Sightsong

自縄自縛日記

多木浩二『天皇の肖像』

2013-11-07 00:40:37 | 政治

週末、バンコクとジャカルタにいる間に、多木浩二『天皇の肖像』(岩波現代文庫、原著1988年)を読んでしまう。

もともとは岩波新書の新赤版として出されていた。高校生のとき、たまたま手にとり、夢中になって読んだ記憶がある。そんなわけで、25年ぶりの再読である。

江戸末期まで、天皇は政治システムの上位に位置づけられこそすれ、国家統治の機能としては希薄な「消極的権威」に過ぎなかった。国民からの距離も、決して近い存在ではなかった。

ところが、明治の近代国家を構築するにあたり、大久保利通は、天皇という神話の構築を図る。まずは、明治天皇による全国の大巡幸というイベントである。この繰り返しは、錦絵というメディアを通じて権力の刷り込みを生む。そして、やがて、御真影という最強のメディアが登場するに至る。新メディア・写真である。

たかが写真ではない。それは神格化され、流通を厳しく制限され、礼拝の場所や方法など、常に厳格な儀式を伴うよう強制された。このヴァーチャルかつ絶対的なコードは、権力のかたちに絶大なる力を持つことになった。上位からの支配だけではない。

著者は、「天皇制国家のミクロコスモスの階層秩序として社会が編成され、かくして大小無数の天皇によって、生活秩序そのものが、天皇制化されることになってゆく」という、藤田省三の言葉を引用している。極めて曖昧であり、かつ、同時に絶対的であるという相互に矛盾する特性が、無数の「天皇」的な権力関係を創出したわけである。民衆が下からも中からも天皇なる存在を抱き、自ら支配し、支配される関係を創りだした。権力の内部化というべきか。

先日の山本議員事件において、この魔術がいまだ生きていることがあらわになった。曖昧かつ絶対的であり、視る・視られる関係が交錯する政治空間。それは直視されず、ましてや批判の対象となることはない。そして、この恐るべき政治空間に儀式によらず立ち入ったというだけで、その者は不敬とされてしまうのである。


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