思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

畜生残害の類

2011年06月22日 | 文藝

 物事を考えるときに視点を変えるということがとても重要に思います。考察の手法を変えることで別な結論が導き出されるかもしれません。

 また、結論は同じでも考えの過程が異なる場合もあり、それも物事を考える上で参考になるように思います。

 昨日「なぜ動物の命は尊いのか」という見出しのブログを発見し、立ち寄らせていただきました。

 仏教的な立場から「輪廻転生」を主題に説かれていました。

 今朝は日本の古典から動物の愛護の視点を見てみたいと思います。「有情」という言葉が使われ仏教的な話ではありますが、作者の考察視点をどこに置いているかがよくわかる話です。

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 人間以外の動物界の集団や親子関係の観察から「共感(Empathy)」について探求し、現代人の行き過ぎた競争社会に、人間の取り返すべきものは何かということを追及する動物行動学者(フランス・ドゥ・ヴァール『共感の時代』(紀伊國屋書店)もいれば、ペットとして共に生活する中にやすらぎを求める人もいます。

 動物を見る視点は異なりますが、ともに何かを動物から教えられるからではないでしょうか。

 反面、人は他人を軽蔑するときに「あなたは犬畜生以下だ」という言葉を使う時があります(今はほとんど死語化しているかもしれませんが)。

 「畜生道」という言葉は仏教語で、「生きているときのに悪いことをしたために死んでから落ちるという境遇」をいい、六道の中の三悪道の一つとされています。

 今朝紹介する古典は、吉田兼好の『徒然草』です。人によっては『ヘタな人生論より 徒然草』(荻野文子 河出書房社)と言う人もいるくらいで、昔から多くの人にありされている古典です。

 しかしかの有名な作家芥川龍之介は『侏儒の言葉』の中で、

>・・・・・正直なところを白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利ではあることは認めるにしろ。・・・・・<

というように、あまり善しとしない人も多いのは事実です。

さて徒然草第128段に「畜生残害の類」の次の話があります。現代語訳を紹介します。

<第首二十入段>

 雅房大納言(まさふさのだいなごん)は学識のすぐれた、りつぱな人なので、近衛大将にもしてやりたいものだとお思いになっていたころ、上皇の側近に仕えていた人が、「ただ今、あきれはてたことを見ました」と申しあげられたので、

「何事か」とお尋ねになったところ、「雅房卿が、鷹に餌をやろうとして、生きている犬の足を斬っておりましたところを、中垣(なかがき)の穴から見ました」と申しあげられたので、いとわしく、憎くお思いになられて、ふだんのご寵愛も変わってしまい、雅房卿は官位の昇進もなさらなかった。

これほどの人が、鷹をお持ちになっていたことは、思いもよらぬことだが、犬の足の一件は根のないことである。嘘を言われたのは、気の毒なことであるが、かようなことをお聞きになって、お憎みになった上皇の御心は、たいそう尊いことである。

 いったい、生きているものを殺し、傷つけ、たたかわせて遊び楽しむような人は、畜生が互いに食いあっているのと同類である。すべての鳥獣、小さな虫にいたるまで、注意してその様子を見ると、子を思い、親を慕わしく思い、夫婦が連れそい、ねたんだり、怒ったりし、欲望が多く、わが身を愛し、命を惜しんでいることは、ただただ愚かで無知であるがために、人間よりもいっそうはなはだしいものである。

彼らに苦痛を与え、その命を奪うようなことが、どうしてふびんでないことがあろうか。総じて、あらゆる生き物を見て、あわれみの心を起こさないような者は、人間ではない。

<以上日本古典文学全集27『徒然草』小学館から>

 文中に、

>すべての鳥獣、小さな虫にいたるまで、注意してその様子を見ると、子を思い、親を慕わしく思い、夫婦が連れそい、ねたんだり、怒ったりし、欲望が多く、わが身を愛し、命を惜しんでいることは、ただただ愚かで無知であるがために、人間よりもいっそうはなはだしいものである。<

と書かれています。

 ねたみ・欲望・自己愛・命惜しむ姿は、人間よりもはなはだしい動物

 そういうはなはだしい境遇にあるものを虐待する人間=すべて一切の有情をみて慈悲の心なからむは、人倫にあらず。

というのです。文頭にも言った仏教用語「有情」ですが、

うじょう【有情】〔名〕感情を持つすべての生物。人間と動物

で、相対する言葉は、

ひじょう【非情】〔名〕心がないこと。木石など、感情を持たないもの。情識あるもの。

という意味です。

 参考にした小学館の『日本古典文学全集』には、兼好の考察視点について注釈には、

 人間以上に本能に左右されて生き、欲望も強い生物も「心をとめて」観察し、そこから彼らの心情世界を想像し、その内面にはいっていく。「一切の有情」に対する深い同感が、兼好の精密かつ深切な観察によって裏づけていることに注目したい。

と書かれています。

 人は一方では動物を愛し、他方では軽蔑します。そして人間も動物ですから愛したり他人を蔑(さげす)んだりするわけで、「有情」でない「非情」の木や石を軽蔑し、蔑む人はいないところを見ると、人は元々、互いに心あるものとみていることになります。

 「情識(じょうしき)あるもの」とは「常識あるもの」という意味ではなく、仏教語で

「 凡夫のもつ迷いの心。心。」を持つもの。

ということです。したがって「迷いの心」がある内は、非情のものではない、ということであると言えるわけです。

 『徒然草』作者の吉田兼好は兼好法師とも呼ばれてた鎌倉時代の知識人です。神主の家に生まれた人ですが、当世の知識人として仏教も学んだようです。

 『徒然草』と言えばこの冒頭の言葉を知らない人はいないと思います。

 『ヘタな人生論より 徒然草』などと極端な話ではありませんが、日本の古典も読むと別な視点が開かれるように思います。

※今日の写真はEテレ「10minボックス(古文・漢文)徒然草から拝借しました。

 

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