ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(みすず書房、原著1946年、1977年)を読む。
もちろん旧版(1946年)の邦訳(1956年)は読んだことがあったのだけれど、改訂された原著(1977年)にもとづく新訳(2002年)に接するのははじめてだ。今回旧版・新版と続けて読むことで、ずいぶん訳が現代的に柔らかくなっていることに気が付いた。ただし、それが良いとは限らない。ごつごつした文章のあちこちにぶつかりながら読むことにも意味がある。
それにしても、あまりにも怖ろしい体験記であり、思索の記録である。人はどこまでも残酷になりうる存在であり、それは立場によらないことが、体験をもとに記されている。人が試されるのは「いつか先」ではなく、「そのとき」であるのだ。そしてどのようであっても自分は自分であり、生きることの意味を「そのとき」に噛みしめられる者のみが、環境に従属することなく、人として生き延びることができた。
本書の中に、列車で収容所に運ばれる者が、自分の生まれ故郷を眺め、まるで自分が霊であるかのように思うというくだりがある。ヴィム・ヴェンダースが『ベルリン・天使の詩』を撮ったとき、つまり自分(たち)が自分(たち)の現実を生きるのだというテーマを物語にしたとき、『夜と霧』のことを意識していたのではなかったか、なんて妄想したりしている。
●参照
芝健介『ホロコースト』
飯田道子『ナチスと映画』
クロード・ランズマン『ショアー』
クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』、『人生の引き渡し』
ジャン・ルノワール『自由への闘い』
アラン・レネ『夜と霧』
マーク・ハーマン『縞模様のパジャマの少年』
ニコラス・フンベルト『Wolfsgrub』
フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』
マルガレーテ・フォン・トロッタ『ハンナ・アーレント』
ジャック・ゴールド『脱走戦線』
マルティン・ハイデッガー他『30年代の危機と哲学』
徐京植『ディアスポラ紀行』
徐京植のフクシマ
プリーモ・レーヴィ『休戦』
高橋哲哉『記憶のエチカ』