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Sightsong

自縄自縛日記

新藤兼人『原爆の子』

2011-08-13 10:35:18 | 中国・四国

新藤兼人『原爆の子』(1952年)を観る。翌年のカンヌ映画祭では米国が受賞しないよう圧力をかけたという曰く付きの映画である。

敗戦後。原爆投下時に広島で幼稚園の先生をしていた主人公(乙羽信子)は、いまでは瀬戸内海の小島で先生をして暮らしている。ある日、休暇を取って5年ぶりに広島を訪れたところ、相生橋(原爆投下の目標になったT字型の橋)の横、原爆ドームの川向いで物乞いをしている老人に目を止める。かつての実家の使用人(滝沢修)であった。さらに、幼稚園の教え子たちの生き残り3人を訪ねる。ひとりは父親が原爆後遺症で亡くなるところだった。ひとりは教会に身を寄せて死者に祈りを捧げるも、10歳にもならぬうちに亡くなろうとしていた。ひとりはちょうど姉が嫁ぐ日だった。主人公は居たたまれない。そして、孤児院に入っている使用人の孫を引き取り、島に帰っていく。

原爆が爆発した後の地獄絵のイメージが凄絶だ。新藤は意図的にか、焼けただれて死にゆく者も、いまを生きる者も、まるで西洋彫刻のトルソのように描く。それは尊厳についての強い思いかもしれない。ケロイドなどの後遺症を持つ者たちの描写と相まって、米国が拒否反応を示したことも納得できるというものだ。

俳優陣が劇団民芸の宇野重吉、滝沢修、北林谷栄といった面々で、決して好みではない重さがある。大滝秀治も出ているらしいが、どの役だろう。船長役の殿山泰司はこのときまだ30代、別人のようだ。


相生橋(2011年8月)


原爆ドーム(2011年8月)

●参照
『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』
新藤兼人『心』
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(1)
被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(2)


唐十郎『任侠外伝・玄界灘』

2011-08-13 01:13:10 | 中国・四国

唐十郎『任侠外伝・玄界灘』(1976年)を観る。舞台は下関である。

朝鮮戦争時、学生の沢木(宍戸錠)と近藤(安藤昇)は米軍の死体処理のバイトをしていた。飛び出た内臓を思い出して、食っていたラーメンを吐く始末。謎の男(唐十郎)が現れ、どうだ朝鮮半島に渡ってみないか、倍は稼げるぞと唆す。釜山では遺族に戦死を告げる仕事、どさくさ紛れに強姦さえしてしまう。そこで殺してしまった女性は翌日蘇生するも、やがて恨死する。

二十数年後。沢木と近藤は韓国からの密航と東京への人身売買によって稼ぐやくざになっている。彼らとその手下たちも、密航者たちを暴行する。近藤の舎弟は直情の男(根津甚八)。そして密航者の中には、かつての強姦により生まれた娘(李麗仙)と証人の男(小松方正)とがいた。近藤への復讐のためだ。

業と獣欲にまみれた、あまりにも酷い物語だが、なぜかフィルムには唐の情と色が溢れている。主役の宍戸錠と安藤昇という組み合わせが凄まじく、他の面々も異常なほど濃い。李麗仙は唐十郎の妻だった時期である。唐の底知れない迫力もいつも通りだ。何年前だったか、井の頭公園に赤テントが張ってあって、その囲まれた真ん中に椅子を置き、唐が座っていた。写真を撮ってよいかと迂闊にも訊ねると、「あっちを通してください」とニコヤカに答えられた。とても怖かった。

下関は昔も今も国境に面した<際>である。どちらかと言えば、映画の題名を『玄界灘』ではなく『響灘』としてほしかったところだ。かつて私の父は、下関で警官をしていた。勿論、映画では日本権力の走狗として描かれている。在日コリアンの多い町にあって、数年間、何を考え何を視ていたのだろうか。

私にとっても関釜フェリーは今に至るまで憧れだ。夜、AMラジオを聴いていると、韓国語放送ばかりになり日本語を探すのが困難なほどだった。



『アートシアター ATG映画の全貌』(夏書館、1986年)より

ところで、この映画は初めて映倫の「R指定」を受けた作品である。先日所用のついでに東銀座をぶらついていると、何気なく覗いた雑居ビルの中に映倫があった。奇妙な感覚だった。

●参照(下関)
関門海峡と唐戸市場
巌流島
角島

●参照(ATG)
実相寺昭雄『無常』
黒木和雄『原子力戦争』
黒木和雄『日本の悪霊』
若松孝二『天使の恍惚』
大森一樹『風の歌を聴け』
淺井愼平『キッドナップ・ブルース』
大島渚『夏の妹』
大島渚『少年』
新藤兼人『心』
グラウベル・ローシャ『アントニオ・ダス・モルテス』


被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(2)

2011-08-12 00:59:49 | 中国・四国

(つづき)

■ 笹口孝明さん(新潟県旧巻町・元町長)

新潟県巻町(現・新潟市)には、かつて巻町原発の建設が計画されていた。1995年の住民自主管理による住民投票、推進派町長のリコール・辞任と住民投票を実施した会からの新市長(笹口市長)の誕生、1996年の町による住民投票、町有地の反対派への売却と最高裁での勝利、東北電力による原発断念と、まさに住民主導の合意形成プロセスを実現させた例である。

共通の記憶とされるべき歴史であり、私も『これでいいのか福島原発事故報道 マスコミ報道で欠落している重大問題を明示する』(丸山重威 編・著、あけび書房、2011)(>> リンク)において大事な事例として取りあげた。(なお詳細には、伊藤守・渡辺登・松井克浩・杉原名穂子著『デモクラシー・リフレクション:巻町住民投票の社会学』(リベルタ出版、2005)にまとめられている。)

その笹口町長である。いまは元の「造り酒屋のオヤジ」に戻っているのだという。直接話を聴けることは嬉しい限りだ。笹口氏はこのプロセスを振り返り次のように述べた。

1965年頃には、東北電力が土地ブローカーを使い、観光名目で角海浜(かくみはま)の土地買収を始めていた。それをスクープしたのは1969年の「新潟日報」であった。その後、概して町長は2期目になると原発推進に転じ、そのたびに原発に慎重な新町長が選ばれることが続いていた。しかし1994年、笹口町長前任の佐藤町長が「世界一の原発をつくる義務がある」との公約を掲げて三選を果たし、急に話が現実味を帯びてきた。このとき出てきた問題点は、「本当に町民は原発建設に同意しているのか?」ということだった。当選したとはいえ、原発に反対する候補の票のほうが佐藤町長の票を上回っていたのだ。

笹口氏を含め、地元の商工業社長と弁護士の計7人は「住民投票を実行する会」を結成、本気であることを示すために、プレハブの事務所をつくり、常駐職員を置き、マスコミへの発表と住民説明を行った。佐藤町長に原発の是非に関する住民投票への立会人派遣を要請するも拒否され、住民自主管理での投票となった。推進派は投票実施すると負けるために投票自体のボイコットを呼び掛けた。すなわち、「住民投票に行くこと」が「反原発」と見なされる雰囲気となり、住民は相互監視の目にさらされることとなった。カメラに写されるのを嫌がり帰る人、マスクとマフラーで顔を隠してくる人、家族を投票所に連れてくるも自分だけ自動車から出ない人などがいた。「会」はマスコミへの撮影自粛を要請した。そして住民投票は投票率45.3%、反対95%という結果になった。

佐藤町長は、「ルールにないため町政とは関係ない」と「会」との面談を拒否し、町有地を東北電力に売却しようとする。押しかけた住民により町議会は流会、そして町長リコール、辞任。次の選挙で「会」の笹口町長が誕生する。

あらためての住民投票は集票合戦となった。結果、投票率88.3%、反対60.9%という結果が出た。民意は明らかであった。しかし、町議会は推進多数であり県知事も推進派、放っておいたら危ないため、笹口町長は町有地の反対派への売却を行う。推進派の町議が裁判を起こしたものの、一審・二審ともに売却を是とし、2003年12月、最高裁は上告を受理しなかった。ほどなくして東北電力は建設を断念した。

この過程のなかで、住民投票という方法への批判が一部メディアからなされた。曰く、混乱させる。議会の存在意義を無にするものだ。国策に口を出してはならない。

しかし、そうではない。この過程は、民主主義とは何か、を問うものだ。

■ 音楽演奏(ウリ・ゲッテさん、ディエゴ・ヤスカレーヴィッチさん)

ドイツから来日中のウリ・ゲッテさんによるコンセプチュアルな感覚のピアノ演奏、ディエゴ・ヤスカレーヴィッチさんによるチャランゴ演奏があった。チャランゴは弦の本数が多い難しそうな弦楽器で、ずいぶん小さい。これをヤスカレーヴィッチさんは抱えるようにして弾いた。見事だった。

■ 藤本安馬さん(元毒ガス工場工員)

戦時中、広島の大野久島は毒ガス工場を抱えていた。機密のため地図から消されたりもした島である。藤本さんは、この島の工場で工員として働いていた。

藤本さんは、「ど田舎」の島での毒ガス製造と、「ど田舎」の地域での原発建設に共通点を見出している。そして、「あなたの問題はあなたの問題、私には関係ありません」という現代社会の共通意識が如実に顕れたのが原発であるとし、「あなたの問題は私の問題」とする団結の論理こそが求められるものだと訴えた。

■ 簡全碧さん(重慶大爆撃被害者)

簡全碧さんは旧日本軍による重慶大爆撃の被害者である。これにより家族の運命が一変し、精神的な傷が癒えないのだと語った。簡さんたちは、現在、日本政府に対して謝罪と賠償を求め、東京地裁での訴訟を起こしている。

簡さんは、真の中日友好は、この問題を解決してからだと訴えた。


重慶大爆撃の絵

■ 安次富浩さん(沖縄・ヘリ基地反対協議会)

広島から祝島行きにも同行する予定だった安次富さんは、結局、台風のために飛行機が飛ばず、電話でのアピールとなった。基地と原発は根っこは一緒であり、「僻地」や沖縄は虐げられる一方でアメによってがんじがらめになり、都市が受益者になっているのだと語った。

■ けしば誠一さん(杉並区議)

今回同行の新城せつこさん(杉並区議)と戸田ひさよしさん(門真市議)を紹介するとともに、中央からでは難しい反原発を進めるため、「反原発地方議員の会」を発足させたとアピールした。


被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい(1)

2011-08-11 07:26:38 | 中国・四国

シンポジウム「被爆66周年 8・6 ヒロシマのつどい」(2011/8/6、広島市文化交流会館)に参加した。

■ 開会宣言

大橋ひかりさんによる開会宣言。大橋さんは、祖父の軍隊での差別体験を寄稿した。

■ 被爆アオギリのねがいを広める会

今年の7月12日に亡くなった「アオギリの語り部」こと沼田鈴子さんを悼んでのスピーチがあった。沼田さんは、原爆に焼かれながらも芽吹いた平和記念公園のアオギリを分身に見たて、被爆体験を語り続けた。そのような体験から、3・11直後から被災者に想いを馳せ、「私達は二度と被爆者になりたくない」と語っていたという。

なお、8月24日未明には、フジテレビで『託す~語り部 沼田鈴子がまいた種~』(テレビ新広島制作)が放送される。


故・沼田鈴子さん


広島平和記念公園の被爆アオギリ

■ 李金異(イ・クミ)さん

広島市の福島町で被爆した在日コリアン2世の李さん。69歳の李さんは、去年、被爆者健康手帳を交付された。広島県庁に両親が被爆した記録があったが李さんはそれを知らず、ようやく申請して認められている。そのような政府のあり方に、李さんは、日本は差別のある国だ、絶対に許せないと怒りを表した。被差別に加えて在日コリアンという二重の差別構造を生きてこられた方の生の声である。

李さんは去年あたりからガンの恐怖にとらわれているのだという。これも被爆者の実感として記憶されるべきことである。

この日の夜に呑んだときの李さんは、うって変わって、周りを明るく盛り上げる愉しい方だった。


李金異さん


夜、観音町の「晴屋」にて

■ 上田由美子さん(詩人)

広島と福島の共通性を語る上田さんは、自作の詩を朗読した。その一方で、福島についての詩作を依頼されたが、断ったのだという。現地の傷痕や苦しみをわがものとして受けとめなければ詩は書けないという理由だった。

上田さんは、原発が地震に対して絶対に大丈夫だとの謳い文句がいかに空虚だったか、そしてなお原発を推進する者たちは将来に汚名を残すであろうと警告した。

■ 大塚愛さん

大塚さんは、福島第一原発の20km圏内にある川内村で12年前から自給自足生活に取りくみ、さらに4年前から大工修行をしていた。原発城下町の当地では、白血病で亡くなる方がいることもあって、村民は決して安全だとは思っていなかったのだという。自給自足ゆえ止められて困るライフラインはなかったのだと言うが、放射能の危険性を考え、自身で建てた家を捨て、すぐに岡山県の実家に移り住んでいる(その後3月16日、村長決断により全村避難)。

大塚さんはいま、原発に頼らない地域づくりを掲げ、廃炉アクションを起こそうとしている。そして「アロハでハイロ」だと会場を笑わせつつ、ジョン・レノン「イマジン」にあわせてフラを踊った。

(つづく)


広島の水主亭

2011-08-11 01:13:48 | 中国・四国

編集者のSさんにお誘いいただき、杉並区議のKさん・Sさん主催の広島・祝島行きに同行した。他にも門真市議のTさん、出版社社長のUさんなど多士済々、まったく愉快な方々である(失礼)。早朝の新幹線に乗り込み、昼前には広島の平和記念公園に到着した。

まずは昼食を取ろうと、近くの「水主亭」に入った。「すいしゅてい」ではなく、過去の地名から「かこてい」と呼ぶらしい。暖簾をくぐるとそこは昭和そのもの。壁のメニューはいたってシンプルであり、えらく安い。「一品料理」って何でしょうね、店のお婆さんは「今日は無い」。そんなわけで、全員うどんを注文する。

呉うどんというのか、細めの麺である。上には葱、とろろ昆布、揚げ玉。これが結構旨い。敢えて作った揚げ玉ではなく本当の天ぷらの副産物だから本物だね、旨い旨い、と皆で褒めちぎる。

今ひとつ満腹にならずもじもじしていると、お婆さんが「カレーがあるけえ」と言って持ってきた。氷山のようにご飯が持ってあり、ルーが皿から垂れまくっている。玉葱はそのままの形、信じられないくらい豪快である。これがまた妙に旨い。何皿か持って来てくれたカレーのルーは2種類作ったもののようで、お婆さんはフランクにも、辛いほうとそうでないほうとどっちがおいしいかね、と訊いてきたりする。さらには、唐突に韓国ドラマ『イ・サン』のガイドブックを持ってきて、見ちょる?見ちょる?と嬉しそうに話すのだった。

こんな店は東京にはない(たぶん)。広島いい店ひとの店。


岩国基地のドキュメンタリー『鉄条網とアメとムチ』、『基地の町に生きて』

2011-07-20 08:19:27 | 中国・四国

NNNドキュメント'11」で、『鉄条網とアメとムチ ~苦悩する基地のまち~』2011/7/17、日本テレビ・山口放送製作)が放送された。主に沖縄と山口県岩国市の基地拡大をめぐるドキュである。

民主党は、基地の町に対する自民党政権の「アメとムチ政策」を踏襲した。

沖縄県嘉手納町83%の面積は、嘉手納基地によって占められている。昨年の深夜・早朝の騒音発生回数は5320回を数え、難聴や低体重児も少なくないという。既に、第3次爆音訴訟がはじまっている。ここで520年務めた宮城町長2011/2/17退任)は、「アメとムチ」を逆利用して、さまざまなものを国から引き出したと評価されている。1996年、前年の米兵少女暴行事件を契機とした「島田懇談会」での補助事業費1000億円のうち220億円が嘉手納町に充てられた。

しかし、このようなハコモノによる活性化は期待を下回り、失業率は依然として高い。嘉手納町再開発に伴い誘致した沖縄防衛局(家賃収入1.6億円)で働く500人は昼間人口であり、町民税を払っていないのだという声がある。

また、地元の若者は、那覇新都心や北谷町で基地が返還されたが、「内地企業」が入ってきて、ウチナンチュは時給700800円でしか採用されない、バカにしているのか、と怒りの声をあげている。これはきっと、基地返還に伴う経済効果を見る際に重要な視点である。

山口県の岩国基地では、1km沖合の新滑走路が完成し(2010/5)、騒音被害軽減の謳い文句があったはずが、1.4倍の拡大・機能強化のみをもたらしている。そして、厚木基地の空母艦載機59機が移転する計画であり、120機以上を抱えることとなれば、極東最大の嘉手納基地を超える規模となる。愛宕山は、沖合滑走路埋め立てのため削られ、住宅建設の目的が破綻、防衛省が米軍住宅のため買収しようとしている。もとの地権者は、宅地として買い戻すつもりだった、と怒りを隠さない。田村順玄・岩国市議は、保守派の多い山口県にあって、反対した当時はまるで反逆者のように言われたのだという。

20063月、米軍再編に反対する井原市長(当時)のもと、米軍基地に関する住民投票が行われ、圧倒的に反対票が多い結果となった(投票率58.68%No 43433人、Yes 5369人)。それを受けて国はムチを振るい、市庁舎建設費用35億円を凍結した。井原市長は辞職、出直し投票を行うが、自民党の福田候補に敗れる結果となった。即座に補助金凍結は解除され、さらに134億円の再編交付金10年間)が与えられている。まさに民意のずれ、「アメとムチ」による住民意思の抑圧であった。

沖縄の「普天間移転」と称される辺野古の新基地建設も同様の状況があった。高専、みらい館、マルチメディアなどハコモノを作るが、やはり失業率は高い(2005年には12.5%)。現地の土木業者は、「工事の雇用を期待して内地から帰ってくる人が増えた」のだと説明する。そんな中、名護市では、基地反対を掲げる稲嶺市長が当選した(20102月)。岩国と同様に、国のムチ=米軍再編交付金の停止があった。しかし、それでも20109月の市議会選では、市長派が圧勝した。

大浦湾近くに建てられた物産館「わんさか大浦パーク」は、建設費の9割を占める3.6億円は北部振興事業の予算として出されたものの、年間2000万円の運営費に充てられる予定だった米軍再編交付金がカットされた。それでも経費節減と各区積み立てなどでしのいでいるという。

この20115月、国頭村安波への基地誘致の動きが表面化した。見返りは高速道路延長であり、工事であり、基地雇用である。沖縄選出の下地幹郎衆議院議員の動きもあった。これがどのような結果を生むのか、まだわからない。

ドキュは、基地政策が一部の弱い立場の人々に負担を強いるものであり、場当たり的だと締めくくっている。

岩国の動きについては、3年前の同じ番組枠「NNNドキュメント'08」での『基地の町に生きて ~米軍再編とイワクニの選択~』2008/6/15、山口放送製作)においても報じられていた。やはり田村順玄・岩国市議が登場し、「米軍のやりたい放題」「民主国家のやることではない」と批判している。

ここで明らかにされる国と県と市の密約。米軍のNLP(夜間着艦訓練)は滑走路を空母に見たてて夜中のタッチ&ゴーを繰り返すものであり、実は1992年、山口県・岩国市と防衛施設庁(当時)との議事録において、「NLPを将来も受け入れざるを得ない」としていたことがわかっている。騒音がなくなる、墜落の危険性がなくなる(戦後、ここでの墜落事故は29件)との謳い文句により、1997年に滑走路沖合移設工事が開始し(思いやり予算、2400億円)、単なる基地拡大となったばかりか、厚木の空母艦載機59機の呼び水となった。その前の密約であり、当然、住民はそのカラクリを知らなかった。そして愛宕山は削られ、いまでは米軍住宅用地のターゲットとなっている。

岩国基地は1930年代、旧日本軍に接収された土地であり、それが敗戦とともに米軍のものになった。集団移転の要望を出す住民たち。岩国基地から飛び立つ飛行機にはクラスター爆弾が搭載されている。

参照
『基地はいらない、どこにも』(岩国基地)
『基地はいらない、どこにも』(岩国基地)
『けーし風』読者の集い(9) 新政権下で<抵抗>を考える(井原・元岩国市長インタビュー)
東琢磨・編『広島で性暴力を考える』(岩国の米兵による暴行事件)
問題だらけの辺野古のアセスが「追加・修正」を施して次に進もうとしている 環境アセスへの意見(3)(岩国と普天間)
今こそ沖縄の基地強化をとめよう!11・28集会(1)(岩国と嘉手納)
『国策のまちおこし 嘉手納からの報告』に見る「アメとムチ」
屋良朝博『砂上の同盟 米軍再編が明かすウソ』
渡辺豪『「アメとムチ」の構図』
『現代思想』の「日米軍事同盟」特集
久江雅彦『米軍再編』、森本敏『米軍再編と在日米軍』

●NNNドキュメント
『沖縄・43年目のクラス会』(2010年)
『シリーズ・戦争の記憶(1) 証言 集団自決 語り継ぐ沖縄戦』(2008年)
『音の記憶(2) ヤンバルの森と米軍基地』(2008年)
『ひめゆり戦史・いま問う、国家と教育』(1979年)、『空白の戦史・沖縄住民虐殺35年』(1980年)
『沖縄の十八歳』(1966年)、『一幕一場・沖縄人類館』(1978年)、『戦世の六月・「沖縄の十八歳」は今』(1983年)


松田定次『獄門島』

2011-06-09 00:40:12 | 中国・四国

神保町シアターで、松田定次『獄門島』(1949年)を観る。『獄門島』と『獄門島 解明篇』の連作をまとめた総集編である。横溝正史の原作や他の映画化された作品と異なり、「ごくもんじま」と読む。

水曜の夜にも関わらず映画館は満員。みんな映画が好きなんだな、何だか嬉しくなる。

片岡千恵蔵金田一耕助を観るのははじめてだ。古谷一行や石坂浩二のような汚いやさ男ではなく、顔がでかく弁当箱のような身体をした偉丈夫である。他にも渥美清や鹿賀丈史や豊川悦司などが金田一を演じているが、自分にとっては、もの悲しいテレビドラマでの古谷がベスト金田一だ。それでも、さすが名優、眼がでかい顔に吸い寄せられる。

市川崑のモダンできめ細かい演出に慣れているせいか、とても大雑把なつくりだ。その隙間が却って魅力を生み出しているのは奇妙なところである。しかし、せっかくの「気違い」=「季違い」というトリックが無視されてしまったのは残念だ。また、真犯人が原作と違って無理に設定してあり、これもまた不自然極まる展開になっている。

最大の見ものは、フライヤーにもあるように、千恵蔵の哄笑。「うわっははは、うわっははは、うひょひょひょ、うほほほ」と叫び、突如として映画に異空間が訪れる。千恵蔵のでかい顔と同様、ケレンそのものか。何を考えていたんだろう。映画館でも耐えられず皆笑ってしまう。ヘンなの。

●参照
『悪霊島』
おかしな男 渥美清


山口県の原発

2011-05-15 09:05:49 | 中国・四国

山口県上関町、祝島に面する場所に原発の立地が計画されているが、実際のところ、これまで山口県に原発を建設しようとする動きはいくつもあった。稼働している島根原発と、平林知事(のちに森内閣に入閣)時代に誘致された鳥取県の青谷町・気高町(現・鳥取市)とを除けば、田万川町(現・萩市)、萩市豊北町、そして上関町。これにとどまらず、全国でも反対運動が原発を撥ね退けた事例は少なくない。

共通の記憶とすべき履歴である。

●参照
○長島と祝島 >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク
○角島(豊北町) >> リンク


角島

2011-04-09 01:41:55 | 中国・四国

山口県の北西部に角島がある。豊北町は少し前までは豊浦郡に属していたが、合併により下関市の一部となっている。2000年に島まで架けられた角島大橋は、沖縄県の古宇利大橋ができるまで離島への橋として日本一の長さだった。橋の途中に奇妙な形をした鳩島があり目を奪われる。聞いた話では、橋ができてから便利になったが、知らない人がうろうろするので家に鍵を掛けるようになったのだという。

角島の対岸、本州側には、1970年代後半に原子力発電所建設の計画があった。ところが現地住民たちの反対運動により、計画は撤回となっている。その結果、山口県の北西部から南東部に計画がシフトし、上関町に計画されるに至っている。下の写真も、手前の本州側はひょっとすると田畑でなく原発だったかもしれぬ。


角島大橋と角島を望む Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、何かのカラーネガ

響灘も日本海も碧くとても綺麗な海だ。角島西端に立つ古い角島灯台に登ると、海がよく見える。灯台の建設に使われた石は、瀬戸内海に面した周南市・大津島の花崗岩であるらしい。大津島には人間魚雷「回天」の基地跡があるというが、足を運んだことはない。

灯台の下ではイカを焼いて売っており、その脇では、イカをくるくると電気で回転させながら干している。おそらくは干す効率と虫よけのためなのだろう。はじめて目にする器械で、感心して笑ってしまった。海辺では、女性たちがヒジキを拾っていた。

>> 映像(回転イカ干し器)

●参照
○長島と祝島 >> リンク


山道と火葬場

2011-04-04 00:44:26 | 中国・四国

前回から十年以上経つだろうか、山口の生家の墓参りのため、山道を登った。どこから入るのか忘れていて、携帯で生家に電話しながら特定するなどかつてあり得なかった。歩き始めてみるとすべて思い出してくる。


山道 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100

生家の墓につながる急な上り坂には、コンクリブロックで石段が拵えてある。中学生のころ、これを造る手伝いをしたとばかり記憶していたが、親は、おまえは厭きっぽいからすぐに投げ出したんだよという始末。どうやら私は都合のいいように記憶を捏造していた。


石段 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100

墓の横の石には故人の名前が彫ってある。中には、戦時中に米軍に撃沈された輸送船に乗っていた者も、敗戦直後に旧満州で何者かに殺害された者もいる。7年ほど前、久しぶりに祖母の名が追加された。


墓の横には椿が咲いていた Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100

墓の手前には、昔の火葬場の跡がいまだに残っている。ふたつの石の上に棺を乗せ、下から薪で火を付ける方法である。私の生まれるほんの少し前、1969年に亡くなった曾祖母を荼毘に付したのが最後だったという。


火葬場 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100


長島と祝島

2011-04-01 00:29:38 | 中国・四国

山口県上関町は瀬戸内海に突き出した室津半島の先にあり、さらに上関大橋によって長島とつながっている。山口で生まれ育ちながら、はじめて足を運んだ。上関大橋を渡るとすぐに、竜宮社という小さなお社があって、海に眼をやると、たしかに竜宮につながっているに違いない青さだ。


上関大橋 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP


上関海峡 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP

祝島は長島の先にある。船が出ないかと郵便局で訊ねてみると、もう朝の10時代に出てしまって、次は夕方だと気の毒そうに言われてしまう。鎌仲ひとみさんも、原発反対のために見に来る人が多くて困っていると言っていたし、仕方ないので祝島を眺望できる場所を探すことにした。海沿いの狭いくねくね道をちょっと進んで、煙草を吸っているふたりの男に訊ねてみた。

「・・・ああそれなら上盛山(かみさかりやま)の展望台がいい、ほら山の上に竹林があるだろう、あの辺で方向転換すると辿り着けるよ、中電も反対派も監視してるよ。」(山道しかないのに竹林を見つけられるものか。)

そんなわけで、ガードレールがなく細くて怖い山道を進み(私にはテクがない。運転は父である)、無人の御汗観音というところを拝観したあとで、なんとか着いた。

なるほど、確かによく見渡すことができる。長島の南西端の右側には祝島小祝島、その向こうにはうっすらと大分の国東半島。祝島は火山の噴出によってできた溶岩の島であり、そばの小祝島は休火山である。

原発の建設予定地は祝島ではなく長島の先端部である。ただ、長島の町はその近くではなく、祝島の真ん前にあるというわけである。確かにこの展望台からでも、原発の姿は見えにくいのかもしれない。しかし、この美しい風景を見れば、また、祝島の前にできる建屋の姿を幻視すれば、その是非についての答えは明らかだ。


長島と祝島、小祝島 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP


長島と祝島、小祝島 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP


原発予定地(パンフレット『上関原子力発電所建設計画の概要』より)


展望台にあった地図


上関海峡と上関大橋 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP

また長島の町に戻り、原発の広報施設「海来館(みらいかん)」を覗いた。道沿いには原発反対の看板があった。近くで旨い魚のフライを食べながら窓の外を眺めると、そこからは愛媛の佐田岬がうっすらと見えた。伊方原発がある岬である。


反対看板 デジカメにて


海の向こうにうっすらと佐田岬 デジカメにて

「もしも、計画通りに完成するとすれば、対岸の佐田岬(愛媛県)には、「伊方原発」が建っているので、瀬戸内海を航海する船は、本州と四国との両岸の原発にはさまれた狭い航路を、まるで挟み撃ちにされるようにして通過することになる。いかにも剣呑である。」
「もしも対岸に原発が建設されたら、島の人たちは無気味な原発を押しこんだ、白いコンクリートの塊を朝夕眺めて暮らすことを強制される。3.5キロメートルの海上には、なんの遮断物もない。もしも、原発で事故が発生したとき、祝島は逃げ場のない、人体実験場になってしまう。」
(鎌田慧『原発列島を行く』、集英社新書、2001年)

●参照
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク
○『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ) >> リンク


関門海峡と唐戸市場

2011-03-31 01:30:20 | 中国・四国

山口県下関市と福岡県門司市を隔てる関門海峡、つなぐ関門大橋関門トンネル。トンネルは青函トンネルに抜かれるまで日本一の長さだった。懐かしい風景である。東から向かうと、壇ノ浦を左手に見ながら関門大橋のたもとを過ぎ、やがて唐戸市場に至る。


関門大橋 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP

築地も浦安も愉しいが、唐戸も独特だ。何しろふぐである。午前中、遅めの時間になると、ふぐ雑炊やふぐコロッケやふぐ汁などを食べさせてくれる店が開き、突然一般客で賑わう。もちろんふぐ刺は朝早くから売っている。さざえも目立つ。この界隈で売っているどら焼き、「巌流島」(白餡)と「おそいぞ武蔵」(黒餡)は旨い。


魚市場は愉しい Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP


一休み Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP


いかをさばいてもらう Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、Velvia 100、DP


巌流島

2011-03-28 23:45:22 | 中国・四国

2011年3月、山口県下関市の巌流島。小さな船が数十分おきに唐戸の港から出ている。宮本武蔵佐々木小次郎の決闘(1612年)、アントニオ猪木マサ斉藤の決闘(1987年)という闘いの歴史を刻んでいる島だ。前者の像はあるが猪木の像はないのは残念。

本当の名前は船島という。現在は無人島であり、埋め立てられて元の何倍もの面積になっている。1955年に30軒(または50軒)の家があったが、1973年、最後の老人が島を去ったのだという。対岸には三菱重工の下関造船所が見える。島の中も、公園以外の藪地は重工の土地である。

重そうな椿が綺麗に咲いていた。黄色い花粉が恥も外聞もなく存在をアピールしていた。椿の分厚い葉が小さいころから好きである。


椿 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、何かのカラーネガ


下関の造船所 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、何かのカラーネガ


重工の土地 Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、何かのカラーネガ


小船の窓から Pentax MZ-S、FA★24mmF2.0、何かのカラーネガ


『香月泰男・追憶のシベリア』展

2011-03-26 10:24:56 | 中国・四国

山口県立美術館『香月泰男・追憶のシベリア』展を観た。中学生のころから何度も足を運んだ美術館だが、本当に久しぶりだ。山口市が県庁所在地なのに寂しいのも相変わらず。ここには行くたびに香月泰男の「シベリア・シリーズ」を観ていた。私の父も、かつて大津高校で香月に美術の授業を受けている。

今回は生誕100年の特別展であり、まとまった量が展示されている。なお、同じ山口県の三隅町には香月泰男美術館があるが、「シベリア・シリーズ」を展示することはできないようで、小品が中心である。10年以上前に足を運び、それも良いものだった。

「シベリア・シリーズ」は全て、何かのマテリアルを練り込んだ絵具により、つや消しの黄土色と黒色の世界を形成している。奉天で終戦を迎えた香月は、そのままマイナス35度の極寒のシベリアに収容され、1947年にようやく故郷に帰っている。しかし、厳しく、仲間たちが次々に死んでいく「シベリア」を描くことができるようになったのは、帰ってから10年以上を経てからのことだった。苦しむ男たちの顔、亡骸の顔が骸骨のように彫り込まれ、あるいは浮き出ているイマージュを観ると、それも仕方のないことだったかと思わされる。

人々の顔以外にも印象的な作品がいくつも心に残った。「伐」は伐り株の断面。「荊」は有刺鉄線、冷え切った身体に刺さるようだ。「黒い太陽」、香月はこのような心象で真っ黒な太陽を視ていたのか。そしてたまに黄土色と黒色以外の世界が登場する。「雪山」は白と黒の雪景色、極寒が迫ってくる。「青の太陽」は、黄土色と黒色の世界に現れた青い空、太陽ではなく夜の星々だろうか。

久しぶりに接することができ、本当によかった。立花隆が頻繁にとりあげてはいるが、山口県以外の人たちにもこの世界を見せてほしい。


行友太郎・東琢磨『フードジョッキー』

2010-01-06 00:02:39 | 中国・四国

行友太郎・東琢磨『フードジョッキー その理論と実践』(ひろしま女性学研究所、2009年)。新宿の「模索舎」で何気なく手に取ったら、その場で頭をやられてしまいテイクアウトしてしまった。

別に、サブタイトルにあるような「理論」の本などではない。グルメ本などでもない。生きることは食べること、「生きる」には愉悦も苦悩も誤解も矛盾も無意味も害毒もすべて含まれているから、「食べる」にも愉悦も苦悩も誤解も矛盾も無意味も害毒もすべて含まれている。従って、いわゆるジャンクフードさえ当然のように受け容れている。

ただ、ここでは権力が徹底して拒否されている。レシピなる存在さえ、権力のように感じられてくる。

章ごとに、レシピとは言えないようなレシピが紹介され、BGMも付記され、そして雑談。これがいちいち愉快である。「「明かしえぬ共同体」煮込み」って何だ?「存在者が存在から離脱する鍋」って何だ?

「シャリバリ風貴族鍋、あるいは、万国のマメ、団結して散会せよシチュー」では、オーネット・コールマン『ダンシング・イン・ユア・ヘッド』をBGMに、マメの話を始め、いつの間にかシモの話に突入する。それでも食欲には火がつくばかり。正月明けに体重計に乗って猛省したばかりなのに、これでは困る。

それにしても、広島の「イカ天」や「あぶらかす」のことなど知らなかった。数える位の回数しか行ったことがない場所だが、どうにかして潜入できないものか。とりあえずは、本の最後でポロリと触れてある店がわが家の近くにあるチャンポン屋であることを、とある筋から確認したので、近々また晩飯を食べに行くつもりなのだ。

●参照
東琢磨・編『広島で性暴力を考える』