Sightsong

自縄自縛日記

松本健一『北一輝論』

2010-09-25 23:57:54 | 政治

本棚で眠っていた本、松本健一『北一輝論』(講談社学術文庫、原著1972年)を読む。編集者のSさんが、ブログに田中伸尚『大逆事件』のレビュー(>> リンク)を書いていて、幸徳秋水から北一輝へと連想が進んで思い出したのだ。

幸徳秋水は大逆事件(1910年)の黒幕として、北一輝は2・26事件(1936年)の黒幕として、それぞれ死刑に処せられている。しかし両者とも、刑罰の対象となるような意味での黒幕ではなく、国家という暴力装置による排除であった。著者はこのことを、ふたりがそれぞれ育て上げた思想とは逆の咎による処刑であったとする。すなわち、北の思想は自らが天皇に替わる最高権力者となって国民国家を構築するというネーション至上的なものだったが、ネーション転覆を企図した罪と解された。一方の幸徳秋水は、ネーションに意義を見出さない思想を抱いていたが、天皇という最高権力者を狙った罪と解された。

本書においては、北一輝のあまりにも独特な思想が分析され、ときには北のロマンチックな心にまで侵入せんと試みられている。独特であるがために、本質においては異なる、天皇をピラミッドとする国家観を純粋培養された青年将校たちとリンクした。しかし、北の思想は、国民自らが支配権を持つ強固なネーションを、自らが統治することにより、つまり権力を奪取することにより、上から実現しようとするものであった。

「国民の天皇、華族制の廃止、貴族院の廃止、普通選挙の実施、治安警察法などの撤廃、私有財産・私有地・私生産業などの限度、労働者権利の擁護、国民教育の実施、などのさまざまな改革諸案は、彼が権力を握り法律制度上の主権者である天皇にそれを命じることによってのみ、実現可能であった。」

ネーションの克服は、強大なネーションを確立したうえで世界国家として可能となるとする考えは、結果的には近代的であったと言うことができるかもしれない。しかし、自己絶対主義と民主的な国民国家とは明らかに矛盾するあやういものであって、北の思想はもはや近代的ではない。だからと言って、強い為政者を希求し、その裏返しとして他国の強い為政者から圧力を受けると醜いほどに右往左往し、その反撃は自国の為政者にのみ向けられ、結局のところ思考力も自己決定力も持たない個人が充満する社会において、そのことを断言できるだろうか。北の思想は、抽象的にはイカレポンチではあっても、実は現代に向けられた刃でもあるのだ。

著者は、明治国家から大日本帝国に至る道のりは、それを変革せんとする諸々の行為を次々と切り捨てつつ、資本主義体制下の保守派によって造り上げてきたものだとする。北一輝も、幸徳秋水も、また大杉栄も、国家権力への視線を遮断するために切り捨てられた要素だった。

そして日本敗戦により出現した<戦後民主主義>は、革命でもなんでもなかった。<大日本帝国>は解体されていない。国民を護るネーションとは幻想であり、仮にそれがいま希求されているとしても、それを危うくするものは自分たちの過去が造りだした枷に過ぎない。これが本書から得られたメッセージである。


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