鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.2月「鶴岡八幡宮~長谷大仏」取材旅行 その3

2009-03-05 06:48:02 | Weblog
日本の文化や文物に造詣の深かったアーネスト・サトウは、さすがに廃仏毀釈による鶴岡八幡宮の変貌を見逃しませんでした。『明治日本旅行案内 東京近郊編』(東洋文庫)でサトウは次のように記しています。「かつて境内に光彩を添えた多くの社殿が、仏教色を帯びていることを理由に一八七0年頃取り払われた。それらの中には実朝が朝鮮から入手したといわれている仏教経典を蔵した転輪蔵を収納する三0フィート平方の建物、「護摩堂」、薬師如来を祀る拝殿、五知如来を祀る二重の塔、一三一六年にさかのぼる鐘の吊るされた鐘楼があった。現在「鳥居」の建っている場所には仁王門が建っていた。そのほかにもいくつかの小さな社殿があった。こうした建築物が取り払われたのは大いに遺憾である。というのもそれらが喪失されたことにともない八幡神社の最も美しい部分も失われてしまったからである。」この部分の「鶴岡八幡宮」についての解説も参考になる。以下の通り。「頼朝が鎌倉の地格をたかめるため京都の石清水八幡宮を当地に遷した神宮寺で、慶応四年の神仏分離令が発布される前までは八幡宮寺と呼ばれる神仏混合の寺社であった。従って境内には護摩堂、輪蔵、薬師堂、仁王門など多くの仏教関係の堂塔が配置されていた。明治三年五月にわずか十日間でこれらの施設が撤去されるとともに、多くの仏像、経典などの寺宝が散逸していった。(以下略)」この解説により仏教色を帯びた堂塔の取り壊しが、明治三年(1870年)の5月に集中的に行われたことがわかります。サトウの書きぶりから考えてみて、サトウはそれらの堂塔が破却される以前の鶴岡八幡宮(八幡宮寺)に来たことがあるようです。明治3年5月よりも以前(幕末か)に訪れたことがあり、明治3年5月の破却以後にもとうぜんに訪れており、その比較の上で、日本の文化・文物を愛したサトウが、客観的な立場から記したのが先に引用した箇所。この『明治日本旅行案内 東京近郊編』で紹介されている鎌倉の寺社は、鶴岡八幡宮のほかに、大塔宮(鎌倉宮のこと)・建長寺・円覚寺・宝戒寺・英勝寺・浄光妙寺・寿福寺・高徳院(大仏があるところ)・長谷寺(長谷観音で有名)・御霊(ごりょう)神社・極楽寺・満福寺です。サトウは、実際にこれらの寺社を自分の足で訪ね、自分の目で見ています。 . . . 本文を読む

2009.2月「鶴岡八幡宮~長谷大仏」取材旅行 その2

2009-03-04 05:39:50 | Weblog
この鶴岡八幡宮一つをとってみても明治初年の廃仏毀釈というものは、かなり激しく行われたものであることがよくわかります。破却された堂塔伽藍がもし残っていたならば、現在の鶴岡八幡宮で見るそれとはかなり異なった景観が見られたはずです。さらに後で調べてみると、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で境内の建物の多くは倒壊し、今の建物の多くは再建されたものであることを知りました(倒壊を免れたのは若宮などごくわずか)。倒壊したのは鶴岡八幡宮ばかりではなく、円覚寺の舎利殿はじめ鎌倉の多くの寺社が倒壊しているのです。もちろん寺社ばかりでなく一般の人家もほとんどが倒壊し、街の端から端までが見通せるほどに瓦礫の山になってしまったのです。鎌倉というと、鎌倉時代以来の寺社建築がそのまま残っているところとの思い込みがあったのですが、実は明治初年の廃仏毀釈や大正末の関東大震災などによって、大きな被害を受けていることを知りました。明治初年に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐が相当に激しいものであったことを実感したのは、実は、この鶴岡八幡宮が初めてではなく、富士山南麓の村山口から富士登山を試みた際に、富士山の周辺を歩いたり調べたりした時にも実感しました。また丹沢の修験道の道の一部を歩いた時もそうでした。富士山や丹沢の峰々の名称は、(ほかの山の場合もそうですが)その周辺の人々からさまざまな名前で呼ばれていたのであって、けっして今の地図帳などに載っている一つの名称で昔から呼ばれていたものではありません。そのさまざまな名前の中でも一般的であった名前は、修験道など山岳仏教の強い影響もあって仏教的な呼び方でした。それが明治以降、廃仏毀釈の影響もあってどんどん抹殺されたり消えていったりしたのです。神仏分離・廃仏毀釈の前までは、鶴岡八幡宮も、富士宮の浅間(せんげん)神社も、村山の浅間神社にしても、神仏習合的な形態をずっと持ち続けてきた神社(全国津々浦々の古くからの神社がそうであったのではないか)でした。鶴岡八幡宮は、明治維新の際に神仏分離令が出されるまでは「鶴岡八幡宮寺」と呼ばれる神仏混合の寺社であったのです。 . . . 本文を読む

2009.2月「鶴岡八幡宮~長谷大仏」取材旅行 その1

2009-03-03 06:14:34 | Weblog
幕末・明治期の横浜居留地在留(商売などで)ないし滞在中(旅行などで)の外国人にとって、1泊ないし2泊ほどの、比較的お手軽な横浜近郊旅行コースは、横浜→金沢→鎌倉→江の島→横浜というものでした。馬を利用すれば、場合によっては日帰りも可能なコースでした。このコースを、私の場合は横浜から、山手の不動坂→根岸→冨岡→金沢→朝比奈の切り通しを経由して鎌倉まで歩いてきたわけですが、前回は六地蔵のところで鎌倉駅へ引き返し、早々と帰途に就きました。というのは、正月も10日以上も過ぎていたのに、鶴岡八幡宮へと続く段葛(だんかずら)やその両側の通り(若宮大路)の歩道が、大勢の参拝客や観光客であふれんばかりであったから。鶴岡八幡宮や長谷大仏では、幕末にフェリーチェ・ベアトが撮影し、明治10年代に臼井秀三郎が撮影した、数枚の写真の撮影地点を確認するのが大きな目的であったのですが、あの混雑では、自由に動き回ることはとうていかなわない。そう判断して、土曜日の早朝、まだ観光客が訪れない時間帯に訪れることにしたのです。自宅を未明に出発し、小田急線の一番電車に乗車し、相模大野経由で藤沢まで。藤沢から久しぶりで「江ノ電」に乗って、鎌倉へと向かいました。以下、その報告です。 . . . 本文を読む