万葉集の中に「信濃なる知具麻の川の・・・」で始まる東人の歌がある。この中に歌われている「川」については、信濃の国(長野県)の佐久平を流れ長野市の川中島付近で犀川に合流するまでの千曲川とされていたが、信濃の国の国府の変遷にともない松本平の筑摩地籍の存在から田川、薄川(すすきがわ)の可能性も否定できないのが現況である。
そこで、信濃における古代史、特に東御市における渡来人、大伴氏などについて小論したい。
昨今の市町村合併により東御市になったが、古代の旧東部町には「信濃国小県郡海野郷」という場所があった。
長野県で義務教育を受けた人ならば郷土史の時間に資料集に写真付で解説されていたのを記憶している人が多いと思う。
史料写真は、校倉造(あぜくらづくり)で有名な奈良の正倉院の宝物保存されている、「信濃国」の刻印が押され「小県郡海野郷戸主爪工部君調」と墨字で書かれた麻の布紐である。
「爪工」は「つまたくみ」とか「はたくみ」とか読むらしいが、万葉仮名でないので正確には分からない。いつごろの物かというと地名の「郡」の部分かある程度の目安になる。 「国、郡、郷、里」の郡郷制に改められたのは霊亀元年(715)でそれ以降であることが分かる。「郡」制度の前の「郡」に当たる呼称は「評」で、これらの変更の定着は天平12年(740)ころだといわれている。
「爪工」については、「爪」とは高い人の顔を直接見えないようにするための長い柄の団扇・翳(さしば・きぬがさ)」で薄い布や鳥の羽で作られたものであるという。
官職要解には「造蓋(ぞうがい)を作る者」とあるから蓋(ふた)状のビーチパラソルに近いものかもしれない。「工」であるからそれを作る人たちが「爪工部」として集団で住んでいた。
日本後記の延暦18年(799)12月5日の条に小県郡に飛鳥時代(593~641)朝鮮半島から渡来した人たちの子孫(高麗家継等)が日本の御井という姓を朝廷から賜ったことが書かれている。
大和朝廷の大和(日本)統一のための東北部進出は、鉄と馬の力(武力)であるといわれている。この技術は日本固有のものでなく大陸文化である。須恵器土器ひとつを見ても薄手の器の技術は大陸文化なのであり、先の「爪工」の技術も同様である。
大伴氏(当初は大伴連)は久米部(来目部)・丸子部(大伴連の一族)とともに大和朝廷の軍事部族であり多くの大陸系技術を従いながら東北地方に向かった。軍の進出は補給が必要で各地区に拠点を置き古代の牧場の遺跡がある所がその場所である。
このことから大伴氏の関係者が各地区に住人として一部が残るのは当然で、日本霊異記に宝亀5年(774)小県郡嬢(おうな)の里に大伴連勝という人が住んでいたことが書かれている。
万葉集には大伴一族に関係ある作者が多い。
このことについて語る人が少ないが、藤原氏が宮廷貴族として文学上においては懐風藻のような漢学的な知的教養を前面に出したものを残すのに反し、大伴氏はこれに対抗し「言葉の命を支える母なる大地である民族生活」にその抒情的芸術を見出し「万葉集」残したと国文学者の西郷信綱先生は語っている。
さらに先生は、「万葉集」と「懐風藻」はほぼ同期のものであるが、「万葉集」には大伴一族に関係ある作者が多く「懐風藻」には藤原氏の作者が多い。このことについて語る人が少ないが藤原氏が宮廷貴族として文学上においては懐風藻のような漢学的な知的教養を前面に出したものを残すのに反し、大伴氏はこれに対抗し「言葉の命を支える母なる大地である民族生活」にその抒情的芸術を見出し「万葉集」を残したと述べている。
大伴家持は万葉集の撰者(家持が独撰したのではなく数回の撰の内の1回が有力な説だが、編纂にたいし最も中心的な役割を果たしたのは事実)であり、また役人でもある。
延暦元年(782)には、按察使(あぜみち)として多賀柵(城)へ赴任している。
この時家持は65歳の高齢で赴任していないとの説もあるが、続日本紀に京を出て陸奥按察使となったとあるので史実と思われる。
按察使は地方の行政状態を視察確認し監督する役職であるとともに鎮守将軍として東北の対蝦夷の軍事力調査官でもあった。
多賀柵のある陸奥の鎮守府は多賀城にあり、この地に行くには当然東山道を通り今の仙台に向かった。
この時期は大伴氏と藤原氏との政治的闘争が激化しているころで、3年後の延暦4年(785)には政争に敗れ死去し、その屍は路上に放置されたという。
それから10年、類聚国史によると延暦14年(795)4月に「小県郡の人久米舎人望足が信濃国介(軍事担当の役人)を弓で狙うという事件があった。」旨が記載されている。この事件は当初藤原氏の者が調査しても犯人が判らずその後大伴宿禰是成なる人物が派遣され探し出したことになっている。
このころの大伴氏は、藤原氏に破れ政治的力はほとんどない時期であり、その一族もその影響を受けていたと推測される。
是成は苦渋の選択から望足を説得し一族を粛清から救ったのではないだろうか。
国府のあった小県に藤原氏系のものが赴任し大伴系を迫害しはじめ、これに対する犯行であった。その後国府は筑摩郡に移される。小県郡が危険な地域だからである。
これらの流れを考えると大伴氏の万葉集の「知具麻」の万葉歌は小県郡の川で「千曲川」が相当と思われるのである。
そこで、信濃における古代史、特に東御市における渡来人、大伴氏などについて小論したい。
昨今の市町村合併により東御市になったが、古代の旧東部町には「信濃国小県郡海野郷」という場所があった。
長野県で義務教育を受けた人ならば郷土史の時間に資料集に写真付で解説されていたのを記憶している人が多いと思う。
史料写真は、校倉造(あぜくらづくり)で有名な奈良の正倉院の宝物保存されている、「信濃国」の刻印が押され「小県郡海野郷戸主爪工部君調」と墨字で書かれた麻の布紐である。
「爪工」は「つまたくみ」とか「はたくみ」とか読むらしいが、万葉仮名でないので正確には分からない。いつごろの物かというと地名の「郡」の部分かある程度の目安になる。 「国、郡、郷、里」の郡郷制に改められたのは霊亀元年(715)でそれ以降であることが分かる。「郡」制度の前の「郡」に当たる呼称は「評」で、これらの変更の定着は天平12年(740)ころだといわれている。
「爪工」については、「爪」とは高い人の顔を直接見えないようにするための長い柄の団扇・翳(さしば・きぬがさ)」で薄い布や鳥の羽で作られたものであるという。
官職要解には「造蓋(ぞうがい)を作る者」とあるから蓋(ふた)状のビーチパラソルに近いものかもしれない。「工」であるからそれを作る人たちが「爪工部」として集団で住んでいた。
日本後記の延暦18年(799)12月5日の条に小県郡に飛鳥時代(593~641)朝鮮半島から渡来した人たちの子孫(高麗家継等)が日本の御井という姓を朝廷から賜ったことが書かれている。
大和朝廷の大和(日本)統一のための東北部進出は、鉄と馬の力(武力)であるといわれている。この技術は日本固有のものでなく大陸文化である。須恵器土器ひとつを見ても薄手の器の技術は大陸文化なのであり、先の「爪工」の技術も同様である。
大伴氏(当初は大伴連)は久米部(来目部)・丸子部(大伴連の一族)とともに大和朝廷の軍事部族であり多くの大陸系技術を従いながら東北地方に向かった。軍の進出は補給が必要で各地区に拠点を置き古代の牧場の遺跡がある所がその場所である。
このことから大伴氏の関係者が各地区に住人として一部が残るのは当然で、日本霊異記に宝亀5年(774)小県郡嬢(おうな)の里に大伴連勝という人が住んでいたことが書かれている。
万葉集には大伴一族に関係ある作者が多い。
このことについて語る人が少ないが、藤原氏が宮廷貴族として文学上においては懐風藻のような漢学的な知的教養を前面に出したものを残すのに反し、大伴氏はこれに対抗し「言葉の命を支える母なる大地である民族生活」にその抒情的芸術を見出し「万葉集」残したと国文学者の西郷信綱先生は語っている。
さらに先生は、「万葉集」と「懐風藻」はほぼ同期のものであるが、「万葉集」には大伴一族に関係ある作者が多く「懐風藻」には藤原氏の作者が多い。このことについて語る人が少ないが藤原氏が宮廷貴族として文学上においては懐風藻のような漢学的な知的教養を前面に出したものを残すのに反し、大伴氏はこれに対抗し「言葉の命を支える母なる大地である民族生活」にその抒情的芸術を見出し「万葉集」を残したと述べている。
大伴家持は万葉集の撰者(家持が独撰したのではなく数回の撰の内の1回が有力な説だが、編纂にたいし最も中心的な役割を果たしたのは事実)であり、また役人でもある。
延暦元年(782)には、按察使(あぜみち)として多賀柵(城)へ赴任している。
この時家持は65歳の高齢で赴任していないとの説もあるが、続日本紀に京を出て陸奥按察使となったとあるので史実と思われる。
按察使は地方の行政状態を視察確認し監督する役職であるとともに鎮守将軍として東北の対蝦夷の軍事力調査官でもあった。
多賀柵のある陸奥の鎮守府は多賀城にあり、この地に行くには当然東山道を通り今の仙台に向かった。
この時期は大伴氏と藤原氏との政治的闘争が激化しているころで、3年後の延暦4年(785)には政争に敗れ死去し、その屍は路上に放置されたという。
それから10年、類聚国史によると延暦14年(795)4月に「小県郡の人久米舎人望足が信濃国介(軍事担当の役人)を弓で狙うという事件があった。」旨が記載されている。この事件は当初藤原氏の者が調査しても犯人が判らずその後大伴宿禰是成なる人物が派遣され探し出したことになっている。
このころの大伴氏は、藤原氏に破れ政治的力はほとんどない時期であり、その一族もその影響を受けていたと推測される。
是成は苦渋の選択から望足を説得し一族を粛清から救ったのではないだろうか。
国府のあった小県に藤原氏系のものが赴任し大伴系を迫害しはじめ、これに対する犯行であった。その後国府は筑摩郡に移される。小県郡が危険な地域だからである。
これらの流れを考えると大伴氏の万葉集の「知具麻」の万葉歌は小県郡の川で「千曲川」が相当と思われるのである。