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Sightsong

自縄自縛日記

井上光晴『明日』と黒木和雄『TOMORROW 明日』

2009-08-21 01:15:33 | 中国・四国

井上光晴『明日 ― 一九四五年八月八日・長崎 ―』(集英社文庫、1982年)は、長崎における原爆投下の前日を描いた作品である。「あとがき」によると、ここに登場する人物にはそれなりのモデルがいるということだが、「嘘つきみっちゃん」の言であるから実際にそうなのかはわからない。

その日。あるふたりは結婚式を挙げ、同じ日、新婦の姉は赤ん坊を産む。そして、結婚式に集まった親戚や友人たちそれぞれの日常が、入れ替わり立ち代り浮上する。語り手は唐突に交代し、視線も感情も交錯する。最初はよくつかめないながら、次第に複層的な世界に引き込まれていく、井上光晴の語り・騙りである。

じっとりと暑い日、戦争の窮乏期にあって、いくつもの卑屈さや差別がある。これを目に見えるパフォーマンスで表現することは難しいだろうと感じる。

井上光晴の想像力は、出産時の苦しみの独白で極みに達する。こればかりは、体験できない自分には共感しようにもできないのだが。

「こんなことはもうたくさんだ。私にはできない。どうにかなってしまったのだ。何かよくないことが起こりかけている。私は多分このまま死ぬ。ねじれた川。私の前で黄金色の水がうねり忽ち渦となる。あれは何。粒状のものをいっぱいつけた透明な紐は。暗緑色に輝く無数の粒はぷちぷち音を立ててつぶれ、そこからまた新しい粒が生まれる。蛇よ、蛇の卵よ、と誰かがいっている。燃やすとよ、早う。火で焼いてしまわんと大ごとになるけんね。」

翌朝までかけて無事赤ん坊を出産し、新しい一日がはじまる。この日のカタストロフを待たずに作品は終わる。

おそらく誰もが想像してしまう「その日」は、ヒロシマナガサキの後でも、私たちにとって永遠に「明日」なのだ。明日になればまたその明日。いつ訪れるかわからない、その「明日」。

仙台行きの新幹線で読み、日帰りしてから、黒木和雄『TOMORROW 明日』(1988年)を観た。原作のエッセンスはうまく活かされてはいる。ただ、決定的な欠陥がある。

狭い袋小路にあって、人びとの差別的な感情、鬱屈した感情が描かれていない。示されているのは、朝鮮人や捕虜となった米国人への差別的な行為であり、あくまで目に見えるパフォーマンスである。それだけでなく、明瞭に発声する劇では駄目だろうと思う。

それに輪をかけて、桃井かおり、佐野史郎という、顔に「演劇」と書いてある役者のパフォーマンスであっては、日常からかけ離れた世界にしかなっていない。井上光晴による、出産時の想像力の飛翔に比べ、大汗をかいて苦しむ桃井かおりの姿はどうしようもなく格落ちだ。

●参照
井上光晴『他国の死』
原爆と戦争展
原爆詩集 八月
青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』
『はだしのゲン』を見比べる
『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために


讃岐の漆芸(3) 玉楮象谷と忘貝香合

2009-06-06 09:29:10 | 中国・四国

北海道に日帰り、1日置いて、四国に日帰り。わりとくたくたである。高松で1時間余裕ができたので、また高松市美術館に足を運んだ。目当ては常設の漆芸、あるに違いないと決め込んで。

200円の常設展は、「愛のかたち ピカソから村上隆まで」と「玉楮象谷と忘貝香合」。いままであまり目にできなかった、江戸時代後期の讃岐漆芸のパイオニア、玉楮象谷の作品がいくつも展示されていた。

特に、「狭貫彫堆黒 松ヶ浦香合」、通称「忘貝香合」について、象谷による3点とフォロアーたちによるものを比較することができ楽しかった。「狭貫」は讃岐、「堆黒」は塗り重ねた黒漆を彫る様式である(「堆朱」は同様に朱漆を彫る)。「恋忘貝」のうたと貝が蓋に彫ってある。貝のエッジやぬめり、蓋まわりの四角い文様の目立ち方など、象谷とほかの作品とで趣味が異なっている。

毎回、漆の質感に目を奪われる。爪を立てたくなる硬さの感覚とてかり、ぬめり。実際に手元に置いて触ってみたい。彫漆でも黒と朱ではずいぶん違う。細かい手の入り具合も凄い。タチアオイの花弁とがくをモチーフにした入れ物などは5年もかけて製作されたとある。

ぎろぎろと見ていると、美術館の方に、子ども向けのパンフをいただいた。「蒟醤」(きんま)、「彫漆」(ちょうしつ)、「存清」(ぞんせい)の技法についてわかりやすく図解してあった。


蒟醤」(きんま)


彫漆」(ちょうしつ)


存清」(ぞんせい)

今回もひとつ覚えで(他の店を探す余裕がない)、「源芳」と「かな泉」でうどんを食べた。東京にこんなうどん屋があったら嬉しいのに。「かな泉」のおみやげうどんを入手して帰った。


「かな泉」の海鮮かきあげうどん

●参照
讃岐の漆芸(1) 讃岐漆芸にみるモダン
讃岐の漆芸(2) 彫漆にみる写実と細密


『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』

2009-04-08 00:51:51 | 中国・四国

この間赤坂で飲んでいたとき、記者のDさんに教えてもらった本。Chim↑Pom・阿部謙一・編『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』(河出書房新社、2009年)は、アーティスト集団のChim↑Pom(チンポム・・・発音したくないが、それも視野に入っているのだろう)が、昨年やってしまったハプニングによる波及に関して、分析をよせ集めたものだ。分析といっても、印象批評のようなものが多い。

何のハプニングかといえば、この表紙に再現されている通りだ。突然、晴天の広島の空に、チャーターした飛行機で「ピカッ」という字を描いてしまったのである。私としては、酔いかけているところで、ああそんな報道があった気がするなという程度。しかし、ヒロシマでの行動であるから、新聞やネットでの感情的な、あるいは右に倣えのバッシングが燃え上がったという次第のようだ。これに対し、Chim↑Pomは謝罪をした。

多くの方が本書で述べていることは、かなり重複していたり、別の結論を提示していたりして興味深い。例えば。

― 蔡國強(ツァイ・グオチャン)がやはり2008年に行ったプロジェクト「黒い花火:広島のためのプロジェクト」では、原爆ドームの脇で黒い花火を打ち上げた。原爆被害を前提にした行動であることは共通しているが、蔡の場合には、予め被爆者団体に説明をし、意図を納得してもらっていた。それがなかったChim↑Pomについては責められるべきだ。あるいは、謝るくらいならこのようなハプニングの形をとるべきではなかった。
― 蔡が賞賛されるのは、それにも増して、国際的に評価されているアーティストだからだ。しかし、何かを打ち砕く力、しこりとなって持続する力は、Chim↑Pomの方が強い。あるいは、アートとしての昇華度は蔡を凌駕するようなものではない。
― スベって不快で脱力するような時空間の残り滓がChim↑Pomの存在価値である。その意味で、やったことも、あとで謝罪したことも、中途半端だった。

蔡のことはともかく、さまざまな考えがぽこぽこと湧き出てくること自体が、このハプニングの意義だったのかなと(結果的には)思える。アーティストの社会性といったところで、その言葉が矛盾そのものかもしれない。「やって良いことと悪いこととがある」という言葉も、そのバウンダリ内から外には出てこない。

それだけに、Chim↑Pom自らが、正直な言葉で被爆者団体との対話で得た感動などを綴るのはあまりにも予定調和、この本になくてもよかったという読後の印象。

ところで本質的ではない話。北京五輪開会式で、空に花火で描かれた足跡はテレビではCGが放送され、後で騙されたという雰囲気になった。この演出は張芸謀(チャン・イーモウ)が手がけたものだが、実は、美術監督を蔡國強が担当していたということだ。知らなかった―――のはむしろ当然で、ほとんどメディアで意図的に報道されてなかったらしい。その件について、本書にも書いている楠見清氏のブログ「I Get Around The Media 楠見清のメディア回游」にあれこれ推察があった。89年の天安門事件に衝撃を受け、犠牲者への鎮魂と祈りをアートを通じて表現した蔡でさえ、国威発揚につながってしまうのだ。


1996年の「キノコ雲のある世紀」プロジェクトを実践する蔡を表紙にした『美術手帖』(1999年3月)

●参照
燃えるワビサビ 「時光 - 蔡國強と資生堂」展


東琢磨・編『広島で性暴力を考える』

2009-02-27 00:10:10 | 中国・四国

先日ちょっと飲んだ帰路、最寄駅の近くで、新聞記者のDさんにばったり。ちょうど飲みに行くところだというので、そのふたりに便乗して深夜の第2ラウンドに突入した。とても愉快な時間だったのだが、それはともかく。

そのときにご一緒した東琢磨さん(音楽評論家、ライター)から、ご自身が編集された『広島で性暴力を考える 責められるべきは誰なのか?』(ひろしま女性学研究所、2009年)を分けていただいた。

主に、2007年に起きた岩国の米兵による集団強姦事件を機に開かれたシンポジウムの記録がおさめられている。

それぞれの参加者が、ことばの力を振り絞って、この事件に粘りついているものを顕わに示そうとしている。小冊子ながら、気付かない視点に気付かされ、圧倒されてしまう。あのときに多くのひとが、被害者にも非があるということばを口走ってしまったであろう。それが、如何に非対称なものであり、狭隘な意識に基づいているものか、という意識をもっと共有しなければならないようだ。そしてこれは、<あのとき>だけではない。

いくつか大事な指摘を拾ってみる。

○米軍の定義によれば、「女性が同意しない」ということだけでは「強姦」にならず、「誘拐や暴行を加えて」いるものが「強姦」とされる。つまり、こちらはその定義をずっと受け入れており、「日本人への強姦は重罪でない」というメッセージにもなる。
○「日米地位協定」によれば、「公務」中の米兵犯罪の第一次裁判権は米側にある。1995年の沖縄での小学生暴行事件を機に、起訴前でも米軍の「好意的考慮」で身柄引き渡しが可能となっている。しかしこれは凶悪犯罪に限る(つまり、上の定義にも関連する)。また常に形骸化している。
○1953年、法務省は、米兵が起こした事件の処理について、重要な事件以外では裁判権を放棄するよう通達した。この事実に関する資料は国会図書館に存在するが、「米国との信頼関係に支障を及ぼす恐れがある」という理由で、2008年から閲覧禁止になっている。この方針が現在の姿を形作っていることになり、それを相手を怒らせないよう自国民に隠すという本末転倒。
○有事法制に基づいた国民保護計画は、実態は、民間防衛であり、国民が国家を守るという主客転倒がそこに見られる。軍による住民への暴力という姿と重なってくるものだ。
○「平和」という概念は、しばしば、権力補強のためのものになり下がっている。(もちろんこれは、平和を維持するための軍事という意味だけではなく、日常的な姿である。)


既視感のある暴力 山口県、上関町

2008-09-23 12:29:20 | 中国・四国

山口県上関町の祝島で建設計画が進められている原子力発電所のことだが、もう、ここまで暴力的な状況があからさまになっているようだ。数の上で少ない存在、マージナルな地域にいる存在、視線の届かない存在に対する暴力については、既視感がある。

街森研究所:「山口県庁大混乱;不可解な山口県の応対」(2008年9月10日)

街森研究所:「上関町役場の小部屋で多数決される重大議案」(2008年9月19日)

ここでは、合意決定のあり方、つまり民主主義のあり方についての大矛盾と亀裂を見ることができる(原子力発電の是非についてはまた別の問題)。

ブログより引用
強行突破の際、祝島住民が持参した署名用紙は県職員によって踏まれ、外袋が破れた。祝島の代表者は、「県民の意見を踏みにじるっちゅうのは、まさにこうゆうことじゃの」と皮肉った。

上のブログで取り上げられているが、情報公開条例を定めていない市町村は、都道府県・市町村をあわせて数えても0.5%、9市町村に過ぎない。その1つが上関町である。密室性を高めているこの状態は偶然ではないのではないか、と穿った見方をしてみたくもなる。(ところで、9市町村にやはり含まれる1つが、国境の島であり国防と無関係ではない与那国町ということも気になる点ではある。)

<情報公開条例を定めていない団体>
知内町(北海道)、乙部町(北海道)、利島村(東京都)御蔵島村(東京都)、 池田町(福井県)、富士河口湖町(山梨県)上関町(山口県)、与那国町(沖縄県)、北大東村(沖縄県)
(総務省、2008/8/1)
※2009/8/7時点では5自治体

●参考 眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』


原爆詩集 八月

2008-08-29 23:59:43 | 中国・四国

編集者Sさん(>> リンク)たちによる渾身の詩集、『原爆詩集 八月』(合同出版、2008年)。吉永小百合が推薦文を寄せていて、また、ずっと続けている朗読で聴いたことがある詩もおさめられている(栗原貞子「生ましめん哉」など)。

同じ「感動」するなら、このような悲惨極まる題材ではないほうがいい、と避けるひともいるだろう。しかしそれは間違いだ。悲惨極まる題材は、詩を詠んだ多くのひとたちにとって、選ばざるをえないすべてのものだった。すべてのものであるから、すべての感情と記憶を動員して、ことばにしている。ここでは、ことばはひとであり、ひとはことばである、ということが、全くレトリックでない。

だから、そのうち子どもに対しても、悲惨でショックを与えるはずのものだから読ませない、ではなく、感情の振れ幅をあたえるためにも読ませたいとおもう。

原爆の被害のなかで、子どもたちが亡くなったり、亡くなった母親を探したり、ままごとをしたりしている様子がそれぞれの詩で描きだされている。弱い者への憐憫というより、無差別虐殺という理不尽さが、子どもという存在を見たときに際立ってくるのではないか。

広島の原爆慰霊碑には「あやまちはくりかえしませんから」という文字がある。名越操「焼かれた眼」にはこうある。

「(略) 私の子どもまで/焼いてしまったのです/それなのに/私たちの/あやまちというのでしょうか/原爆は/アメリカが落したのです (略)」

碑のことばは結果的に問題を曖昧なままにし、そしてすべてが黙祷で浄化される面があるのだとおもう。黙祷はほんらい、亡くなったひとたちと想像力によって同一化をはかるプロセスのはずだ。そして祈るなら、現代の戦争被害者にもオーバーラップしていかなければならない。曖昧な抽象化は、いまの米国への軍事協力という真っ向から矛盾することを覆い隠しているわけだ。

Sさんのご家族が詩集におさめられた何編かを朗読し、Youtubeにアップしている(>> リンク)。新聞では、『毎日新聞』(>> リンク)が取り上げて紹介している。

ところで、伊東壮『新版1945年8月6日』(岩波ジュニア新書、1989年)は、原爆の開発・利用の経緯からチェルノブイリまでを、極めて的確に記述している。丸木位里が挿画を描いている。大人も意外によく知らなかったりするので、あわせて推薦したい。

●参考
青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』
『はだしのゲン』を見比べる
『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために
吉田敏浩氏の著作 『反空爆の思想』『民間人も「戦地」へ』
戦争被害と相容れない国際政治
土田ヒロミのニッポン(※『原爆詩集 八月』に、土田ヒロミの写真が多数ある)


青木亮『二重被爆』、東松照明『長崎曼荼羅』

2008-08-15 23:59:20 | 中国・四国

青木亮『二重被爆』(2005年)を観た。タイトルの意味するところは、広島と長崎のふたつの地で被爆してしまったことだ。不運という言葉だけでは語ることができない受苦の存在だが、実際に何人もおられるようだ。

映画に登場する山口彊さんは、三菱重工長崎から広島に出張中、同僚と被爆し、すぐに戻った長崎でも被爆している。長崎で原爆の光を見た途端に海に飛び込んで助かった、と映画でも語っているその同僚は、今年春、亡くなっておられる。(『毎日新聞』2008年4月30日、>>リンク

いまだ原爆症認定基準の拡大もあり被爆の問題は風化しえないとおもうが、この「二重被爆」についても、補償などの考慮がなされていないことが、映画で示される。現在、「被爆者援護法」に基づく「被爆者健康手帳」には、第1号(直接被爆者)、第2号(入市被爆者:爆心地の近くに入った者)、第3号(救護等で被爆)とカテゴライズされている。そして、この分類においては、「二重被爆者」は正当に位置づけられないことを、故・伊藤一長・前長崎市長(2007年に銃撃され亡くなる)が、映画でも語っている。

山口彊さんは、歌集『人間筏』を自ら出している。筏とは、川に浮かんだひとびとの姿だ。そのなかの短歌をいくつか詠みながら、気持ちがこみ上げて続けられない姿がある。山口さんは、今年も、長崎に原爆が投下された8月9日の報道においても、経験を語り継ぐことを述べている。

うち重なり 灼けて死にたる人間の 脂滲みたる土は乾かず

ところで、東松照明『長崎曼荼羅』(長崎新聞選書、2005年)は、後で視る者としてのまなざしを、写真と文章に結実させている。

廃墟の究極に原子野がある。究極兵器と呼ばれている原爆によって破壊された都市や人間の変質した姿である。いうまでもなく広島・長崎の廃墟のことである。原子野は、二〇世紀中葉にはじめて登場した全く新しいタイプの廃墟である。それは、核時代を生きるものの誰もが怖れている世界の終焉を先取りした光景の一端である。
 私は、いまでも長崎を撮りつづけている。

●参考
『はだしのゲン』を見比べる
『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために
東松照明の『南島ハテルマ』


讃岐の彫漆、木村忠太

2008-05-31 10:34:43 | 中国・四国

所用で広島、新居浜、高松と移動して、最後に1時間ほど時間ができたので、高松市美術館の常設展を観た。今年度の第1期常設展として展示されていたのは、讃岐漆芸、とくに何十回、何百回と塗り重ねた漆を彫る彫漆に注目した『彫漆にみる写実と細密』、それからフランス印象派の後継者を自任した『魂の印象派 木村忠太』だった。

前回この美術館を訪れたときにはじめて讃岐漆芸のことを知り、また観たいと思っていたのだ(→リンク)。今回は、磯井如真が開拓した、漆に点彫りをしては色漆を塗って研ぎ出す「蒟醤」(きんま)の美しいグラデーションを味わうことができなかったのは残念だが、そのかわり、ダイナミックでも細密でもある彫漆のいろいろな作品を観ることができた。

高松藩の漆彫師であり、讃岐漆芸の源流ともみなされる玉楮象谷による「堆朱」(ついしゅ、朱漆を彫ったもの)が1点あった。篳篥を入れるための箱であり、扇のように蓋が開くようになっている。そして花や草がびっちりと彫られており、迫力がある。しかし、1点だけで印象を云々することはできないだろうが、象谷のフォロワーである音丸耕堂や磯井如真の、豪快さ、モダンさ、精緻さなどの多様な側面のほうに、より心が惹かれるものがあった。

音丸耕堂の、堆朱による『昆虫の図』は、硯箱の蓋にトンボ、カタツムリ、キリギリス、カブトムシ、クワガタ、蝶なんかがリアルに掘り込まれている。昆虫の下にある波文は朱漆を25回、昆虫尽くしはさらに100回くらい塗ったあとの工芸だということだ。角度によって色も雰囲気も違う。

磯井如真の作品としては、堆朱や堆黒によるお香の箱がいくつもあった。10センチに満たない大きさの小箱に小さくびっちりと掘り込みがある。トンボだったり、稲穂だったり、筍だったり、茄子だったり、意匠によって浮かぶ気分が違って面白い。

もう1つの部屋で展示されていた木村忠太の作品群は、時期によって大きく変貌していた。1940年代の写実は、香月泰男の『シベリア・シリーズ』を思わせるほどの暗鬱さ。それが次第に光に満ち溢れる作風になっていく。正直言って、渡仏してからの作品はまったく好みでない(日本への手紙で、梅原龍三郎や林武よりも自分のほうが上だ、と書いている。それほど成功していたらしい)。しかし、それよりも前、ボナールに影響されたあとの『食事』などは、室内に注ぐ光が食器も食べ物も子どもたちも渾然と溶かしていて、素晴らしいとおもった。


眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』

2008-01-26 23:59:31 | 中国・四国

先日、『けーし風』読者の集いに出席したら、一坪反戦のYさんにいきなりこの写真集を頂いた。『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』(那須圭子、創史社、2007年)である。(いつもいろいろとありがとうございます。)

上関町はわりと郷里に近いこともあって、原子力誘致をめぐって様々な軋轢があったことは知っていた。しかし、それ以上に見ようと思わなければ、見えないものだ。その眼を向けると、この写真集はこれまで積極的に知ろうとしない態度をとっつかまえようと待ち構えているようだ。那須氏の先達である写真家・福島菊次郎は、「あのねえ、那須さん。無知であることは罪なの。僕がそうだったからよくわかる。」と語っている。

上関町の事情については、鎌田慧『原発列島を行く』(集英社新書、2001年)に良く整理されている。半島の先っぽに原発予定地の長島がある。しかし、そこは長島に住む人たちの眼に触れることは少なく、むしろその先に浮かぶ祝島と眼と鼻の先という関係になっている。そして、これまで繰り広げられてきた世界は、接待攻撃、カネ=麻薬による患者の増加、それによる地域社会における人間関係の崩壊、不十分な環境影響評価、地方行政の日和り、醜い脅し、強制的な事業着工。どこかで聴いたようなプロセスがここでも行われている。(ところで、『原発列島を行く』には、現厚労大臣がこれまでに行ってきた行動も書かれており興味深い。)

そのようななかで、自分たちの生活権を守るために抵抗し続けている方々の姿が、写真にうつし出されている。取材を通じて得られた「生の声」も、なるほどと思わせることが多い。町長選や町議会選挙では、ずっと賛成6:反対4程度の集票のようだ。しかし、それは個人の声を反映したものではない、と主張している。小さい町なので、賛成とする地域では、反対するとばれてしまい、住んでいけなくなるのだ。それどころか、反対する議員や候補と話をするところを見られただけで、「反対派」と見なされてしまうという。これも、間接民主制の欠陥だろうか。

するとお婆さんは私の腕を引き寄せて耳打ちした。「わたしら心から賛成しとるわけじゃないんよ。下の者は上の者に何も言えんでしょ。じゃけえ仕方なしにね。」「じゃ、本当は私たちといっしょ?」そう聞くと、お婆さんは黙って大きくうなずいた。そのうえ1年分もあろうかと思える大量の干しワカメまで持たせてくれたのだった。
 これは第4章で触れた、あの推進派の元町長のお膝元の白井田での話だ。


高松市美術館、うどん

2007-10-24 23:30:45 | 中国・四国

日帰りで高松市に行った。朝早い便しか取れなかったので、空いた時間に、高松市美術館を訪れた。

特別展は「巨匠ブールデル展」だった。ロダンと同時代の彫刻家だ。常設展だけよりはと思い観たが、やはり、別に自分の好みでもなかった。イサドラ・ダンカンのドローイングは手が不自然に長く、気に入ったが。

常設展の「讃岐漆芸にみるモダン」は目を見開くくらい素晴らしかった。まったく予備知識がなく観たのだが、漆を厚く塗り重ねてから彫る「彫漆」、漆に点彫りをしては色漆を塗って研ぎ出す「蒟醤」(きんま)など、讃岐漆器独特の手法をはじめて知った。

彫漆」は、わりに大きな彫りができるので、荒々しくもスコンとモダンにもなりうるのだった。中国清代の、色ガラスを重ねあわせてから精密に彫る「乾隆ガラス」が京都の京セラ美術館にいくつも展示されているが、それと並べても面白い展示になるだろうな、と、ふと思った。音丸耕堂の「彫漆双鯰之図料紙箱」(1934年)がソリッドな刻み感を残しているのに対し、磯井如真の「里芋之図 彫漆花瓶」(1936年)はもう少し丁寧に里芋の葉っぱの図柄を組み合わせて気持ち良い。

蒟醤」はあまりにもきめ細やかで、目が離せなくなる。磯井如真の息子である磯井正美の「蒟醤 石畳 箱」(1987年)はモダンで鮮やか、本当に素晴らしいと思った。太田儔の「籃胎蒟醤 短冊箱 夏ぐみ」(1996年)は、駒井哲郎の版画に生命が吹き込まれたようだ。

帰りに、『週刊朝日百科 人間国宝 漆芸』を買った。

もうひとつの常設展示は、「体感温度」と題されていた。汚泥の縫い目から枯木が左右シンメトリックに垂れ下がり、さらに上を泥の湯葉のようなものが覆う、菊畑茂久馬の「天動説 十五」(1985年)は、東京都現代美術館の所蔵品より数倍気に入った作品だ。昔から好きな香月泰男の「業火」(1970年)は、炎が牡蠣殻のように見え、シベリアシリーズと同様に怨念のイコンと化していた。はじめて知った小川百合の、暗闇で息をしているような本棚や階段の鉛筆画は、異彩を放っていた。

ところで高松といえばうどん。美術館の隣に、「かな泉」という店があったので、朝のうちに一杯食べた。セルフ方式で、かけうどん(中)160円+海老と小柱のかき揚げ150円。値段が信じられないほど旨い。この店は、帰りの高松空港にもあり、夕食としてまた食べたが、こちらはセルフでなく普通の値段だった。昼には、美術館近くの「源芳」でぶっかけうどんを食べたが、もっちりした柔らかめの麺で、これも旨かった。

当たり前かもしれないが、私の知っている、東京で食べることのできるうどんとはまったく違う旨さだ。いまはそれでもマシで、15年位前の学生のころは、「うまいうどん屋」を探すことが難しかった。千駄木の「うどん市」によく通っていた。高松に何日も居たら、うどんだけでも幸せだろうな。


『はだしのゲン』を見比べる

2007-08-26 22:00:10 | 中国・四国

中沢啓治が自身の被爆体験を漫画化した名作、『はだしのゲン』。私は中学校に一揃い置いてあったのを読んだ。

先日、フジテレビでリメイクされたドラマ(→リンク)の出来は、思ったよりよかった。原爆投下シーンのCG映像で、火が人々を焼いていく様子は特撮遊びではなく、この兵器の凄絶さを誰にも示すものだったと思う。

『はだしのゲン』は、これまでに何度か映像化されている。いい機会なので、旧作をレンタルしてきた。

原爆投下後までを描く『はだしのゲン』(1976年、山田典吾)は、ゲンの父を三國連太郎、母を左幸子が演じている。ゲンの父は戦争に公然と反対することで、地域で非国民呼ばわりされる。竹槍訓練をナンセンスだと喝破するシーンなどでは、「芋ばっかり食っちょるから」と言って堂々と屁をひりまくっている。立小便もする。そのような、戦争への無批判な軍民一体化を笑い飛ばす演出と、それでも威厳を失わない三國の存在感が、今回のドラマの中井貴一を上回っていた。


竹槍訓練での「屁国民」である三國、火に巻かれる三國、左幸子とゲン

戦後を描いた続編は2つある。同じ監督の『はだしのゲン 涙の爆発』(1977年)と、『はだしのゲン PART3 ヒロシマのたたかい』(1980年)だ。正直言って、映画としての緊張感をどんどん失い、集中して観ていられない。

しかし、『涙の爆発』で描かれた、集団の差別と偏見のありようにはみるべきものがあると思った。ゲンの母役は宮城まり子。「ねむの木学園」を発足させた後の映画であり、多くの孤児たちを自分の子どもとしてうけいれるシーンに、明らかに反映されている。ゲンの顔は、三部作のなかではこの『涙の爆発』が、漫画に近い感じだ。 『ヒロシマのたたかい』では、草野大悟、風吹ジュン、財津一郎、にしきのあきら、ケーシー高峰、タモリ、赤塚不二夫など配役は面白いが・・・。


漫画に似た雰囲気のゲン、差別丸出しの住民に対し火傷を見せる石橋正次、宮城まり子


米兵のガムを食うゲン、犬肉を屠る草野大悟、米兵の間でふざけてみせるゲン

アニメの『はだしのゲン』は、第一部(1983年)、第二部(1987年)の2本がある。両方良い作品だと思うが、ここでのアニメという手法は、本当の酷さを丸めてしまっているのではないかと感じた。それでも、ゲンの母が家族を亡くすときに錯乱して笑ってしまうシーン、焼け野原で二次的な被爆にあった兵隊が知らずに血便を垂れ流してしまうシーン、顔や手の火傷痕のことをいじめられている少女を元気付けるため、ゲンが火傷痕をペロペロ舐めるシーンなどはドラマにも映画にもなく、アニメでなければ表現できないところでもある。第一部は、ジブリ作品の美術を多く手がけた男鹿和雄が参加しているところも嬉しい。


第一部のゲン、第二部のゲン(原爆ドームの上で鳩の卵を食う)、写真を撮るGHQ

ところで、この8月に、「ヒストリーチャンネル」で『マンガが戦争を描く時』というドキュメンタリー(→リンク)が放送された。中沢啓治氏がさまざまなエピソードを語っているが、ゲンが東京へ出て行く「続編」が構想されていたことは初めて知った。中沢氏は、「それを描いてどうなるのか、ゲンは皆に想像してもらうものではないか」というようなことを語った。

だから、ゲンはいつ作られても、子どもだけでなく、私たち自身にとっても心に残る作品になりうるのだろう。『ヒロシマナガサキ』を撮ったスティーブン・オカザキも、自分の娘の名前に、ゲンの妹の名前トモコをつけているそうだ(『婦人之友』2007年8月号に記事がある)。


「ゲン」続編の書きかけ


『ヒロシマナガサキ』 タカを括らないために

2007-08-01 23:39:59 | 中国・四国

岩波ホールで、『ヒロシマナガサキ』(スティーヴン・オカザキ、2007年)を観た。

アメリカ映画である。だから、米国の当時のニュース映画やテレビ放送、そして原爆投下時と投下後の記録フィルムが使われている。知ったかぶりはしたくないので言うが、被爆者の映像は相当に衝撃的だ。これを自分の家族に置き換えて考えると、おそらく誰もが感情の何かの閾値を超える。

私にとっての広島・長崎は、最初は小学校の図書館で見た記録写真集だった。黒焦げになった死体や、お握りを持って呆然と佇む子どもがいた。次は、中学校においてあった、中沢啓治の『はだしのゲン』をはじめとする漫画全集だった。この映像は、それらを超えるとは言わない。事実の重さは、その記録が如何に凄惨かというレベルではかられるものではない。そうではなく、自分にとってのこれまでの体験と同じくらいの重さが、この映画にあった。

その中沢啓治も映画に登場する。米国に恨みはないこと、守らなければならない憲法をもらったことを淡々と語る。被害者でありながら、である。

パンフレットに佐藤忠男が寄稿した文章には、こうある。

しかしこの「ヒロシマナガサキ」に見る被爆者たちのおちついた態度と表情、やさしく内省的な語り方などが示しているのは、問題は反米というような次元にあるわけではないことをはっきりと示している。
(略)
この被爆者の方々の美しい表情が、原爆についての反省なんかするもんかと力んでいるアメリカ人たちの一部のかたくなな心を柔らかく押し開く力になることを私は切に望む。

映画のなかで使用されるニュース映像におけるトルーマン大統領や戦勝に沸く米国民たちの心には、おそらく「人間」ではなく抽象的な「日本」というもののみがあった。また、当時の原爆投下体験を振り返るエノラ・ゲイのパイロットたちの心にも、いかに贖罪の気持ちがあったとはいえ、「人間」よりも「抽象」よりの傾向があるように思えた。そして、映画を観たり原爆について語ったりする私たちも、いかにしても、「抽象」、つまりタカを括った考えをしてしまうことは回避できないと感じる。だからこそ、一人一人の声に耳を傾けなければならないのだと思う。

『ひめゆり』、それから『ヒロシマナガサキ』、他の人にも「タカを括る」前に観て欲しい。いまの日本の政治が、どれだけ「タカを括った」ものであるかを改めて認識する。「タカを括る」とは「人をナメる」とも言う。