今朝も引き続き「情」という言葉に視点を置いてみようと思います。情の話というと「人情ばなし」ということになります。そうなると落語、講談、歌舞伎、浄瑠璃など古くから日本にある芸能があげられます。
1ヶ月ほど前にNHK「爆笑問題の日本の教養」で江戸学が専門の法政大学江戸学田中優子先生をむかえて「落語ぢから」という番組が放送されました。
落語は、若い時から好きでよくカセットテープに落語のラジオ番組録音して聞いていました。最近はラジオを聞く機会が少なくなり、テレビも含め落語番組も少なくなったためほとんど聞いてい状態です。
落語は極めて哲学的で、、人間存在とは何なのか、人間の業(ごう)とは何なのか、そして人間とはどういうものか見せてくれる。
と田中先生は語り、落語が何話か紹介され、日本の人情ばなしのもつ不思議さの中に、
現代人にとっても救いになるのではないか
という話になるのですが、非常に印象的で興味深い話でした。まず紹介されたのが、「粗忽長屋(そこつ・ながや)」という噺。
浅草寺参りでのいき倒れ、熊五郎、昨日死んでいるのに、気がつかずに帰ってきている。仕方がないので死骸を引き取りに行く、という内容で、まったくもって論外なのですが、落語だと全く普通に納得のいく話です。
こういう熊五郎のような人間を、落語では、変な人を変だとは言わずに「粗忽もの」といいます。「お前は粗忽ものだね~」で、争いも起こらず納得し終わってしまう。
そういう粗忽集団も世間で生きていけるのが落語の世界です。次に「かぼちゃ屋与太郎」という噺。
遊んだばかりの与太郎、二十歳(はたち)になったんだからと言われると「おらあ・・・はだしじゃねえー」と答え、「30歳の人は、いたち」などとアホさと恍(とぼ)けの世界に遊ぶ人間、これもちゃんと世間で生きられる。
遊んでると世間体が悪いので、棒手振(ぼてふり)という天秤棒(てんびんぼう)に商品(一品程度)で売り歩く商売をやるように勧める近所のお節介やき・・・・・。
利口でないと、目端がきかないと生きていけない社会ではない。
この与太郎の世界、与太郎は段ボール生活をすることもなく世間の中で何とか生きちゃっている人間です。またそういう人間を粗忽ものとして扱う慣わしのある世間でもあります。
実際に落語は身近な話で、実際江戸にはそのような世界があったのではないでしょうか、江戸しぐさも含め、見直しをしましょうという番組です。
幕末に外国人が来て、江戸の町民生活を見る。長屋に住み、家具らしい家具もないそれでもみんながにこやかに生きている。不思議だったようです。
太田光が、落語の世界はチャンとしていればというものではなくて、
「これでいいじゃん。」
ロクなもんじゃありませんよ、世の中は!
という世界で、いまだに政治をとやかく言うが、心の隅にはこんな感情が残っているのではないかと話していましたが、変に納得してしまいます。
落語の「粗忽長屋」もそうですが、「死」というものをお笑いの題材にしているものがあります。
太田光は「日常の延長線上に『死』がある」と言っていました。
番組で次に取り上げられる古今亭志ん生の有名な「黄金餅(こがねもち)」という落語です。
これは病気になっても薬を買うのがもったいないというケチな西念という坊さん。この西念が病気になり、病気が悪化、自分の最後が間近いと思い、見舞いに来た隣に住む金兵衛に餅を買ってくるように頼み、買ってこさせます。
すぐには坊さんそれを食わず、金兵衛が帰ってからこの餅に「2部金」を練りこみ始め、次から次へとと呑み込んでしまいます。
おかしいと思った金兵衛は、壁にあいた穴から中の様子を見てびっくり、・・・・。間もなく西念は病気がもとで死にました。
近所のよしみで金兵衛が責任をとり、火葬から一切弔いごとを引き受けます。
>桐ヶ谷の焼き場に一人で担いで持ってきた。朝一番で焼いて、腹は生焼けにしてくれと脅かしながら頼み、新橋で朝まで時間を潰してから、桐ヶ谷まで戻り、遺言だから俺一人で骨揚げするからと言い、持ってきたアジ切り包丁で、切り開き金だけを奪い取って、骨はそのまま、焼き場の金も払わず出て行ってしまう。<
というとんでもない、残酷非常な話なのですが、最後の落ちは、この金兵衛がこの時のお金をもと金に、目黒に餅屋を開いてたいそう繁盛したという。江戸の名物「黄金餅」の由来でございます。
さらにあっけらかんとした落ちなのです。
太田光氏に言うに、立川談志師匠は”業の肯定 ”と言うらしいのですがなるほどです。
お金をあの世まで持っていこうとする業欲、死体の腹をかき分け金を得ようという業欲実にとんでもない強欲の世界ですが、これが落語になってしまうわけで、実にとんでもない世界です。
田中先生は「別に悪いことをするんじゃない・・よくかんがえると」とおっしゃっていました。確かに人を殺したわけでもなく、現代人の目で見ると倫理的に、道徳的にいかがなものかとは思いますが、現実ではなく落語であるとなぜか許されてしまう。
それでいいんだよ・・・人間なんてそんなもんだよ。
落語は、みんな未熟でお金が欲しいし、欲望に弱いんだ。
この様な落語というジャンルが日本の芸能にあることは実に見事だ。
と太田光は述べていました。
田中先生が、映画やテレビにはできないこと、確かにリアル過ぎてお話になりません。
太田光が「反道徳的」と話し、田中先生は「そういうところを超えて、”とにかく人間がいるのだ ””人間が生きているんだ ”とそのまま語っている。」と話していました。
反道徳というよりも道徳という言葉に相当する概念はなく情のみの世界のように思います。情動の世界で、近代的な情動という言葉ではなく「情」に動かされる世界がひょっとすると、江戸学にも通じるという話です。
「三方一両損」という噺。大岡裁の話にもなりますが、「宵越しの金は要らね、ましてや自分の懐から落ちた金なんか俺のもんじゃない」という一途な男と正直な男、これも中々近代的なものの考えでは通らない、お上の手を煩わせる話です。
しかしこれも落語のお笑いの世界だが、「いいじゃないの・・・それで」
本当は欲しいけれど、お金には執着したくない。(田中先生談)
本当にそうです。わかるんですねその気持。かっこよく粋に生きたい野郎の世界がある分けです。
【田中先生】
江戸ってひとまとまりの価値観、ある種の文明があったと思う。それは社会の構造とか人間関係とか、かなりしっかりした価値観があって、それをみんなが共有していたんだと思う。
次に大田が「千両みかん」の噺をしていました。
「千両みかん」という落語は、恋い焦がれた若旦那が病気になり、ミカンが好きなのでミカンを食わせれば元気になると考えた大旦那が千両で、店の者に捜させます、季節はずれですのでどこにもありませんが、しかし不思議に一つだけあった。それを手にした番頭が、ひと房食べ残りの房が何両の値打ちがあるか計算をします。そして結局残りのみかんを持って逃げてしまう話です。
リーマンショック、株投資の数字の価値の話をしていましたが、確かにお金の価値観は落語の世界そのもの、似ています。
暮らしている人の感覚、寄席になればお客さんの生活感がくっついてくる。(田中先生談)
大田はここで、「赤穂浪士」の話をしています。城中での刀を抜く大騒ぎ、絶対に許されないことでありながら、話は捏造されて吉良悪人にされた。歌舞伎・情釣り・講談・浪局が描くヒーロー者の世界がある中で”これだけじゃつまらない””おれたちの話も ”そういうところに落語が入った、
そんなことを言っていました。
「長屋の花見」という噺
花見の季節が来ました。貧乏長屋も大宅さんを中心にお花見に出かけます。かねがある分けでないので、酒はお茶、卵焼きはたくあん漬けと言ったところ、しかし貧乏ながらも話は進みます。
「きっっといいことがあるよ、大家さん」「どうしてだい」「だって、さけ柱が立っています」
といった調子の話です。
落語の登場人物は決して”貧乏 ”だとは思っていない。
と自分育った生活環境にも照らし合わせながら田中先生はいいます。
それを受けて大田が、
今の貧乏は貧乏がすぐにわかちゃう。テレビなどを見てこんな生活があるんだ、友達がいっぱいいて楽しいやつ、そんなものしか見ない。すると俺は孤独と思ってしまう。
今の貧乏な人や孤独な人は、何でも知ることができるので、厳しい。それは本当は幻想ではないか。
<今年の6月に広島県の自動車工場で起きた車による連続殺傷事件。犯人は2か月前までこの工場で働いていた42歳の派遣社員。>
あいつは何が不満だったのか、・・・想像力の足りなさ・・・
友達もそこそこいて、彼女はいないかも知れないが、生活はできていたがそれ以上のことを臨んだのではないか。
自分で自分をいいよ、と思う想像力は彼には絶対必要だったのでは、まあ~人間というものはこんなもんじゃないの、・・・・。
というのが落語なんかが教えてくれたことではないか。
と語り、田中先生は、
貧しさが深刻な問題になるときは、人間関係ができていないからじゃないか、・・・・。”江戸っ子は宵越しの銭はもたない ”という言い方があり、どうして宵越しの銭をもたないか、それは稼いではいるし、そこそこに美味いものも食べている、お金が余りましたそうすると他の人に使っちゃおうじゃないか、と言って自分の処に居候がやってくれば、”ああ~いいよ ”と招き入れて、ここで暮らしていけば、・・・・。となるが、今は自分の生活を楽しくしようとすると、自分の周りに携帯電話、お風呂など、全てを集めてしまうほうが居心地がいいと思ってしまう。
しかし落語の世界は逆で、人とつながっていないと幸せでない、・・・・世界。
「落語」とかけて・・・・
土壇場の将棋指し」と解く・・・・
そのこころは・・・・、
ぜひとも(聴き・危機)に(行って・一手)ほしい。
という「落語ぢから」というはなしでしたが、日本的な「情」の世界を知る手掛かりになりそうな話でした。
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