ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

真田道 ・・松代・真田町・上田

2014-06-16 17:24:13 | 日記

真田道


真田町~地蔵峠~松代の道
この道は、真田信之が徳川二代将軍・秀忠から恐れられて,幹線・中山道の要所から外れた松代へ移封された時の、信之以下の真田主従が松代へ移動した道とされています。

ほとんどが山中で、信号はありません。上田・菅平ICで降りて、このルートで松代へ抜けても、ほぼ高速道路と掛かる時間と差異は出ないそうで、地元の抜け道だそうです。ワインディングロードの苦手な方と冬期凍結の危険があるので、注意を・・・      <途中に、水素水の看板がありました。>

この真田街道(=真田道)は、真田家発祥の真田町へ通じます。

真田町の、真田家の旧跡・・・

目的が、真田家旧跡を尋ねる・・・ではない、所謂帰路のルートなので、「信綱寺」のみに寄ってみます。

信綱寺・山門

信綱寺・本堂

信綱の墓を中央に、左信綱夫人、右弟・昌輝

真田信綱は、真田家当主の時、武田勝頼の長篠の合戦に従軍して、弟とともに戦死。家臣が、信綱の首級等を陣羽織に来るんで持ち帰り、埋葬したとのことです。この寺には、その時の、血染めの陣羽織も保存されているようです。信綱は、武田軍団の中でも豪将として名高く、信濃先方衆の筆頭だったといわれています。信綱亡き後の真田家の跡目は、信綱の子息ではなく、勝頼の命で、弟の昌幸が継ぎました。

戦国時代真田家は、勢力の拡大を本拠地真田と菅平周辺から、上州沼田へ求めました。それは、千曲川沿いに、東北信濃の雄、村上一族がおり、村上一族はなかなかの強敵で、進出を拒まれたのだろうと思います。世に名高い”川中島の合戦”は、実は真田と村上の代理戦争で、真田の盟主・武田信玄と村上の盟主・上杉謙信が戦ったのだそうです。

真田家の第二の拠点・沼田と真田町を繋ぐ道路を、通常真田道(=真田街道)と呼ぶようになったといわれています。この街道は、いまではドライブとして人気の高い”日本ロマンティック街道”とほぼ重なっております。

真田道A
真田町~上田
真田家は、戦国の時代まで、真田町を本拠にして、中心は松尾古城でした。長篠の合戦で、兄・信綱が戦死して跡を継いだ真田昌幸は、千曲川沿いの上田へ進出します。真田家が、上田城主であった時代は、従って昌幸が関ヶ原の合戦時に西軍に属した時代と信之が昌幸を継いで、松代へ移封されるまでの間、です。そんなに長くないのに何故か上田は、真田家の町として現代に続いています。

真田道B
真田町~鳥居峠~万騎峠~

真田道C
岩櫃城~中之条~
中之条の先から、渋川へ抜ける道と沼田へ抜ける道が分岐します
真田道は、当然沼田方面への道。

真田道D
~赤根峠~沼田
沼田は、真田家の分領・飛び地があり、城は沼田城です。
沼田支城に名胡桃城(なぐるみじょう)があります。
この二つの城と小田原北条家と真田家の確執は、やがて秀吉の小田原征伐の役へ発展します。

自分の今回の帰路は、松代からの真田道で真田町へ、真田町で、R144(=上田・菅平街道)に通り、上田・菅平ICで高速に入ります。・・・時間が許す時は、浅間山麓を走る、浅間サンルートは、信号の少ない風光明媚な、快適な広域農業道路で、軽井沢追分の堀辰雄記念館の手前で、R18(=旧道)に合流して、軽井沢に行きます


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