身であるが、その本来の身を仮に変化させて、一念を凝らした結果、鬼女の姿となり、このようにあなたの目前に現われて来たのである。しかしながら、邪正一如(じゃしょういちにょ)という立場で考えれば、この世は『色即是空』そのままの世界であって、仏法があるから世法がある、煩悩があるから菩提がある、仏があるから衆生がある、衆生があるから山姥もあるという次第で、柳は緑であり花は紅であるというように、それぞれの区別はあっても、そのもの本来は『空』なのである。

さて山姥が人間の世界に交渉をもつ様子はといえば、ある時は、山人が薪を背負って山路の花の陰に休む折に、その重荷に肩を貸して代わって荷い月の出とともに山を出て、里まで送る場合もあるし、またある時は、機械の女性が多くの機(はた)を立てている室に窓から入って、柳の枝を飛び交って糸を繰る鶯のように糸を繰って、糸をつむぐ家に身を置くのである。このように人間の仕事を助けることだけをしているが、賤(しず)の女の目には見えず、それで、『山姥は目に見えぬ鬼である』とか言っているようだ。

山姥「なんとこの世はつらいこと。

<以上現代語訳・日本古典文学全集謡曲集(2)小学館>

【あらすじ】
 この山姥という演目のあらすじですが、場所は越後の国上路(あげろう)山中。都に棲んでいる従者(ワキ)は、共をする者(ワキシテ)と一緒に一緒に、都で百万山姥という舞の上手な遊女を連れて、信濃の善光寺を訪ねます。

 途中越後と越中の間を流れる境川つくと、突然、周囲が暗くなり山女(前シテ)が「やどをかしましょうか」と声を掛けに来ます。

 山女は「山姥の謡が聞きたい。まことの山姥をしっているのか、」「百万山姥が謡ったなら、自分も本当の姿を見せよう」と、自分が本物であることをほのめかして姿を消した。

 夜になると、山姥(後シテ)が恐ろしい形相で一行の前に現れて、百万山姥の舞ではない本物の舞を舞って見せる。それは山姥が山めぐりする様を見せる内容で、山、谷、峰の荒々詩さを表現すると同時に、仏道を説くものです。

 山姥の山めぐりは、すなわち輪廻である。

と参考にした『能ガイド【90番】』(成美堂出版)には書かれています。

 謡のみではなく舞が伴う。舞は踊りと異なり静的な動です。人間が一定の状況下で行う仕草やジェスチャーの拡大にも見えます。

言葉と身体の動作、鼓(つづみ)、笛と身体の動作。

二重構造のようですが、どうも別々ではないようです。

 ゲシュタルトとは、諸部門の性質が関係性の中で決定されてくる布置の全体といえる(「メルロ=ポンティ(道の手帳)」河出書房新社 杉本隆久p7)。

面前の現象にゲシュタルト心理学の要素が加わると、フランスの哲学者の言語論は、

 ことばというのは基本的にジェスチャー、身振りである、身振りの延長として言語を考えるもの・・・・。

能を観るとこのことがよく解ります。ある有名な哲学の先生は非常に難解にこの思いに至るのですが、世人は言葉にはしませんがそのように知覚していると思います。

 雪の舞いや虫の字を見る者からすると自然にもなにか言語性を観てしまいます。仏教は鋭く哲学しているわけです。無常感は言語であって言語ではありません。

 語り得ぬものでありながら、語られている。それは身体性においてなのかも知れません。

 現象学にベルグソン、そしてゲシュタルト。現象学にベルグソン、そして仏教が加わる。

 個人の哲学はそれぞれの入り口があるようです。

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雪の舞い・能の舞い・舞の軌跡

2011年02月26日 | 文藝

 「舞」能狂言について時々言及するものの、わたしは素人です。昨夜は長野で送別会があり午後10時ごろの帰宅となりました。小雪が舞う長野を出て、高速長野道は姨捨付近は、その雪の舞いは強く、このままでは真冬に逆戻りかと旧四賀村と旧明科町の境にあるトンネルをぬけ安曇野平に出ると、辺りには雪の気配は全くありませんでした。

 山国信州、山の隔たりが、降雪の気配を左右させます。日本海の大雪は北アルプスに遮られ、今年は例年よりも安曇野、松もの平は雪が少ない年です。深山(みやま)といいますが、実に信州は山深いところです。

 帰宅後何ゆえか、録画しておいた能狂言の番組を見ました。夜の無言(しじま)に物好きかと思われそうですが、幽玄の世界は、静寂の闇の中で鑑賞するが心地よし、そんな独言を吐くのであります。

 長野市といえば善光寺、今善光寺は多くを申しませんが僧侶間の「男女の性(さが)」を種とした、訴訟というもめごとの最中です。

 < 善き光ぞと影頼む、善き光ぞと影頼む、仏の御寺尋ねん。・・・・・ >

 ワキ・ワキツレのこの歌で始まる能は「山姥(やまうば・やまんば・やまおば)」といいます。

 今朝はこのことについて語ろうかと思っていたのですが、車を取りに朝早くから出かけなければならず、今朝はここまで致します。

 「舞」は動きの軌跡も含め、謡の声とともに、ものを表現しています。ものといっても形があるわけでもなく、時の流れの中の軌跡。受ける側の思い入れがあるだけです。実に不思議な世界です。

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雨月物語「夢応の鯉魚」・上田秋成・現実性の狭間

2010年11月30日 | 文藝

  江戸時代後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人でもある上田秋成(うえだ・あきなり、享保19年6月25日(1734年7月25日)~文化6年6月27日(1809年8月8日))を時々話題にしています。

 最近は、

夢、飛翔、上田秋成そして意識の世界(2010年10月14日 | つれづれ記)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/18c81d20f3508bbfe8b8a6a73b1af3ec

において、その著書『雨月物語』に見られる夢物語や霊験的な話に秋成の特別な思い入れを見てきました。

 前回は「秋成の筆致の曖昧さは、飛翔の現実性に対する理性による否定と、押さえきれない飛翔への関心との間で揺れる心理をおのずから反映している。」ということに言及しましたが、今回は現実の肉体から異界における別のものへの移行における「本人の自覚」について、作品での表現を紹介し秋成の意図するところを考察してみたいと思います。

 今朝取り上げる作品は、『雨月物語』巻二の「夢応(むをう)の鯉魚(りぎょ)」という話です。

 延長の頃と言いますから醍醐天皇の御代西暦923年~931年頃の滋賀県大津市にある天台宗寺門派の総本山三井寺の興義(こうぎ)という僧侶の体験した不思議物語です。

 作品全文をについての総評ではなく、上記の意識の移行について重点を置きますので、後半部分の話については言及しません。

 興義は絵画が巧みで当代の名人と言われるほどの者でした。彼の画風はどのようなものかといいますと仏像とか山水とか、また花鳥の類かというとそういう画材には目もくれず魚だけを描くものです。

 どのような魚の絵を描くのに次のようなことをするのです。興義は寺の勤行の合間を縫って、近くの琵琶湖に出かけ小舟を浮かべ漁民の仕事を眺め、漁夫が獲った魚があると買い求め、その魚を湖に放ってやります。

 そして人生なるぬ漁生をあきらめた魚たちが、思いがけなくまたもとの水に戻されて喜々として泳ぎまわるその姿を興義は素早くスケッチし、躍動的な動きと細かなえらの動き、尾の動き、鱗一枚一枚にいたるまで細密画の極致のような絵を描いていました。

 そんな日々の行いでしたが、人生というのは今日あって明日はわからないもので、ある年興義は病の床に臥し呻いていましたが、一週間目に、ハッと目をとじるとそれが最後でした。

 弟子や友人が集まり興義の死を嘆き悲しんでいました。するとその中の一人が興義の胸のあたりがかすかに動いているのに気づき、埋葬しないで三日間様子を見ていました。するとぴくッと手足が動き、ふうーッと長い溜息が興義から流れカッと目を見開き長い眠りから目が覚めたように床の上に起き上がり生き返ったのです。

 その後興義は、集まった人々に身の上に起こった不思議な話をします。その話の中に注目する部分がありますので、ここで『雨月物語(上)全訳注』(青木正次 講談社学術文庫)から引用したいと思います。

<引用・現代語訳p205~206>

 「私はこのごろ病気に苦しみ、堪えがたさのあまり、自分の死んでいることもわからず、上気して熱い気分を少しでもさまそうと、杖にすがって門を出ると、もう病気のことも次第に忘れたようになり、籠にとらわれた鳥が天空に帰ったような気持になる。山だろうと里だろうとどんどん歩いていって、いつものように湖の畔に出る。そこで湖水の碧々(あおあお)したさまを見たとたんに、むしょうに水浴して遊びたくなり、その場に衣を脱ぎすてて、身を躍らせて深みに飛びこんで、あちらこちらに泳ぎまわるが、子供のころから水に泳ぎなれているわけでもないのに、思いのまま好きかってに遊びまわっていたのだった。今から思うとばかげた夢心地だった。

 それでもなお、人間が水に浮んで遊ぶのは魚の自由さにはくらべものにならない。そこでまた、魚の遊泳をうらやむ気がむらむら起ってきた。すると、傍らに一匹の大魚がいて、『あなたの願いはたやすく実現できる。待っておいでなさい』と話しかけてきて、はるか底の深みに沈んでいったかと思うと、しばらくして、冠、装束に身を正した人が、さっきの大魚に跨(また)がって、大ぜいの魚たちを引きつれ浮かび上がってきて、私に向かって言うのだ。

 『湖神の仰せです。老憎はかねてから放生の功績がたくさんある。そのあなたが今、水に入って魚になって泳ぎまわりたいと願っている。そこでしばらく金色の鯉の服を授けて水の国の自由を楽しませてやろう。ただ、餌の香ばしい匂いに酔わされて、釣糸にかかり身を失うことがけっしてないように』と言って去り、すぐ見えなくなった。

 あまりの不思議な言葉にうながされて、わが身をふり返うてみると、いつのまにか金色の光を放つ鱗をもった一つの鯉魚に、私は化(か)しているのだ。しかもそれをおかしいとも思わず、尾を振り鰭を動かして思いのままに逍遙(しょうよう)する。

<引用終わり>

この文章の最後、の部分は、

不思義のあまりにおのが身をかへり見れば、いつのまに鱗金光を備へてひとつの鯉魚と化しぬ。あやしとも思はで、尾を振鰭を動かして心のまゝに逍遙す。

となっています。この文章の後半の意味についは、

 あやしとも思はで:人間の自分が鯉(自然物)に融合しうるのかどうかという当然の疑いも抱かずに。

 心のまゝに逍遙す:逍遙は気のむくままぶらつくこと。また自然にとけこんで天性のままに自適すること。

と説明されています。

 人間の身体意識から魚の身体意識への移行します。その際意識は同一性を保つが身体は異なります。その点に不自然さを感じるべきものが「あやしとも思はで」と表現されています。訳注者の青木先生は考釈欄で次のように解説しています。


 <考釈引用上記書p209~p210>

 この語りはまた、自腹を切って魚を放ち、「其の魚の遊躍(あそぶ)」のを見て喜ぶだけでなく、さらに進んでその自由を「描く」ことによってみずから体験する、という興義の〔芸術〕、表現への個的意欲の展開を、内側から個的な世界への飛躍の体験として摘出したものでもある。

 彼が鯉になる経過はそのまま、鯉を画く内的経過であり、彼はその中で鯉(対象)に一体化していくのである。
 
 はじめ彼は魚のように水に遊ぼうとした、いわばそれは人のまま魚の遊泳の自由さをながめ、あこがれている段階であり、つぎに魚になろうとするならば、それは魚に一体化し、さらに魚の中に自分を融かし、自分をなくそうとするところにまで進む。
 
それは「画く」欲求が自然に進んでいってしまう過程である。その時点に、道徳的な仮面をかぶせられながらも、人と魚の絶対の違い、人が魚になろうとするときの自然条件が現われ、彼の前に立ちはだかることになる。だが興義はいまだそれを不可能な壁だとは感じえていない。

<引用終わり>

 注釈者の青木先生は、興義の描きの心理を魚との一体感の視点でみています。即ち作品内の主人公をテーマにしています。この点について思うのですが、不思議さの視点は一体感ではなく、不自然さの境界が取り払われ、疑問の余地のない絶対性の感覚がある点に作者が特別な思い入れを持っているのではないかということです。

 あくまでも物語としての画家僧侶を登場させているからといって、芸術論を語るためのものではないように思うのです。

 作者秋成は、夢物語や怪奇、霊性の不思議を違和感のない現実に同化させようという人間的な本来の姿を語っているように思えるのです。

 夢か現(うつつ)か幻(まぼろし)か・・・・。上田秋成については今後もこの点についてその作品から追求したいと思います。

 私のこの問題については、ほとんど私の勝手な思い込みで探求しています。現実性に何んの役に立つのかと疑問を呈される方もおられますが、世の中には本当に現実離れの思い込みを現実と見定めて生きている人が多いのです。

 浮世の世とはよく言ったものだと思います。見定めるということは心の切り返しをしっかり持つことです。

 そのようなことも探求の根底にあるという事で理解されていただければ幸いです。

※今朝の写真引用は世界文化社の『雨月物語』から引用しました。

 

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玉となる石・万葉集信濃の東歌と記念碑

2010年10月31日 | 文藝

これまでに万葉集内の東歌についてはいろいろと次のブログで語ってきました。


信濃路に見えてくるもの(2009年07月24日 歴史)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/6edcd8719bb8d6f69bc3d8cb69882f3a

さらす手作りさらさらに(2009年07月22日 | 古代精神史)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/ff4ac7e8384bcdd6764f1a62a853c57f


万葉集と千曲川(2005年01月31日 古代精神史)
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/269feef39db8ba7c99eee11c90ce4f4a


 その中の巻の14・3400の歌について書きたいと思います。
 
 万葉学者で故人の犬養孝先生はPHPから出版されている『万葉のいぶき』本を出されていますしCDもあります。犬養先生はこの歌を「玉となる石」という名にし、この歌のもつ魂の移りについて熱く語っています。今もこの歌の解説を先生の声を肉声で聞くととても熱いものを感じます。

 万葉集の歌は、関係する地方に記念碑として残されています。この「玉となる石」という歌は、歌に詠まれている川が長野県の東から北に流れる「千曲川」か、それとも松本市の東、美ヶ原から梓川に流れる(途中で田川、女鳥羽川と一緒になる)支流の薄川(すすきがわ)が「筑摩(つかま・ちくま)」地区を流れており古代からある川であることからこの「薄川」かで、意見が分かれ現在両方の川の岸辺に記念碑が建っています。

                    
                       (写真:松本市筑摩の薄川河川敷にある記念碑)

 薄川は、「白線流し」というテレビドラマに出ていた川でご存知の方もおられると思います。

 千曲川を主張する人たちは、この記念碑を千曲市の上山田温泉の千曲川の堤防上に建てました。建立の際は犬養先生も出席され上山田温泉は観光の目玉の一つにしています。

                    
                           (千曲市上山田温泉にある記念碑)

 実は昨日から一泊二日でこの上山田温泉で同級会が開かれ、その際この記念碑を見学に行きましたので、上記著書の「玉となる石」というお話をそのまま引用し写真をそれぞれ紹介したいと思います。

 この著書の内容は、ほとんど講演内容がほぼそのまま掲載されています。

<引用p19~p22>

玉となる石

 人間には霊魂があると申します。昔の人は、霊魂というのは物につくと、いくらでも広がっていくと思った。ところが、昔の人だけではなく、われわれもまた、魂が物に触れて、いくらでも広がっていくことは、毎日毎日、気がつかないあいだに経験していることです。

 一番わかりやすい例をいうと、たとえばサインのことを考えてごらんなさい。
「この本にサインしてください」とか、「手型を置いてください」ということは、まさに魂をつけることです。もしもサインにそういう意味がなかったら、自分で、例えば”芥川竜之介 ”って書いてもいいわけです。ところが、芥川竜之介のサインのある本が一万円して、サインのない本は千円だということはどういうことでしょう。やはり人間の魂がついているかいないかのちがいです。

『万葉集』の東歌(主として東国の民謡)にこんな歌があります。

   しなの    ちぐま      さざれし
   信濃なる 千曲の川の 紬石も
   若し踏みてば 玉と拾はむ    (巻十四--三四〇〇)

                    

「信濃の千曲川の小石だっても、好きなあの方がお踏みになったのなら、美しい玉だわ、玉と思って拾いましょう」というんでしょ。石ころは石ころにすぎないのに、ただの石を宝石だと思って拾うというのは、ほんとうに素晴らしい人間の愛情だと思います。純情ですね、好きな男の踏んだ石を胸にかかえて大事にしているというのですから。

 やはり人間の魂というものは、そういうふうに広がってゆく。また、広がってゆくような考え方をするところに、人間の心の厚みがあるわけです。
 ところで、いつでしたか、朝のテレビ番組で、八十をすぎたおじいさんとおばあさんが初めて旅行をしたという話を見ました。
 
 アナウンサーが、「どちらへいらっしやいましたか」と聞くと、鹿児島へ行ったというんです。息子が戦死した。それで息子の乗った飛行機が飛び立った最後のところを、一度、二人で行ってみたいと念願していた。
 
 さて、鹿児島の南まで行ったら雨が降っていた。そしたらタクシーの運転手が、そういうことでしたら、おじいさん、おばあさん、どこまででもご案内しましょうと、飛行場につれて行ってくれた。かつて息子さんが飛び立った飛行場へです。
 
 そしたらそこに忠歪塔のようなものがある。
 おじいさんは、そこの石が欲しかった。思い出に持って帰りたかったけれど、公共のものだからと思って遠慮していたら、運転手さんが、「おじいさん、石持っていきませんか、息子さんが踏んだかもしれませんよ。」と。
 
「そうか、そういってくれるか、それじゃいただいていくか。」

といって、ハンカチにつつんで持ってかえった。
 スタジオで、おばあさんが、「ここに持ってきております。」と手をふるわせてその石を出されるでしょう。私はご飯を食べながら見ていて、こんどは涙がとめどもなく出てきて、どうすることもできなくなりました。テレビに出ている他の人も、アナウンサーも、もう鼻声になって泣いているんです。
 
 あれは、何でもないただの石です。その石がそれだけの人を泣かせるんですね・・・・・。
 
 やっぱりこれは、人間の霊魂というものは、物につくということだと思います。そのもっともよい例です。それを何でもないさ、ばかなヤツだな、ただの石じゃないかという人があるかもしれない。たしかに石ころにすぎない。ところが、石を石ではなく命にみるところに人間の心の厚みがあるんです。その心をぬきにしては、万葉の歌はぜんぜん理解できないと思います。

<引用終わり>

 私自身は、歌に詠われている川は「千曲川」であるという説に賛成です。犬養先生は「民謡」という言葉を使われています。

 この民謡という言葉は、ドイツ語の「Volkslid」を翻訳した語です。この「民謡」という言葉が現在のように周知されるようになったのは、大正後期以降、北原白秋、野口雨情、西條八十、山田耕筰、中山晋平という人々が、大衆歌曲としての民謡(新民謡)を盛んに創作しだしてからのことのようです(『万葉集の発明』(品田悦一著 新曜社)p187)。

 もしも私が 小鳥であったら・ヘルダー、ゲーテ、カント
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/373f26d453939c8ad8e80ec9d15fc878

ヘルダーの「歌に集められた諸国民の声」という古い民謡集の話をしましたが、非常に似通っています。フォルクスリートという民族・民衆の歌謡ということです。

 これ以上を話し始めると違う方向に行きそうですが、上田敏という名訳家がおられましが「俗謡・俚歌・俚謡・巷歌」などということ雑多な訳語を「民謡」を定訳としていったことがその後の大正期に一般化につながって行ったようです。

                    
 
 上山田温泉の記念碑の傍らには歌手五木ひろしの「千曲川」の歌の記念碑も建っていました。

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