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Sightsong

自縄自縛日記

ダムの映像(2) 黒部ダム

2009-06-20 23:26:59 | 環境・自然

NHK『プロジェクトX』で放送された、黒部ダムの特集を2巻借りてきた。「厳冬 黒四ダムに挑む ~断崖絶壁の輸送作戦~」(2000年)と、2週連続での「シリーズ黒四ダム 第1部・秘境へのトンネル 地底の戦士たち」「同 第2部・絶壁に立つ巨大ダム 1千万人の激闘」(2005年)であり、続けて見ると、関電本社の移転を挟んでいる(笑)。「黒四ダム」とも称するのは、ここからの水による地下の発電所が「黒部川第四発電所」だからである。大きな弧を描く「アーチ式コンクリートダム」であり、水圧を両岸の岩盤で支える。そのため峡谷に限られる。

人がほとんど立ち入ることができない秘境・黒部に資材を運ぶため、1年以上かけてトンネルを掘り、また山の上からブルドーザーをソリで降ろす。トンネル掘りは地盤が危ないが、通常を遥かに上回るペースで進める。これが、石原裕次郎主演の『黒部の太陽』の舞台であるらしいが、大スクリーンでしか見せないという方針であったため、観る機会はない。佐久間ダム建設において川の迂回路となるトンネルを掘った者がここでも携わったようで、番組では、記録映画『佐久間ダム』の一部分が使われていた。

また、地下の発電所を掘削するとき、高熱の岩盤であったため、掘削現場は100℃前後となった。そのため、後ろから裸の掘削者に放水するという方法がとられた。なお、この前に建設された「黒部川第三発電所」でも高熱岩盤に苦しめられたようであり、吉村昭『高熱隧道』でその建設の様子が小説化されている(私は読んでいない)。

コンクリートを流しいれる方法にも驚かされる。崖の上のクレーンで、コンクリートを入れた籠を操作し、崖下に落とす。このときにあまりにも揺れて場所が定まらなかったが、ひとりの名人の手によって解決している。それをブルドーザーで均し、クレーンとの時間の競争となった。

どの工程もいちいち信じ難く、驚嘆する。もはやこのような土木工事は不可能に違いない。7年間の工事で、雪崩や落石などによって171人が亡くなっている。越冬の厳しさや恐怖で精神が参ってしまった者もいる。当時を回顧する方々は皆、勇気がなければだめだった、おそれたら終わりだった、と口をそろえる。そして、亡くなった方々を弔う記念碑に手を合わせる。

観ながら痛感した。これは戦争に出征した兵士たちなのだ、と。番組のつくりは戦争ドラマと変わるところはない。必要な電気のためだったが、多数の死者を生むことが最初からわかっていた戦争だった。そして他の選択肢があったかもしれないことについては、当時も今も触れられない。もちろん侵略戦争とは根本的に異なる。途轍もない事業である。だが、このような形で美談にすることには大きな違和感がある。

『黒部の太陽』は、巨大ダム造りを進めるプロパガンダとして、各河川の漁協説得に使用された歴史を持つ。そして、不思議なことに毎年建設省(当時)が資金を提供する各地のダム自治体の「湖水(ダム)祭」などは、石原プロの企画が多かったという(天野礼子『ダムと日本』)。『プロジェクトX』にも同じプロパガンダに利用されるにおいが漂っているような気がするのだ。

●参照
ダムの映像(1) 佐久間ダム、宮ヶ瀬ダム
天野礼子『ダムと日本』とダム萌え写真集


満州の妖怪どもが悪夢のあと 島田俊彦『関東軍』、小林英夫『満鉄調査部』

2009-06-20 14:06:15 | 中国・台湾

日本軍事政権の傀儡国家として存在した満州国(1932-45)は、その植民地軍隊、関東軍とともにあった。島田俊彦『関東軍 在満陸軍の独走』(講談社学術文庫、原本1965年)は、その生い立ちから失速までを描いている。すなわち、日露戦争後、日本軍は遼東半島南端(関東州)とのちの南満州鉄道(満鉄)の権利を奪い、満州国建設を経て、大戦での南方重視に沿って急速にしぼむという運命を辿る。なお、「関東」とは、現在の河北省秦皇島にある万里の長城の東端近く、山海関の東という意味である。

「独走」の代名詞のように使われる関東軍だが、それが決して思うが侭ではなかったことを、本書は示している。様子見を重視した幣原外交などの中央政府、さらには大本営の意向からも離れたことが多くあった。そのようななかで、「大日本帝国の尖兵という過剰意識に増幅された」行動が行われていく。

知らなかったことだが、満州という存在は、当初「いわば柄にもない大荷物をかかえこんだようなもの」であった。日露戦争後、政府は関東州経営のため、毎年一般会計から多額の補充金を繰り入れ、それは例年歳出の6割にも相当した。そのため、初期の満鉄経営のような外資導入のほかに植民地経営の方策はなかった、という。満鉄は鉄道経営だけでなく、炭坑採掘(平頂山事件に関係する撫順炭坑もそのひとつ)、水運、電気、倉庫などの事業も営むことができ、その土地での行政権や徴税権までも持っていた。

張作霖爆殺(1928年)ののち、石原莞爾と板垣征四郎が関東軍参謀として赴任する。本書でもっとも不可解なのは、石原の奇怪かつ誇大妄想の世界最終戦論(最終戦は個人という戦闘単位での殲滅戦争となる)や満蒙領有論(日本こそ満蒙発展が可能な者であり、それが現地の幸福となる)に一定のシンパシーを寄せているところだ。これらを「すぐれた洞察力」と表現し、また、満州国が理想を失い傀儡化の一途を辿るのは、1932年に石原が満州を去ってからだとしている。この発想には、あの幕僚長のトンデモ論文と通じる面があるのではないか。

関東軍がソ連軍に敗れたノモンハン事件については、これが局地戦争にとどまり、また日本軍の「汚点」として覆い隠されたがために、自らの軍事力を認識する機会を逸したものと評価している。そのために、実は現場では勝っていたのだとする辻政信の手記などがある(何を今さら、今週の『週刊新潮』にも写真入りで取り上げられていた)。

満鉄には、大規模な調査セクションがあった。シンクタンクといえば、決まってロバート・マクナマラ(米国元国防長官)の名前が取り上げられるが、満鉄調査部こそがその拡がりや偏りを見る上で参考になる。マクナマラの理想は、官僚に左右されない政府のためのシンクタンクであった。満鉄調査部は、民間のため、政府のためといった枠を超え、かつてない情報収集力を抱え、破天荒の挙句に潰された。その人材は戦後、調査機関や大学、社会運動家へと流れている。

小林英夫『満鉄調査部 「元祖シンクタンク」の誕生と崩壊』(平凡社新書、2005年)は、その実態を描いていて非常に面白い。

出入りする人間の名前が凄い。大川周明(のちのファシスト)、佐野学(のちの共産党最高指導者)、山本条太郎(三井物産出身)、松岡洋右(のち外交官として国際連盟脱退)、尾崎秀実(のちにゾルゲ事件で死刑)。何でもありという印象だ。

その尾崎秀実も関与して、満鉄調査部にはマルクス主義の大きな動きがあった。しかし彼らは、関東憲兵隊によって次々に検挙され、転向に到る。この手記が掲載されているが動悸動悸するほど興味深い。

大東亜戦争について判断するには人間理性以前の事実である日本精神を理解することが必要でありますが、合理主義に立脚する限り日本精神を理解することは不可能であり、従ってまた大東亜戦争に関する合理主義的判断が次第に破綻を来たしたのはまことに当然のことであります。(中略) 日本精神は学問によって学ばれるものではなく日本人が日本人として心を正しくし己を空しくすれば自然に体得できる性質のものであります。それ故日本精神は日本人以外には体得することが困難であると共に日本人ならば誰でも体得することが出来るのであります。従ってまた日本精神の根源をなす我国体を合理主義的理論を以て解釈しようとするのも大きな誤りであります」(石田精一の転向声明)

論理と理性に限界があるとするこの声明は、もちろん、本人の裡から出た発想に基づくものではないだろう。論理と理性に基づく知の集団は、当然のように瓦解した。このことが現在においても歴史にとどまらないことは、例えば、佐藤優の発言(>> 「沖縄の未来を語る 大田昌秀×佐藤優」)と比較してみると実感できる。

●参照
万里の長城の端ッコ(秦皇島)
平頂山事件とは何だったのか
小林英夫『日中戦争』
盧溝橋