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思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

「ちひろ美術館」開館15周年記念・瀬川康男遺作展

2012年04月01日 | 文藝

 4月1日(日曜日)安曇野は最後の冷え込みといった感じの寒い朝でしたが、常念岳の山々は荒れているようですが春の日差しを感じます。

 安曇野市と北安曇郡松川村の境にある「ちひろ美術館」では、開館15周年記念ということで、

 先着100名様拝観料無料

 受付にて開館15周年記念ポストカード(非売品)をプレゼント

ということで今年初めて出かけてきました。


開館9:00並びました10番目


外にはたくさんの人が並んでいました。


いただきものです。

2012年3月1日(木)~5月8日(火)

・ドキュメンタリ-映画公開記念展 ちひろ 27歳の旅立ち

・安曇野開館15周年記念 ピエゾグラフによる「わたしのちひろ」展

・<企画展> 瀬川康男遺作展 -輝くいのち-

ということで、好きな瀬川康男さんの作品もゆっくり観てきました。ちひろさんの作品については時々ブログに書いているので、今日は瀬川さんのいろいろな手法による作品の感想を書きたいと思います。

 和紙に書かれた「鬼の絵本」。



実筆の迫力に、受ける側は感嘆! すごい作者の思いを感じます。

ちひろ美術館サイトに上島史子さんという方の解説があり次のように書かれています。


<企画展> 瀬川康男遺作展 -輝くいのち-

 瀬川康男は、1960年代の日本の絵本の隆盛期に、日本一のベストセラー絵本『いないいないばあ』などの話題作を次々に発表し、絵本画家として注目を集めました。しかし絵本を描き始めたのは生活のためであったといい、どんなに絵本の仕事が忙しくなっても、タブローや版画の制作を続けました。 瀬川は古今東西の美術に精通していました。幼い頃は南画に興味を持ち、高校時代には近代西洋画に魅せられて独学で油彩画をはじめ、プロレタリア美術にも強い影響を受けています。ピカソ、シロイケス、コルヴィッツ、ジャコメッティなど気になる画家の表現を研究し、自分の手法へと次々に取り込んでいきました。20代後半にはさまざまな画材で、鳥や魚、東北の剣舞などの限られたモチーフを繰り返し激しいタッチで描いています。タブローの表現を模索し続けるかたわら、絵本では27歳のときに描いた最初の絵本から、文章に合わせて自在に手法を変え、読者を驚かせました。
 

 絵本を手がけるようになった瀬川は、印刷原稿としてダイナベースの描き分け版などを用いたことをきっかけに、版への興味を高めていきます。1970年頃からは古版本に魅せられ、江戸初期の丹緑本を現代の印刷で再現しようと『ことばあそびうた』など多くの絵本で実験を繰り返しました。一方で、1968年に欧米を旅したときにスイスの版画工房に通い詰めて修得したリトグラフ(石版画)の細密画の手法は、『さいのかわら地蔵和讃』などに生かされました。「すべてのことに惹かれ、貪欲に貪り食う。……好きこそものの上手なれの『好き』とは、そういうこと」と瀬川は語っています。
 

 瀬川が、とりわけ深く魅せられたのは、自然が創造したものの美しさでした。1977年、体調を崩して信州に居を移した瀬川は、しばらく絵本の仕事から離れ、ひたすら植物や虫のデッサンを行います。ルーペを使って構造の細部まで観察し、図鑑を調べ、細密な描写を繰り返しました。その後描かれたタブローには、観音や河童、蛙、ふくろうなどのモチーフの形や周囲の空間にさまざまな点や線、植物の蔓のような模様が果てしなく重なっています。自然の美を仔細に見つめた瀬川がたどり着いたのは、空間を埋め尽くす文様による「いのち」そのものの表現でした。


 1980年代以後、画家自身がことばも手がけた絵本もゆっくりとしたペースで発表されました。『ふたり』『ぼうし』『だれかがよんだ』『かっぱかぞえうた』『ちょっときて』『ひな』……タブローにもみられる愛犬や河童たちが、絵本のなかではあたたかなことばのリズムに乗って動いています。
 瀬川は次のように語っています。「この地球上のものはすべて、ひとつの同じ所から発生している。ひとも虫も、草木もけものも、無機質なものも一切合切……何も違いなどないのだ。別なもの、は何もない(2002年)」。2010年2月、瀬川康男は惜しまれつつ77歳の生涯を閉じました。生を営むあらゆるもののいのちの根源まで描きぬこうとした画家の、果てしなく大きな世界をご覧ください。 (上島史子)
 

<以上>

 源義経物語、木曽義仲物語などの武人の原画があるのですが、その細密の手法には感動です。

 さいの河原のお地蔵さんの原画もとても印象に残りました。

<瀬川康男さんの履歴>

 瀬川 康男(1932~2010)
 1932年愛知県岡崎市生まれ。13歳より日本画を学び、17歳で油絵を始める。1960年、初めての絵本『きつねのよめいり』を出版。1967年『ふしぎなたけのこ』で第1回BIBグランプリ、1968年『やまんばのにしき』で小学館絵画賞、1987年『ぼうし』で絵本にっぽん大賞、講談社出版文化賞絵本賞、1988年国際アンデルセン賞画家賞次席、1989年『清盛』でBIB金のりんご賞、1992年『絵巻平家物語(全9巻)』で産経児童出版文化賞大賞など、国内外の受賞多数。1977年より信州に住み、絵本と並行してタブローの制作も続けた。(ちひろ美術館サイトから)


5月8日まで開催しています。

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一筆啓上・「母」への手紙

2012年02月07日 | 文藝

 文庫本を整理していたら『日本一短い「母」への手紙』(角川文庫)という文字が目に入りました。北陸福井県は大雪に大変だと思いますが、この福井県の北部に位置する人口3万人の丸岡町は、日本一短い手紙で有名なところです。

 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

 戦国武将本多重次が息子仙千代、後の初代丸岡藩主本多成重のために送ったもので、この手紙は日本一短い手紙と呼ばれています。

 この丸岡町では、毎年日本一短い物語(日本一短い手紙)の募集し授賞式が行なわれています。毎年お題は変わり平成5年から続いており、この一筆啓上のイベントは全国の自治体主催の公募イベントの先駆であり、全国で同じような公募が行われるきっかけとなっています。以前紹介した広島市の心あたたまる話もその中の一つです。

この第一回のお題が「母」で一筆啓上賞、秀作が決められています。今朝はそこから数点紹介したいと思います。

<一筆啓上賞(郵政大臣賞)10篇の中から>

「私、母親似でブス。」娘が笑って言うの。
私、同じ事泣いて言ったのに。
ごめんねお母さん。
         (田口信子 群馬県)


おかあさんのおならをした後の
「どうもあらへん」という言葉が
私の今の支えです。
         (浜辺幸子 大阪府)

 

<秀作>

弘君のまねして お母さん と呼んでみた
やっぱりダメだ 
かあちゃんが遠くなる
         (坂村友彦 群馬県)

 

< 特別賞>

あなたを鬱陶(うつとう)しく思う時が、
私の幸せなのかも知れませんね。
明日帰ります。
         (大谷志恵 茨城県)


あなたから もらった物は数多く
返せる物は とても少ない
         (大和田早都美 北海道)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「あなたを鬱陶(うつとう)しく思う時が」

 母が元気だったころはそうでしたね。でも「明日帰ります。」と信越線の列車に乗ったのを思い出します。

 遠くに山が見えはじめ、高崎の観音様が見え、碓氷峠を越えると浅間山、そんな風景も思い出します。

「返せる物は とても少ない」

私の場合は「とても少なかった」です。

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希望・墨汁一滴(正岡子規)

2011年11月08日 | 文藝

[思考] ブログ村キーワード

 原作司馬遼太郎のNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第三部が12月4日から始まります。

 この番組を前に、前作がアンコール放送されていました。その中の第七回「子規、逝く」(前後編)を改めて観て、ドラマですが正岡子規の逝く姿に感動しました。

 ここには男優香川照之さんの34歳の若さで病苦の中で逝去する名演技もあるでしょうが、残された作品が朽ち逝く身体から生まれて多者であることに改めて考えさせられました。

 今朝のブログのタイトルにある「墨汁一滴」は晩年の子規の随筆の一つです。

 子規の墨汁一滴に入る前に、和辻哲郎先生の『続日本精神史研究』の「日本文芸と仏教思想」の序“「文学」と「文学」”に書かれている次の文章を紹介します。

<『和辻哲郎全集第四巻』岩波書店から>

 ・・・・文芸作品は体験の表現であって思想の表現ではない。従って文芸と仏教思想との交渉を捉えるためには、人は必ずこの体験の媒介を中心課題としなければならぬ。表現を解してそこに表現せられた体験に迫り、その体験の働き込んでいる仏教思想を捕捉しなければ、問題の中核には近寄れないのである。・・・・・

<以上同書P379から>

 ここでは「文芸と仏教思想」の話が展開されていますが、注目したいのは、

“文芸作品は体験の表現であって思想の表現ではない。”

 という言葉です。

 私は最近、詩句の世界を語ることが多くなっています。上記の意に反して「思想の表現」として哲学的視点、特に現象学的な志向性・指向性で語ってきています。

 最近ではギリシャ神話から「パンドラの壺」の話をし、壺に残された「希望」という言葉について言及しました。

 開けてはならぬパンドラの壺。ここから世界に放出されたこの世の災厄にさせるもの、

 病気、悪意、戦争、嫉妬、災害、暴力・・・

 放出されないで壺に残された「希望」。そのことによってこの世の中は極限の災厄を避けることができている。

 「希望」とは何なのか? 

という話でした。

 タイトルの子規の『墨汁一滴』に「希望」という文字を目にしました。

<『墨汁一滴』正岡子規著 岩波文庫から>

 人の希望は初め漠然として大きく後漸(ようや)く小さく確実になるならひなり。我病牀における希望は初めより極めて小さく、遠く歩行(ある)き得ずともよし、庭の内だに歩行き得ばといひしは四、五年前の事なり。その後二年を経て、歩行き得ずとも立つ事を得ば嬉しからん、と思ひしだに余りに小さき望かなと人にも言ひて笑ひしが一昨年の夏よりは、立つ事は望まず坐るばかりは病の神も許されたきものぞ、などかこつほどになりぬ。

しかも希望の縮小はなほここに止まらず。坐る事はともあれせめては一時聞なりとも苦痛なく安らかに臥(ふ)し得ば如何に嬉しからんとはきのふ今日の我希望なり。小さき望かな。最早我望もこの上は小さくなり得ぬほどの極度にまで達したり。この次の時期は希望の零となる時期なり。希望の零となる時期、釈迦はこれを涅槃といひ耶蘇(ヤソ)はこれを救ひとやいふらん。(一月三十一日)

<以上同書p13~p14から>

 和辻先生のこの論からすると「体験の媒介を抜きにして」その思想は語られるべきものではないことになり委縮してしまいます。

 「体験」といっても漠然としたもので、日々の生活は体験の連続であって、そこから文芸作家が作品にその体験を表現したところで、大きく読み手である受け取り側の理解の範疇を超えるものではないと思います。従って、読み手がその理解に思想なり哲学を感じてもよいのではないか、当然ではないかとさえ思います。

 文芸作家であって宗教家ではない。誰もが才能があれば文芸作家になれる可能性はあるが宗教家はそうはいかない。そこにはその道の体験が前提にあるわけです。

 「体験の媒介を中心課題」

 文芸作品に語られるものは、読み手である受ける側に理解の範疇にあるもので、その理解は受け側に委ねられるべきもののように思います。

 と勝手に私的に解釈し、上記の「墨汁一滴」の「希望」と「零」がパンドラの壺の極限の災厄に重なりました。

 想像を絶するすべてが放出された時の極限

 思うにそれは「無限地獄」止めどなき永劫回帰の苦痛が近いのではないか。

 断定できないのは次元を異にする不可知の世界です。

 しかしそれは絶対に訪れない。

 子規は、

希望の零となる時期、
釈迦はこれを涅槃といひ
耶蘇(ヤソ)はこれを救ひとやいふらん。

と書いています。

 そこに語られているのは、「絶対的な救いが必ずやある」という思想だと私は思うのです。

 最晩年の子規の身体の状態は、四六時中の「苦痛煩悶のみにて楽しき時間といふもの少しも無御座候」という「無限地獄」の状態でした。

 上記の『墨汁一滴』の文章もそのような身体の状態の中で語られています。

「希望の零となる時期」とは無限地獄の様な最悪の極限は終わるということ。

 「体験の媒介」によって示されているもの。

 それが唯一壺に残された「希望」の意味に重なります。

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魂の風景・白雲、煙、霧、朧、霞・・・(2)

2011年09月24日 | 文藝

[思考] ブログ村キーワード

 Eテレでは、9月18日「俳句」という番組がありました。兼題に「霧または自由」」でゲストにフランス文学者・作家・ファーブル昆虫館館長奥本大三郎さんを招いて視聴者からの俳句が紹介されていました。

 番組では選者の高野ムツオにより入選9句が紹介され、古語的な意味合いの「霧」ということだけではなく、現代にも生きる「霧」であることがよく分かる俳句でした。

<入選9句>







以上の9句なのですが、次の入選句の3句が個人的に印象深かったので紹介したいと思います。

この句について講師の高野ムツオ先生の解説とゲストの奥本大三郎さんとの間に次のようなやり取りがありました。

【高野ムツオ】
 病院でも自宅でもいいのですが、これは作者が大切な人の臨終に立ち会っている、そういう場面と読みました。多分作者が長い間看病して来られたんでしょうね。もう間もなくと言われた其の時に霧が立ちこめてきたんですね。この霧は亡くなった人を迎えに来てくれたんだな、安らかな死がもたらされるように・・・・・・そんなふうに思っている作者の悲しみそれから愛情が感じられる俳句です。
 
【奥本大三郎】
 先生。本人が自宅で死にたいと言って、車で運ばれて家に来る。それを作者が出迎えようとしたら朝霧が立ちこめていた、と読んだらダメでしょうか?
 
【高野ムツオ】
 なるほど、迎えるのは作者ですね。この句は「朝霧や」で切れていますから、ここで切った場合には主語は迎える作者。作者であるということは、実は俳句では基本的な読み方なんですよ。ですから私の読みよりも奥本さんの読みの方が正しいかもしれません。

このお二人の言葉のやり取りに、読みの深さに「俳句」31音の世界を見たような気がしました。

 次にこの句です。



「霧襖」という言葉。この言葉は俳句独特のようです。

 高野ムツオ先生は「霧が閉じこもるように、辺り一面に建てている、そんな意味に感じていただければいい」と述べ、「摩周湖自身が自ら(霧を)たてて、静かに眠っているんだ。人間どもよ邪魔するなよ。と言っているような句」と説明されていました。

 霧の摩周湖を想起してみると、霧自身が生き物のようにそこに居る、主体として存在するという新鮮な感覚を得ました。

 最後にこの句です。

【高野ムツオ】
 これは山深い一軒家でしょうね。朝起きて雨戸をあけた。途端に濃い霧がドンドン家の中に入ってきて、奥の大切な仏壇まで立ちこめたというそういう驚き、山深さ、山の生活感も感じられる句です。

と解説され、奥本大三郎さんが続けて、

【奥本大三郎】
 霧に乗って仏壇に挨拶に来た・・手を合わせに・・・とそんな感じがしますね。

【高野ムツオ】
 朝家の人の人と同じように、霧もやって来て手を合わせて挨拶をしている。なるほどなかなか魅力的な読み方ですね。

という話になりました。
 この俳句は、古語的な世界観で「霧」を見ると常世へ棚引き、常世へ靡く煙で、また無境界の同時場とみれば非常に幽玄の世界を感じます。

 霧は出ていませんでしたが、お彼岸の中日で昨日檀家寺にある私の父と母の墓にお参りに行ってきました。花を供え、線香を供え般若心経を唱えてきたのですが、般若心経は響き渡る、参ることは自分への供養もなったように思いました。

 常世があるのか無いのかは大きな問題ではないと私自身は思っています。それよりも無境界のおぼろげな世界とのつながり、魂の風景を感じたいものです。

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魂の風景・白雲、煙、霧、朧、霞・・・(1)

2011年09月24日 | 文藝

[思考] ブログ村キーワード

最近の万葉集の歌で大伴三中の、

 昨日こそ
 君はありしか
 思わぬに
 浜松の上に
 雲にたなびく
  (巻3-444)

 西暦729年、若い役人が多忙のあまり、みずから命をたった。そのことを先輩の役人が悲哀の念で詠んだ長歌につけられた反歌です。

 直近のブログで色彩の話をしましたが、雲にたなびくの雲は白雲に違いなく、土屋文明先生は、「雲棚引」の万葉仮名を「くもとたなびく」とし、「火葬された其の煙が・・・であろう」と語釈し「雲となってたなびく」と意訳しています(『萬葉集私註二p222)』。

 万葉集巻9-1740高橋虫麻呂歌集に次の歌があります(『万葉集(二)』中西進著講談社文庫使用)。

 春の日の 霞(かす)める時に 墨吉(すみのえ)の
 岸に出でゐて 釣船の とをらふ見れば 古の
 事そ思ほゆる 水江の 浦島の子が 堅魚釣り
 鯛釣り矜(ほこ)り 七日まで 家にも来ずて
 海界(うなさか)を 過ぎて漕ぎ行くに 海若(わたつみ)の
 神の女に たまさかに い漕ぎ向ひ 相誂(あひあとら)ひ
 こと成りしかば かき結び 常世に至り 海若の 神の宮の
 内の重の 妙なる殿に 携(たづさ)はり 二人入り居て
 老もせず 死にもせずして 永き世に ありけかものを
 世の中の 愚人の 吾妹(わぎも)子に 告げて語らく
 須臾(しましく)は 家に帰りて 父母に 事も告らひ
 明日のごと われは来なむと 言ひければ 妹がいへらく
 常世辺(とこよへ)に また帰り来て 今のごと 逢はむとならば
 この篋(くしげげ) 開くなゆめと そこらくに 
 堅めし言を 墨吉に 還り来りて 家見れど 家も見かねて
 里見れど 里も見かねて 恠(あや)しみと そこに思はく
 家ゆ出でて 三歳(みとせ)の間に 垣も無く 家滅(う)せめやと
 この箱を開きて見れば もとの如(ごと) 家はあらむと
 玉篋(たまくしげ) 少し開くに 白雲の 箱より出でて 
 常世辺に 棚引きぬれば 立ち走り 叫び袖振り 
 反側(こいまろ)び 足ずりしつつ たちまちに 情消失せぬ
 若かりし 膚も皺みぬ 黒かりし 髪も白けぬ ゆなゆなは
 命死にける 水江の 浦島の子が 家地(いえところ)見ゆ

<意訳>
 春の日が霞んでいる時に、住吉の岸に出て腰をおろし、釣船が波に見え隠れするのを見ていると、昔の事が思われて来る。----水江の浦島の子が、堅魚を釣り鯛を釣り心勇んで七日の間も家に帰って来ず、海の境も通りすぎて漕いで行くと、海の神の少女に、思いがけず漕ぎ合い、求婚しあって事は成就したので、契りかわして常世に至り、海神の宮の中の幾重にも囲まれたりっぱな宮殿に、手を携えて二人で入り、老いることも死ぬこともなく、永遠に生きることとなった。ところが、この世の中の愚人である浦島が、妻に告けていうには「しばらく家に帰って父母に事情を告げ、明日にでも帰って来よう」といったので、妻のいうことには 「永久の世にまた帰って釆て、今のように逢っていようと思ったなら、この箱をけっして開けないでください」といった。強く約束したことばだったが、住吉に帰って来て、家を見ても家は見あたらず、里を見ても里は見られなかったので、ふしぎがり、そこで考えることには「家を抜け出してたった三年間の間に、垣根もなく家もなくなることなどどうしてあろう」と考え、「この箱を開いて見たら元どおりに家はあるのだろう」とて玉篋を少し開くと、白雲が箱から立ちのぼり、常世の方に靡(なび)いていったので、浦島は驚いて、立ち上がり走りまわり、大声に叫び袖を振り、ころげ廻り足ずりをしたが忽ちに人心地を失ってしまった。若々しかった肌も皺がより、黒々としていた髪も白く変わってしまった。やがて後々には息さえ絶えてしまって、最後にはついに命もおわってしまった。----その水江の浦島の子の家のあったところが目に浮かんで来る。

という話であの浦島太郎の話です。注目したいのは「白雲の 箱より出でて 常世辺に 棚引きぬれば」です。

 最初の万葉集歌とこの浦島太郎の歌に登場するこの白雲、白い煙というものは人の命とのかかわりがあることが分かります。

 見上げるものとして、自分に関わるものとしての存在、自分を中心に置けば自他とのかかわりのあるものです。それが密接に命とかかわるものです。

 この点について高橋虫麻呂の歌浦島太郎の歌について、万葉学者中西進先生はつぎのように語っています。

<引用『詩心-永遠なるものへ』(中公新書)から>
【白雲といのち、そして煙】

 有名な浦島太郎の話は『万葉集』にも見える。「白雲の 箱より出でて 常世辺に 棚引きぬれば」はその一節で、太郎が乙姫さまからもらってきた玉手箱をあけると、煙が箱から立ちのぼって、太郎がみるみるおじいさんになったという、誰でも知っている部分である。
                                         もっとも『万葉集』では太郎だの乙姫さまだのという名前ではない。それぞれ浦島子、海神の娘とよばれる。また、玉手箱も玉篋、煙も白雲が出たとなっている。
 さて、そこで煙や白雲が出たら、どうして浦島は年をとってしまうのか。
                                         箱の中に入っていたのは竜宮城(これまた『万葉集』では常世とよばれる)の空気で、その空気の中にいさえすれば、いつでも戻ることができると考えていたらしい。万葉びとは、人間の呼吸が天上の雲や霧になると考えていたから、雲は呼吸そのものだった。呼吸、つまり息をすることが生きることだったから、けっきょく雲はいのちとひとしい。雲がなくなると、いのちもなくなる勘定である。

 そう考えると、すぐ連想されることがある。いまわれわれは仏前にお線香をあげる。大きなお寺にいくと、大きな香炉が据えられていて、そこにたくさんお線香があげられている。

 人びとはお線香をあげては、煙を体にしみ込ませて、無病息災を願う。
 なぜこんなことをするのか。この場合の煙もさっきの浦島と同じで、煙はいのちそのものなのだ。もちろん仏さまのいのちである。

 沖縄では聖所に必ず香炉をおき、香を焚く。その煙の中にカミがおりてくると考えるからだ。仏前の香の煙も、仏さまの依り代なのである。
 おそらく煙はこの世とあの世をつなぐものであろう。だから煙をつたって人間のいのちとカミのいのちとが通い合う。煙はあの世へと漂っていく。万葉の歌で、まさに煙が 「常世辺に 棚引」いたといっているとおりである。
 
<以上上記書p50~p51から>

 ここでまた「霧」のことが浮かぶ、岩波古語辞典の名詞解釈には、

 息吹。神話の世界では、息と霧は同じものとされ、生命の根源とみられていた。

と説明され日本書紀神代上の例、

 息吹のさ霧に成りませる神の御名は田霧姫命

と、万葉集巻5-799山上憶良の歌、

 大野山 
 霧立わたる
 わが嘆く
 息嘯(おきそ)の風に
 霧立わたる

<意訳>
 大野山には霧が立ちこめる。わが嘆きの息の風によって霧が立ちこめる。

 白雲棚引く、常世へ靡く煙・・・霧も命とのかかわりを持つ。個人的に霧のある風景がとても好きでこれまでに霧のある風景について書き、また霧から思考することで次のようなブログを書いてきました。

やまと言葉の世界観・霧・キリ・擬態語[2010年04月29日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/dabc4c1fa0bd8c3f22c859ad6ee1a350
 
安曇野の風景・霧と早春賦碑の桜[2010年04月13日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/bb5652672ba8a0cf360045fd9dd0b642
 
霧の安曇野風景[2009年12月05日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/1f9b745e7e914933f3309ba1931a36ff
 
マザーテレサの言葉・偶然と必然の思考[2010年11月07日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/8afed74f8cae67bce469a367e21591de

霧の道祖神のある風景・NHK連続テレビ小説”おひさま ”[2011年04月21日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/2f91f04b4aa2bb0c0d63c1025c2daaaa


上記の浦島太郎の話の中で中西先生は、

 沖縄では聖所に必ず香炉をおき、香を焚く。その煙の中にカミがおりてくると考えるからだ。仏前の香の煙も、仏さまの依り代なのである。
 おそらく煙はこの世とあの世をつなぐものであろう。だから煙をつたって人間のいのちとカミのいのちとが通い合う。煙はあの世へと漂っていく。万葉の歌で、まさに煙が 「常世辺に 棚引いた」といっているとおりである。

 白雲、煙、霧と話を進めあの世との関係を見てきました。このような霧に包まれた世界は、やまと言葉には「おぼろ(朧)」という言葉もあります。現在では「おぼろげな記憶」などと表現し、曖昧な記憶を意味します。

 現在普通に使われる「おぼろげ」は「おぼろ(朧)」と「け(様子)」の複合語で江戸初期までは「おぼろけ」と清音で発音したようです(岩波古語辞典)。

 この朧は「朧月」「朧月夜」などという言葉があり、

 春の夜のかすんだ月、その夜。

のことを言います。ここにまた(かすんだ)という言葉が出てきましたが、これはすなわち「かすみ(霞)」のことで、平安時代以後は、春は霞、秋は霧とされていて、上代では春だけでなく、秋にも霞と言ったようです(岩波古語辞典)。

 この霞に注目し「魂の風景」について語った人がいます。日本の文明批評をされていた方で政治学者森本哲郎先生(1925年10月13日 -~)がおられます。森本先生の著作集に『ことばの旅(全4)』(ダイアモンド社)があり第4集に「魂の風景について」と題し、

 菜の花畠に、入日薄れ、見わたす山の端(は)、霞ふかし。・・・・

という歌詞のかつての文部省唱歌の曲の「霞」に注目し日本人の内にもつ世界観を述べています。外国での旅でであった霞の風景と重ねながら語っています。その中から次の文章を紹介したいと思います。

<引用上記書『ことばの旅第4集』「魂の風景について」から>

・・・・・日本人は、春と秋とを問わず、おぼろなるもの、ほのかなるもの、かすむ風情、霧立ちのばる情景、こういった不分明の世界を、こよなく愛する民族と言ってもよさそうです。

 なぜなのでしょうか。さきにも述べたように、おぼろの世界は、そのなかに自分を優しくつつみこんでくれるからです。孤独な「自分」を、そっとかくしてくれるからです。そして、寂レさに耐えられない「私」を、世界にとけこませてくれるからです。日本人は、なぜかあからさまなことをきらいます。あからさまなものは風情がない、と考えるのです。

あまりにも、はっきりしているものは味気ないと感じるのです。それでは身の置きどころがない、とさえ思います。日本人が心やすらぐのは、曖曖(あいあい)とした風景、ほのぼのとした詩境、かくれようと思えば、いつでもかくれることができ、まぎれこむことができ、とけこむことができる、そういうおぼろの世界です。

 そう言えは、かつて日本人は死ぬことも、かくれることと考えていました。
 謀反の罪に問われ、わずか二十四歳で非業の死をとげた大津皇子が「磐余の池の陂(つつみ)にして涕(なみだ)流して作りませる歌一首」が『万葉集』に収められていますが、その歌。

 百伝ふ
 磐余の池に
 鳴く鴨を
 今日のみ見てや
 雲隠りなむ

 ああ、磐余の池に鳴く鴨を見るのも、きょうかぎり、自分は死んでゆかなければならない、という悲痛な歌ですが、ここには、死ぬということが「雲隠る」、すなわち、雲にかくれる、と表現されています。日本人は、死ぬことさえ、おばろの世界にまぎれこむかのように表象していたのです。

たしかに、そう考えれば、死もそれほどおそろしくありません。心やすらかに受け入れることができます。しかも、そのおばろの世界は、はっきりと識別することのできない世界ですから、どのようにも想像することができます。雲に隠れる---その雲のなかには、慈愛にみちあふれた菩薩が、両手をひろげて待っていてくれるかもしれないではありませんか。おぼろの世界の奥には、どんな浄土がひろがっているかもしれないのです。・・・・・

・・・・・ こうした日本人のおぼろの美学、魂の風景を、だれよりも見事に論じたのは、清少納言でした。だれもが知っている『枕草子』 の冒頭のあのことばです。

  春は、あけぼの。夏は、夜。秋は、夕暮れ。冬は、つとめて・・・・・・・。

 なぜなら、春のあけぼのは、「やうやう白くなりゆく、山ぎはすこし明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる」景色がじつに美しく、夏の夜は、螢がひとつ、ふたつ、ほのかに光ってとんでゆくさまがこころよく、秋の夕暮れは、日が落ちて、風の音、虫の音が、かぼそくきこえてくる風情が筆につくしがたく、つとめて冬の早朝は、雪、あるいは霜のほの白さが何とも言えないからです。

彼女がここにあげた四季のなかのいちばん心をとらえる風景は、なんと、ひとしなみに、ほのかな世界であり、おぼろの世界であり、曖曖たる世界ではありませんか。

 その詩情は、いまの私たちのなかにも、そのまま生きつづけています。そして、それが生きつづけるかぎり、「菜の花畠に、入日薄れ」という唱歌は、日本でいつまでもうたいつがれてゆくにちがいないと私は思います。

<以上上記著>

上記の唱歌はほとんど詠われなくなったのではないでしょうか。森本先生の話はまた視点を変えて、何かを教えてくれます。

 白雲、煙、霧、朧、霞・・・

この無境界ともいえる世界です。そっこにまた魂の風景を見ることができるように思います。

 

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旅寝論・眼ににらみ出す

2011年09月20日 | 文藝

[思考] ブログ村キーワード

 昨日は万葉集の歌を話題にしました。歌というと音楽をイメージしそこで語られるのは詩です。万葉集の歌も死のように長い長歌もあれば短歌もあります。そして歌には俳句もあれば、川柳もあり、当然古くから和歌もあります。

 最近では野田総理大臣の「ドジョウ」が有名になり相田みつを記念館を訪れる人が増え、ドジョウ鍋を求める人も多くなったようです。私は文芸評論家ではありませんので専門的な知識は持ち合わせていませんが、短い文章に秘められた不思議なパワーがあることは確かだと思います。

 文章を書くときに、意味の無いことを書く、意味の無い単語を並べるとします。そうすると作られた文章は意味がないかというと、本人がそうだと自認したところで、分析心理学の立場から見れば、言葉の連続性の自己の表出の片面を診(み)ますし、ゲシュタルトで診れば、無意味を行動するあなたを診ることになります。

 それは何故か、身体と精神は引き離すことができないということではないかと思います。人は肉体を離れることはできない。肉体から離れたところに超越的な存在を想定したところで、また感じたところで「想」であり「感」であり、肉体を離れてはいない。

 13世紀の神秘キリスト教者マイスター・エックハルトの光明(火花)の思想はそこにあるように思います。ニーチェの凄さはそこを完璧に「神は死んだ」と述べたところにあり、だから人の発動力を「力への意志」に求めたのだろうと思います。

 最近フランスの哲学者メルロ=ポンティに魅かれているのですが、私自身の理解では同じ路線にあると思いますし、西田幾多郎先生の思想も最近では、ポンティとの比較論文を目にすることができます。

 この点この境界を離れてしまったと思えるのが、鈴木大拙先生の思想で最晩年は、その某霊能者の翻訳の姿勢からもうかがうことができます。

 さて今回はそんな話を中心にしようとするものではなく、いつものように、これもまた最近読んだ本からの衝撃を語りたいと思います。

 手元に2011.5.20に第四版二刷の『静塔文之進百物語 第四版 真蹟集』(石川文之進著 近代文芸社)という本があります。俳人でもあった精神科医平畑富次郎(静塔)先生の俳句思想を後輩の医師である著者が語ったものです。

 勝手に俳句思想と言ってしまいましたが、私の私見です。「五七五」の俳句の世界。時々子規の世界をブログに書いていますが、この著書のパワーには恐ろしほど深みを感じました。

<過去の子規に関わるブログ>

平気で生きる・正岡子規・河野裕子・「NHK視点・論点」から
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/28bead3ad01e918015c0fc3d0407172b

正岡子規と宮崎奕保禅師・平気で生きる
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/b7000c7a4bc8cd008b7e8e67c4d7fb8a

NHKL教育Jブンガク・正岡子規・病牀六尺
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/ebbc1f45dea1dac8f05e949e9e231b75


 さて本論に入りますが、思い出の名句の一つとして、

「狂ひても 母乳は白し 蜂光る」

が揚げられ、次のように書かれています。

<引用上記著>

 静塔は天下の句聖。ある時、永らく勤めた宇都宮病院に句碑を建てんとして「狂ひても母乳は白し蜂光る」と綴字して示す。文之進(著者)その句意を解さず、かつ、これが静塔の代表作であることも知らず、「別の良句なしや」と問うに、静塔ただ一言「これでよし」と。文之進不承不承、句碑建立を手配す。

さて、一人の元小学校教師の欠陥分裂病の患者があって、二日中無為、茫乎であったが、句碑の成ったのを見て、突然色をなして怒り出す。「私たちを動物視するのか」と。

 また、別の女子患者、病棟屋上より句碑めがけて身を翻し自殺する。
 いずれも痴呆化、荒廃が著しく、外界から閉ざされた精神であったが、それが句碑の一文によって大いに揺り動かされたわけで、それに引き換え、句の力を感じ得なかった我が鈍感さに恥じ入る思いをしたのであった。それにしても文之進には句の意味が判然とせず、白き母乳と蜂との関連に、なにやら分裂病者の述語思考によらずしては分からぬものがあるやに思い、精神科の先達でもある静塔に「何の意味や」と問うに、静塔澄まして日く「初乳にプンと蜂が飛んで釆た。それだけだ」と。文之進には却って分からず。・・・・

ここまで読み進めて「何だこれは」とそのリアルな状景に言葉を失います。著者によると

 静塔の『自註』を見る。
 日く「教師を止め本来の臨床医になってからの作。産褥性精神病者、乳房が張って絞ってもらう母。私は蜂となって天空から彼女を見守るだけ。」

さらに、

 静塔俳句『自解』(句集『かりがね』昭和四十八年)に日く、
 
 戦前のホトトギスに川端茅舎が、「花杏受胎告知の虻びびと」という聖母マリア礼讃の 宗教画のような一句があった。その句が余りにも印象が強かったので、いつか私の心の底に潜みつづけて居たため、私のこの句が出来たのかも知れない。
 昭和二十四年か五年の作である。お産の直後精神を病んで入院したまだ若い母のことである。授乳を中止した乳房は痛々しいまでに張って熱をもったので、看護婦さんが乳しぼりをしたという。こんなに白く美しいおっぱいが出ましたと見せられたのは医師である私であった。この際の蜂、陽光に光る蜂は院庭を飛ぶ蜂にすぎないが、この狂へる母、白妙の母乳をしたたらす人にまとふのにふさわしい虫と思ったので、この場に登場さした。茅舎の句の虻が受胎告知を知らせる声を発して居るが、私の蜂は蜜とも覚し母乳に慕ひよったやうだ。母二句とも祝福図である。(但し狂の一字は私の持論で抹消したい字であるが、この際は止むを得ない。)

と静塔先生の思いが書かれています。そして最後に俳人の山口誓子(やまぐち・せいし)著の『鑑賞の書』(東京美術)に書かれているこの句の批評を最後に紹介しています。

<引用>

 平畑静塔は精神科の医者である。
 静塔が「狂ひても」とうたいだせば、それは狂人のことである。
 つづいて「母乳は白し」とあるから、狂人は女で、母である。その母の乳房の乳が白いことを、授乳のときにみたというのか、子を引き離され、乳房より乳のひとりでにこぼれるのをみたというのか。

 いずれにしても「母乳は白し」である。

 この「母乳は白し」の上に「狂ひても」が置かれると、読者の私ははげしいショックを受ける。精神に異常をきたしたとはいえ、子を育てる母乳はいぜんとして白いのだ。
 そんなときにも母乳が白いということ、そのことから私ははげしいショックを受けるのだ。人間が悲しい生きものであることをその白い母乳によって知らされるからだ。

 「狂ひても母乳は白し」で充分だろうか。いな、それではたりない。その上に俳句の場として「蜂光る」が必要なのだ。
 精神科の環境は草木生い、春になると、そこにきてとぶハチが、きらりきらりと光る。
 そのハチの光が「狂ひても母乳は白し」をいっそう切ないものにする。
 『旅寝論』に「はいかいの眼ににらみ出す」ということが書かれている。「蜂光る」は俳句の目ににらみだしたのだ。

<以上>

 『旅寝論』とは、蕉門の代表的俳論なのですが、この「眼ににらみ出す」という言葉に相手なしの身体の独白のような感覚を得ます。

 相手ありての告白ではなく、相手なしの独白。

 相手に分かりやすい俳句もあれば、そうでない俳句もある。


「狂ひても 母乳は白し 蜂光る」


 最初は、とんでもない俳句だ感じたものが、独白の心底を垣間見ると恐ろしいほどその句に、患者を診る精神科医平畑富次郎(静塔)を見たように思います

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 日めくり万葉集・雲にたなびく(大伴三中)・不条理な、あまりほも不条理な

2011年09月18日 | 文藝

[思考] ブログ村キーワード

 今日はNHK「日めくり万葉集」で紹介された歌を中心に話を進めようと思います。9月13日(火)に放送された歌です。

巻3-444大伴三中(おおとものみなか)

 昨日こそ
 君はありしか
 思わぬに
 浜松の上に
 雲にたなびく

テキストには、次のように訳されています。

 昨日まで
 君は世にあったのに
 思いがけなくも
 浜松の上に
 雲となってたなびいている

 729年、若い役人が多忙のあまり、みずから命をたった。そのことを先輩の役人が悲哀の念で詠んだ長歌につけられた反歌と説明されています。

 撰者は教育社会学者で東京大学大学院教授の本田由紀(ほんだ・ゆき)先生です。



 雇用問題についての調査研究をなさっておられるということで、この歌を選んだ背景には現代社会との重なりを思ってのことだと思います。

 何時の世も、同じことがくり返されている、ということが分かる歌です。

 長歌はどのような歌かと言いますと、

<巻3-443>

 天平元年己巳(つちのとみ)に、摂津の国の班田の史生丈部龍麻呂(はせつかべたきまろ)自ら経(わな)きて死にし時に、判官(じよう)大伴宿禰三中が作る歌一首井せて短歌

 天雲の 向伏す国の ますらをと 言はるる人は
 天皇(すめろき)の 神の御門に 外の重に 
 立ち侍ひ 内の垂に 仕へ奉りて 玉葛 いや遠長く
 祖の名も 継ぎ行くものと 母父に 妻に子どもに
 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命は
 斎瓮(いはひへ)を 前に据ゑ置きて 片手には
 木綿(ゆふ)取り持ち 片手には 和栲(にぎたへ)奉り
 平けく ま幸くませと 天地の 神を祈(こ)ひ祷(の)み
 いかにあらむ 年月日にか つつじ花 にほへる君が
 にほ鳥の なづさひ来むと 立ちて居て 待ちけむ人は
 大君の 命畏(みことかしこ)み おしてる 難波の国に
 あらたまの年経(ふ)るまでに 白栲の 衣も干さず
 朝夕(あさよひ)に ありつる君は いかさまに
 思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を
 露霜(つゆしも)の 置きて去にけむ 時にあらずして

【意訳】
「はるかかなたに天雲の垂れ伏す遠い国に生れついた、ますらおといわれる者は、天皇の御殿で、あるいは外に立って警護に当り、あるいは禁中のおそば近くでお仕え申して、末の末までも先祖の名誉を継いでゆくべきものだ」と父母にも妻や子にも語り聞かせて、国を出で発ったその日以来、故郷の母君は、部数を目の前に据えおき、片手には木綿を捧げ持ち、片手には和栲を捧げ奉って、どうぞ平安無事でいて下さいと天地の神々に祈願して、いつの年いつの月日に、元気なあなたが苦労を重ねながらもはるばる帰ってくるだろうかと、立ったり坐ったりして待ち焦れていらしたに違いない、その当のあなたは、天皇の仰せにひたすら従い、難波の国で年がたつまで、着物を洗い乾す暇さえもなく朝夕勤めに励んでいた、そんなあなたは、ああいったいどのように思われて、生きがいのあるこの世を振り捨てていってしまったのであろうか。まだ死ぬべき時ではないのに。

 大伴三中は、天平8年に遣新羅副使で活躍するほどの人で、その時の従六位下で、天平18年に十五位下になっている。

 天平元年11月に京及び畿内の班田司が任ぜられ、状況からして其の判官になったらしい。判官という身分は時間の次で三等官、それに対して自殺した丈部龍麻呂は、史生で四等官の下で書記という身分でした。

 摂津の国の長官すなわち班田使(はんでんし)は、わかりませんが山城国の班田使には葛城王(後の橘諸兄)などがなっています。

 班田司の仕事はどのようなものであったか、葛城王の歌に「あかねさす昼は田給びてぬばたまの夜の暇につめる芹(セリ)これ(巻20-4455)」という歌があります。日めくり万葉集では、

4月22日(金)第260回で伝承料理研究家の奥村彪生先生がこの歌を紹介し「あかるい昼のうちは 田を分け与え 暗い夜になって やっと時間をみつけて摘み取った芹が これです」という訳で紹介されています。食の文化からすればセリを食する文化という話でいいのですが、葛城王が食する、それも昼間は「田給びて」=「田賜びて」で葛城王が自ら天皇の命令で田を分け与える仕事に専念し、「夜の暇」で勤務終了後にセリを摘んでいるわけです。

 次の4456の歌に「葛城王はますらをだと思っていたのにセリなんか摘んでいるんだ」などという歌があります。

 班田司の任命に伴う太政官からの班田の方針は「貧しいものから先に(先貧後富)」というように今の世でも尊敬に価する行政方針・・・・従って役人も馬鹿をしていられない。贅沢三昧、搾取などという世界ではなく、身を貧にして民のために働かなければならない。

 したがって、厳しい仕事環境です。丈部龍麻呂は下級の役人ですから、上司である大伴三中も多分、夜セリを摘むほどの環境であったと思われます。・・・・だから歌に「おれだって頑張っているんだ・・・・なのになぜ・・・」の情感が出ているのです。

テキストには、内田賢徳先生の「不条理な、あまりにも不条理な」というこの歌に込められている思想が語られています。

<引用NHK『日めくり万葉集』9月号から>

(内田賢徳)

 不条理な、あまりほも不条理な

 死者は向かっで、なぜ死んだのと問う。死者が答えるわけはないのだから、これは不条理な問いである。また、通常病死などは理由が明白であって、かく問うことはない。

なぜ死んだのは、とりわけ自死に向けられる。自死は理由らしい理由が見当たらないことが多く、「ぼんやりした不安」と記した作家もあった。

残されたものの衝撃と、続いて起こる孤独感は深く、したがってこの問いは形の上だけの問いで、その死を認めないと死者をなじるような謂いである。

 死を認めようとしないその態度は、『万葉集』の歌では、三中の長歌に「いかさまに 思ひませか」とあるような成句で示される。どう思って死に赴いたのかと、不条理に訪れた死を、あたかも死者の意志であったかのように不条理に問うのである。

 ただし、『方葉集』では自死に特徴的なのではない。理由の明白な死は、おそらく老衰やよほどはっきりした病死に限られていて、大概の死は唐突に訪れたからであろうが、この成句には由来するところがある。

死をとんでもないことだと言う「逆言(およずれ)、狂言(たわごと:理に反したことば、気のふれたことば)」もそうだが、これらは死を認めないという態度に発している。

 唐突な死に出発ったときに、まずその死を強く否定すること、言うまでもなくそこには復活儀礼の痕跡がある。ここの反歌第一(444)は、長歌に濃厚な杏定の意志が、浜松の上に上昇し、たなびく雲に死者を見て鎮まると歌う。

 なぜ死んだのという不条理な問いには、秘められた歴史があった。

<以上上記書から>     

じつに納得する解説だと思います。

 さてこの丈部龍麻呂の自死は、過労自殺のようです。番組では撰者の本田先生が現代の社会情勢に重ね次のように語っていました(テキストから引用)。

【本田由紀】

 現代における過労自殺というのは、本当に深刻な問題です。ひたむきで真面目な若者ほど仕事からの過大な要請の中に自分の身を置き、ひたすら打ち込んでボロボロになり、結局、自分を消してしまうといった事態が起きています。

 今、「自己実現」とか「個性の発揮」であるとか、「あなたらしい人生を歩むことがいいんだよ」みたいな考え方が、かなり強くなってきています。それが実現できれば良いのですが、むしろ実現できない若者が多く生み出されているわけです。

 自己実現という強烈な光が掲げられ、でもそれが実現できない開も深く広がっている。若者にとって、そのギャップに引き裂かれたような状況が強くなっていると思います。

<以上>

 先生は若者に視点をおいて語っていますが、私のみの周りでは中年が多くみられます。責任感に押しつぶされる、上司はそこが見えない。実績評価が上司の能力評価であり、如何に部下に実績を上げさせるかです。

 実際部下の自死は評価には含まれません。多分雲を見上げることもないでしょう。

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日めくり万葉集・長月・萩の歌・森陽香

2011年09月02日 | 文藝

 長月、9月に入りました。外ではコウロギの鳴き声が聞こえます。残暑はあるものの確実に春が来ています。

 9月に入っての最初の「日めくり万葉集」の歌は、「萩の花」が読み込まれた歌でした。



 解説は上代文学研究者の森陽香(もり・ようこ)先生です。

秋風は
涼しくなりぬ
馬並べて
いざ野に行かな
萩の花見に
(巻10-2103作者未詳)


 秋の風は
 涼しくなった
 馬を並べて
 さあ、野原に行こうよ
 萩の花を見に

解説によりますと万葉集の中には150種類の植物が歌われています。その中で「萩」が読み込まれている歌は140首以上で、この時代人々がいかに愛した花であるかがわかります。

 自宅の庭にもあるのですが、もう既に花は風に散りはじめています。この花は毎年同じ株から芽を出します。毎年同じ場所に、毎年同じ風景を作ってくれます。

過去ブログ

2008年10月25日
春秋の争い
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/07c1dca1e8a1234f5239554c0c47f558

で、京都府木津川市の馬場南遺跡で「阿支波支乃之多波毛美智」と書かれた奈良時代の木簡が発見された話を書きました。




 今回の森先生の話の中にも詳しく解説されていました。

 木簡には「阿支波支(あきはぎ)」と万葉仮名で表記されています。これが『万葉集』では「秋芽子(あきはぎ)」と表記され「芽」一文字で「はぎ」をあらわしています。

 この理由は先ほど言ったように古株から直接また芽を出すからであろうというのです。

 体感からして非常に納得する説です。

 「萩」という漢字が古資料に出てくるのが平安時代になってからのことということで、このように萩が万葉歌に数多く詠まれることから、秋を代表する花として「萩」という文字が使われ、現代にあるのですから感慨深いものがあります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 これも過去ブログの話ですが「萩」関係して、

2009年08月17日
萩の花と縁起の理法
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/64a839bb83ccbb65460889c1b7bb64e2

 わが岡に
 さ男鹿来鳴く初萩の
 花嬬(はなづま)問ひに
 来鳴くさ男鹿
(巻8-1541大伴家持)

を紹介しています「萩が鹿の妻である」という古代人の自然に対する発想です。稲妻に見る「稲の妻」同様の「いのちの宇宙」を感じる花でもあるのです。

番組では次の歌も紹介されていました。



「日めくり万葉集」今朝は上代文学研究者森陽香先生の「萩」の話を中心に話しました。

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中国の雷・日本の雷さま・日めくり万葉集・森陽香

2011年08月06日 | 文藝

[思考] ブログ村キーワード

 中国の新幹線は雷に弱かった。日本では当然あるべき避雷針がなく雷の直接受けて信号設備が正常に作動しなかったことが原因のようです。

 「雷に打たれたような衝撃」という表現をします。「雷に打たれる」の打たれるという表現は、日本刀を振り落されて斬られる場合の刀に打たれると同じ意味合いで、「バッサリ」「スッパリ」「スパット」と鋭さのある---この場合は音から来るので---擬音語が合う言葉です。

 中国にこんな話があります。

<『道教百話』(窪徳忠著 講談社学術文庫)から>

 董(とう)某が昼寝をしていると、妙な姿の数匹の鬼があらわれ、この男は口がとんがっているから、病気中の雷さまの身代わりになれそうだといいながら、斧(おの)をそでに押し込み、りっぱな御殿につれていった。

殿上にすわっている天子ふうの人が、「ある村の姑(しゅうと)に不孝をする嫁が天罰をうけることになったが、官公が折あしく病気なので行く者がない。手下どもがお前を代わりに推挙しているから、おふだをもらって行ってこい」という。

董がおうけをして御殿のそとにでると、もう足もとには雲がむらがり、まわりには稲妻が光って、りっぱな雷神となっていた。
                 
 空を飛んでその村に行くと、土地神(とちしん)が案内にきた。空からみると、嫁が姑に毒づき、そのまわりを大ぜいの人がとりかこんでいる。董が袖から斧をだして一撃すると物すごい音がして、嫁はすぐに倒れ、まわりの人はおどろいてひざまずいた。

董が帰って報告すると、天子ふうの人はひきとめて別の職につかせようとしたが、辞退した。改めて、希望をきかれたので、学校に入りたいと答えた。「来年は入学できる」、と天子ふうの人がいったとたん、夢からさめた。

ふしぎに思って、その夢の話をして、みなといっしょにその村に行ってみたら、たしかにひとりの女が雷にうたれて死んでいたし、その日時もまったく一致していた。しかも、翌年には入学もできた。「子不語一巻五 署雷公(しょらいこう)」

<以上同書p81「雷さんの話---雷神」から>

 「雷にうたれて死ぬのは天刑のあらわれ」と中国では昔から思う人が多いようです。と事故で犠牲者となられた人の冥福を祈るのでもなく中国批判をするのかと言われそうですが、そうではありません。今日はこの「雷さま」の話を書きとどめたいと思うわけです。

 雷さまというと「雷神」とも呼ばれています。雷神と言えば過去に、

光明を探して(2)[2010年08月22日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d098191100cf25e4aad40512bbecbc12

で、書道家の金澤翔子さんの「風神・雷神」の書の話をしたことがあります。



俵屋宗達のあの有名な「風神・雷神」画を漢字で思うがままの筆遣いで表現したところ、宗達の絵の構図が全く同じであったという不思議な話です。

 雷さまと言うと人智を超えた自然現象で科学的にその現象は説明できても100%ここに落ちる、この人を打つ、ということは言えるものではなく、避雷針を設置するか、金属のものを体から遠ざける、車の中に逃げ込むなどの方法しかなく、ある面気ままな暴れん坊という擬人化もされそうで、子どもの雷さまのキャラクターも目にします。

 さてこの雷さまの話で、8月1日のEテレ「日めくり万葉集」はあの上代文学研究者の森陽香(もり・ようこ)先生が、雷を詠った万葉集歌を紹介されていました。



日本では雷さまのことを「稲妻(いなずま)」



 「雷(いかづち)」「鳴る神」と呼びます。

 番組内容と少々ずれますが、日本における雷さまの立ち位置はどうなのかという話をしたいと思います。

 森先生は番組で雷さまの歌を2首紹介されました。

<巻19-4235>

 天雲(あまくも)を     天雲乎
 ほろに踏(ふ)みあだし   富呂尓布美安太之
 鳴(な)る神も       鳴神毛
 今日(へふ)にまさりて   今日尓益而
 恐(かしこ)けめやもす   可之古家米也母
 (県犬養美千代 あがたいぬかいのみちよ)


 天の雲を
 ばらばらに踏み蹴散(けち)らして
 鳴る雷でも
 今日以上に
 恐れ多いことがありましょうか

※女官が天皇にお会いされた際の恐れ多い心情を詠ったもの。



<巻14-3421>

 伊香保嶺(いかほえね)に  伊香保祢尓
 雷(かみ)鳴(な)りそね  可未奈伊里曽祢
 我が上(へ)には      和我倍尓波
 故(ゆゑ)はなけども    由恵波奈良家杼母
 児(こ)らによりてそ    兒良尓与里弖曽
  (東歌 上野国歌・かみつけのくにのうた)


 伊香保の嶺に
 雷よ
 鳴ってくれるな
 僕にはなんともないけれど
 かわいい恋人が怖がるからさ

これ等の詩を紹介されて森先生は、最後に

【森陽香】

「僕にはなんともないんだけどね」 と、わざわざ歌の中でことわっているところに、男の強がりがちょっぴり見えるようで、愛らしい歌です。

『万葉集』には、雷を詠んだ歌が十数首あるのですけれども、そのおよそ半分が、この歌のように、恋に関わっで詠まれています。

一方、季節という点から考えてみますと、はっきりと「夏の歌」とわかるものがありません。万葉びとにとって宙は、季節の風物詩というよりも、恋と関わって歌に詠まれているところが面白いですね。

【以上】

 こういう話は素直に納得してしまいます。

 私の知る限りでは、雷さまは稲妻として、実りと密接に関係していました。番組では紹介されませんでしたが奈良時代には「稲交(いなつるび)」とも呼ばれ、雷光は稲と情を交すものと考えられていたのです。

 雷鳴というほどに凄まじい雷神ですが、他方キャラクターにもなってしまうのが日本の雷さまなのです。




(江戸期の団扇絵)

日本の雷さまには、怖さと恵みの優しさが同居しているのです。


生物学者の無常観

2011年07月27日 | 文藝

 Eテレ「日めくり万葉集」の歌の撰者は、いろいろな職種の方々です。その専門分野の職業に従事し、蓄積された知識や経験から万葉集の歌の響きをその独特的な認知体験を語ってくれます。

 生物学者の青山学院大学教授福岡伸一先生もその一人で、子どもの頃から生物に興味を持ちつづけ生物学者となりその専門的な視点から見た万葉の世界を語ってくれる。



先月の二日には巻12-3086の

 なかなかに
 人とあらずは
 桑子にも
 ならましものを
 玉の緒ばかり

訳(テキスト)
 なまじっか
 人間なんかでいないで
 桑の葉を無心に食べる蚕にでも
 なりたい
 はかない命だとしても
        <作者不明>

を選出し、この歌が書かれたのは今から1300年ほど前のこと、生命の歴史は38億年の中で考えると現代とほとんど変わらない時代に生き、現代人とほとんど変わらない人生観を持っていたことがわかると語ります。

 蚕は一生懸命に絹糸を吐くことに専念し世の中の煩わしさに惑わされることなく一生を終る、この作者は精神疾患が蔓延しつつある現代人と同じように精神的な苦しみの中にいたのではないかということです。

 福岡先生は、

 この歌の面白さは、他の生物と、人間の生命というのは、ある種つながっていて、生まれ変わることができる。あるいは自分の前世とか次の世というものを想定する。そういう自然観があり、それが現在の私たちの底流にそなわっているところにあると思う。

といい古代人の生命観は、現代の生物学からも納得できるものがあるといいます。

 さらに、

 私たちの身体を作っている分子や原子は、食物をとることで絶え間なく入れ替わっているわけです。でも食物というのは、他の生物の身体の一部ですから、そこから分子をもらって一瞬私たちの身体を構成します。でも、それはすぐに分解されて、呼吸とか排泄物となって環境に散らばっていく。それがまた別の生物の栄養になり、エネルギー源になり、身体の一部になる。

 つまり、地球全体の原子の総量というのは太古の昔からそれほど変わっていなくて、それがぐるぐると回って、いろいろな形になり、バトンタッチを行っているのが、地球上に多種多様にいる生物、生命現象だということです。

と語ります。生物学者の語り生命観、淡々とした人生の流れを語っているように思います。

 それはある種誤解のある無情的な無常観を語っているかというとそうではないのです。昨日の「日めくり万葉集」の撰者も福岡先生で柿本人麻呂の次の歌を選出し語っていました。

 もののふの
 八十宇治川(やそうぢがわ)の
 網代木(あじろき)に
 いさよふ波の
 行くへ知らずも
 (巻3-264 柿本人麻呂)


 もののふの
 八十宇治川の
 網代木に
 さえぎられていざよう波の
 行方がわからないことよ

という歌で、川の中に設置された網代木という魚を取る場所に立つ波、しばしそこに滞るかに見える波だが、この波はいったいどこへ流れ去ってしまうのであろう、という内容のものです。

 福岡先生は、京都で学生時代を送り、字治川の河畔を散歩しでいると、水の流れがたゆたったり、くるくる回ったり、草に絡まりながら動いていく、そういうようすをよく見ていたといいます。

 このような実体験とこの万葉歌そして生物学者の視点から前記の歌からの生命観、生きものの身体を形づくる分子が、常に入れ替わっているという生命現象に注目し、この歌から、科学のもつ意味を改めて考えさせられるど言い次のように語っています。

【福岡伸一】

 たとえば、私たちがやっている生物学は、分子や原子のレベルで生命現象の流転や変換、あるいは分解を考えています。それは言つてみれば、ここで詠われているような「いさよふ波の行くへ知らずも」と同じことなのです。

 科学は人間がずっと考え続けてきたことを、もう一度違う言葉で、やや高い解像度をもった文体で言い直しているに過ぎないのではないかと思うことがしばしばあります。
 
 ギリシアの哲学者も鴨長明も、そしで人麻呂も水の流れを見ると同じような無常観を抱きました。つまり、人間が自然を見るということは、昔から変わっていないのでしょう。

そのことは、むしろ力強いと言いますか、励ましのメッセージとも受け取れます。昔から同じような営みが繰り返し行われてきて、そのなかの釘を一本私も打つという意味で、まあ頑張りなさいというメッセージなのではないかと思うわけです。

 この歌の「行くへ知らずも」というところに、私は惹かれます。それは、私が学生時代に一所懸命研究をしながらも、自分がこの先どうなるのかわからなかったことと通底していますし、年を経てもう一度宇治川の畔に立つたときも、やはり私はこの先どうなるのかと感じるだろうと思うからです。

<以上テキスト参照>

ここで語られている無常観、福岡先生は

<ギリシアの哲学者も鴨長明も、そしで人麻呂も水の流れを見ると同じような無常観を抱きました。つまり、人間が自然を見るということは、昔から変わっていないのでしょう。

そのことは、むしろ力強いと言いますか、励ましのメッセージとも受け取れます。昔から同じような営みが繰り返し行われてきて、そのなかの釘を一本私も打つという意味で、まあ頑張りなさいというメッセージなのではないかと思うわけです。>

と現象(よどみなく流れたる)の中に

 励ましのメッセージ
 
 頑張りなさいというメッセージ

を感じるというのです。これは無情ではない、無常観であるというわけです。

 よどみに立つ波、波の流れ

ということで生物学者から見た波と無常観の話でした。