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自縄自縛日記

クロード・ランズマン『ソビブル、1943年10月14日午後4時』、『人生の引き渡し』

2013-06-30 21:41:13 | ヨーロッパ

クロード・ランズマン『ショアー』(1985年)(>> リンク)のあとに撮ったドキュメンタリー、『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(2001年)と『人生の引き渡し』(1999年)を観る。いずれも、ナチスドイツによるホロコーストを追ったものである。

■ 『ソビブル、1943年10月14日午後4時』(Sobibor 14 octobre 1943, 16 heures)(2001年)

ソビボル絶滅収容所は、ポーランドに設置され、25万人前後のユダヤ人がここに送られ、殺された。しかし、1943年10月14日、ここで囚人による蜂起があった。

映画は、長い解説文のあと、ソビブルに向かう列車とその中からの風景を映す。もちろん現在の風景であり、撮る者、観る者ともに追体験する「風景論」的なつくりである。そして、映画のほとんどは、蜂起の生き残りであるイェフダ・レーナー氏の表情のアップで占められている。

レーナー氏は少し微笑みながら、体験をゆっくりと話し始める。捕えられ、ベラルーシのミンスク(当時、ドイツに占領されていた)にとどめられるが、やがで列車に乗せられる。まずはポーランド領マイダネク絶滅収容所、そこが満員ということでソビブルへ。途中でこっそり話をしたポーランド人の駅員は、「逃げ出せ、さもないと皆焼かれてしまうぞ」と警告してくれたが、実感できず、手遅れになってしまったのだという。

ソビブルで自分たちの運命を把握した虜囚ユダヤ人たちは、生きていくために、反乱を計画する。指導したのは、サーシャ・ぺチェルスキーというソ連の赤軍軍人。ナチス軍人用の仕立屋で働いていたレーナー氏は、当日16時に来ることになっていたグライシュッツ親衛隊曹長の殺害を命じられる。それまで、人を殺したことなどなかった。密かに入手しておいた斧でグライシュッツを殺し、すぐに全員で血を拭き取り、遺体を衣服の山の下に隠す。さらに5分後には別の軍人。時間に厳格なドイツ人でなければ成り立たなかった計画だとする。

ここにきて、インタビュー開始時には余裕のあったレーナー氏の顔が青ざめ、興奮して口数が増えることに気が付く。氏は、こんな話をしているのだ、当たり前だろうと呟く。実は、観る者としてのわたしは、当初、レーナー氏の雰囲気が誠実でないように感じていた。もちろん、言うまでもないことだが、当事者でもなく、時間も空間も隔たっており、直接接しているわけでもない人間の内面について、まともな判断ができるわけもなく、その権利もない。しかし、そのような予断は、いつも大きな顔をして横行している。「それらしい」ストーリーテリングを放棄して、観る者の揺らぎを観る者自身に気付かせるのも、ランズマンの狙いなのかもしれない。

仕立屋で2人、他の場所も含めれば11人のドイツ軍人が殺された。17時、もう暗い。何百人ものウクライナ兵たちが撃つ中、囚人たちはフェンスをすり抜け、森へと走った。多くの者が射殺された。レーナー氏は、森にたどり着き、倒れると同時に眠り込んでしまう。

暗い森の映像で、映画は終わる。もちろん、現在の森である。『ショアー』にも共通することだが、構造的に証拠が残されない状況でのオーラル・ヒストリー形成に際しては、大きな想像力を必要とする。ウソの想像ではない。大文字の「歴史」に沿った検証ではなく、無数に闇から立ちのぼる声を捉える力ということだ。

■ 『人生の引き渡し』(Un Vivant Qui Passe)(1999年)

やはり、ひとりの証言者へのインタビューを撮り続けるドキュメンタリーである。

ランズマンに応える人物は、兵役を逃れて赤十字に入った。すぐにアウシュビッツ絶滅収容所への立ち入り検査をゆるされるが、ホロコーストをひた隠しにしていたナチスドイツがすべてを見せるわけはなく、限られた場所だけであった。

次に、チェコ領のテレージエンシュタットを訪れる。ここは、すぐに消えてしまったら衝撃が大きすぎると思われる特権ユダヤ人たちが集められたゲットーであった。氏は見学し、戻ってから、大過なしとの報告書を書きあげる。

インタビューの後半になり、ランズマン監督が、まるで氏を責めるかのように、次々と史実を挙げはじめる。ナチスによるテレージエンシュタットの公開は、素晴らしい場所であるとの国際的なアピールのためだった。氏が案内されたものは、直前に改装された綺麗な家であり、あるはずのない保育所であり(ユダヤ人の出産は、民族的な根絶やしのため、禁じられていた)、調達されたばかりの食糧であった。

ランズマンは、あなたは騙されたのだ、なぜ綺麗事しか報告しなかったのか、不自然だった筈だと、氏に詰め寄る。氏は、視たことしか書くことはできない、と応える・・・。

「歴史」とは何なのか。問い詰められているのは観る者である。

●参照
クロード・ランズマン『ショアー』
高橋哲哉『記憶のエチカ』(『ショアー』論)
アラン・レネ『夜と霧』
マーク・ハーマン『縞模様のパジャマの少年』
プリーモ・レーヴィ『休戦』
フランチェスコ・ロージ『遥かなる帰郷』
クリスチャン・ボルタンスキー「MONUMENTA 2010 / Personnes」
ジョナス・メカス(3) 『I Had Nowhere to Go』その1(『メカスの難民日記』)
徐京植『ディアスポラ紀行』(レーヴィに言及)


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