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自縄自縛日記

原武史『大正天皇』

2018-05-31 07:02:47 | 政治

原武史『大正天皇』(朝日文庫、原著2000年)を読む。

明治と昭和の天皇にはさまれて、大正天皇の存在感は希薄である。それに加え、精神を病んでいたという風説が広まり信じられている(わたしも親からまことしやかにそう聞かされていた)。実の姿は、そのようなものではなかった。確かに生まれながらに病弱で、また47で崩御する前は幼少時の脳膜炎が再び悪影響を及ぼし言動が不自由になった。しかし、それを除けば、独自のカラーを出して役割をまっとうした。

明治天皇は、それまでの天皇とは全く異なる近代国家元首として君臨する形を作るべく、全国の大巡幸と「御真影」の設置というメディアミックスの仕掛けによって、視ること自体が権力構造に巧妙に組み込まれた(多木浩二『天皇の肖像』に詳しい)。大正天皇も全国津々浦々をまわった(皇太子の時には巡啓として、天皇になってからは巡幸として)。そして訪れた先には「御写真」が与えられた。

しかし、その目的も効果も明治天皇のときとは異なっていた。巡啓を実行したのは、詰め込み教育による皇太子の拒否反応と健康の悪化を改善させ、地理や歴史の学習を進めるためであり、受け入れる側にも大袈裟なことをやめるよう指示がなされた。実際にそれにより皇太子は健康となり、巡啓先でもフランクで天真爛漫な言動を行ったという。結果として普及したイメージは、親しみやすい皇太子であった(家族写真の絵葉書セットも売られたという)。

ここで重要な指摘がふたつある。ひとつは、この巡啓/巡幸の実施により、受け入れ側の自治体が道路などのインフラを整えるという利益誘導型の政治の萌芽がみられること。もうひとつは、大正天皇にとって、受け入れ側が侵略された地であっても、大日本帝国の統治の正当性になんら疑いを抱かなかったこと。北海道では短期間の道路整備にアイヌが駆り出された。また併合前後の韓国には親しみを抱き晩年まで韓国語を覚えようとしていたが、それ以上のものではなかった。

ソフトなあり方は、山形有朋などストロングマン的な元首を求めた者たちからは大きく反発されていた。そのため、ふたたび大正天皇の体調が悪化してからは、昭和天皇(迪宮)を摂政として立てるという明確な権力移譲が行われた。大正天皇と気が合ったソフト路線の原敬も、大正末期には暗殺されて世を去っていた。

如何に大正天皇が異端であったか。天皇の守護神は、アマテラス直系ではなく、国を譲る方のオオクニヌシだった(!)。出雲の神である。このあたりについてもう少し踏み込んで知りたいところだ(著者には『<出雲>という思想』という著作もある)。

驚かされるのは、明治、大正の両天皇とはまた大きく異なる昭和天皇のメディアミックス手段である。それは、動画に撮らせて(それまでは写真撮影さえヒヤヒヤものだったにもかかわらず)、上映により国民ひとりひとりに内部化させるというものだった。しかも上映された場所の多くが、日比谷公園、上野公園、芝公園など、普通選挙の実現を求めた民衆運動の拠点であった。革命を防ぐための巧妙な手段だった。それに加え、天皇本人が民衆の前に姿を現すという方法によって、天皇の個々の国民への内部化は強化されていく。

鉄道関連の著作を多くものしている著者ならではの指摘がある。東京駅は明治天皇の権威を演出すべく建設された(当初は丸の内口のみだったことからも明らかだという)ものだが、結果的に明治天皇が使うことはなく、大正天皇の権威付けに使われた。また、現在も原宿駅には皇室専用のホームがあるが、これは、病状が悪化した大正天皇の姿を国民から隠すために作られた。そして大正天皇がそれを利用したのは、保養に向かう際のいちどきりだった。鉄道にも、天皇という歴史が刻まれているということである。

●参照
原武史『<出雲>という思想』
原武史『レッドアローとスターハウス』
多木浩二『天皇の肖像』
豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』
豊下楢彦『昭和天皇の戦後日本』
ノーマ・フィールド『天皇の逝く国で』
古関彰一『平和憲法の深層』


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