ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

真田氏の町 ・・・松代

2014-06-15 18:39:34 | 日記

真田氏の町 ・・・松代

松代城

城門

城内庭園

裏門建物

真田氏の住居

真田家・宝物殿の裏側

 

真田家家臣の屋敷

 

鬼瓦の六文銭

 

松代 ・・こぼれ話

真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は譜代大名待遇であった。理由として、八代藩主真田幸貫が八代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻が徳川家康の養女・・本多忠勝の実娘・・であること等の理由による。
*信之の父・昌幸と弟・幸村は、反徳川として有名。関ヶ原の戦いの時、真田昌幸は、どちらが勝っても、家系が存続するように、兄弟を徳川方と豊臣方に分けたという。
*松代は、今でこそ千曲川の氾濫はないが、真田家統治時代には、度々氾濫で藩財政が困窮したといわれる。真田藩の財政再建を託された、恩田木工の手法は、現在研究されて、評価が高い。恩田に登用された佐久間象山は、改革があまりに急進的すぎて京都で暗殺される。象山の名は、象山の生家の背後の山の象山から付けた号で、この山に”地震研究所”がある。

参考:『日暮硯』

『日暮硯』は、真田幸弘が藩主の時代、松代藩の藩政改革を担った恩田木工民親の業績を記したものである。

江戸時代、『日暮硯』は、改革の成功物語とし写本が流布し、武士や庶民に愛読された。
まさに、藩政改革のマニュアルと呼べるものなのである。

 恩田家は、松代藩の家老の家柄。木工も宝暦四年(1754)、三十代後半の若さで家老職に。この時期の松代藩は、課役や水害など天災で莫大な出費があり、土地も荒廃していた。

このため藩主・真田信安は、藩政改革を断行しょうとしたが、領民や足軽たちの強い抵抗を受けて失脚、改革は無残な失敗に。結果、幕府に莫大な借金をして、松代藩は完全に破産状態に陥った。そこで、藩主・幸弘は、恩田木工を抜擢し、彼に藩政改革を命じる。

木工はまず、大きな2つの決断を下した。

・・「ウソをつかないこと」「いったん命じたことは、決して撤回しないこと」。この2つを貫徹するために命を捨てる覚悟を決め、改革の足手まといの家族や家来を義絶しようとした。
改革にあたって木工は、諸役人と領民すべてに自分の政策を事細かに説明し、彼らの同意を取りつけている。木工が大切にしたのは「信」であった。自分に対する信頼がなければ、人々はついてこないと考えたのだ。同時に自分は粗食に甘んじ、その身を強く律したのだった。
木工の改革は異例であった。一切増税はせず、逆に農民への諸役を廃止し、「今後は年貢の先約や上納金は求めない」と約束、「役人に対する不満を書面にしたためて差し出せ」と申し渡したのである。農民たちは狂喜し、瞬時に改革に協力させる体制をつくり上げることに成功したのだった。
さらに驚くべきは、不正を告発され戦々恐々の悪徳役人たちを自分の同志とした。罪を許されて感謝した彼らは、以後、木工の忠実な手足になり改革に尽力していくことになる。

 ・・いかにすれば部下は動き、仕事が成功するのか――。江戸時代記録でありながら、この本はそうした教訓が数多く含まれている。日暮硯は木工の説話・事跡集。

蛇足・・日暮硯は奈良本辰也の解説が一番読みやすい。


 

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小布施&岩松院

2014-06-15 18:16:40 | 日記

長野道のPA・小布施に入り、下ると「道の駅・オアシスおぶせ」に合流する。ETC車は、ここから出入りできる。

この道の駅は、レストランや美術館を併設していて、かなり美観に気を遣い、公園化している。

 

道の駅・オアシスおぶせ の園内の様子

もう、花の時期が終わっている”山法師”や”さつき”は満開状態・・・、北信濃はまだ夏日には届かないのか・・・

気温の差が、確実に認識できる。

 

公園を散策したあと、岩松院へ

ここでは、戦国武将”福島正則”の墓と一茶の”かえる池”を見る。

正則の廟所

かえる池

かえる合戦
 ○ 痩せガエル 負けるな 一茶ここにあり  ・・一茶

 

小布施は「栗と北斎と花のまち」と言われ、町内には北斎館を中心に美術館や博物館、岩松院等の見所、

栗の方は・・・

栗の和菓子屋・竹風堂、洋菓子では桜井甘精堂・・紅茶とケーキなど、とか”甘党”には垂涎の絶品が・・・栗は”マロン**”とか!。

 

美術館の方は・・・

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○北斎館・・・小布施で描かれた肉筆画、画稿、書簡などを展示しています。----------------
○おぶせミュージアム・中島千波館・・・小布施出身の日本画家、中島千波の作品展示。------

○高井鴻山記念館・・・北斎を小布施に招いた高井鴻山にまつわる資料、作品群が集積。-----
○日本のあかり博物館・・・あかりの歴史。日本のあかりの始まりから電灯が灯るまで。--------
○急須コレクション茶俚庵・・・土蔵を改造して、約150点ほどの急須コレクションが展示。-----
----人間国宝の三代山田常山や、幕末の青木木米の南蛮写しの急須なども!------------
○古陶磁コレクション「了庵」・・・中原了さんが収集した古伊万里や古陶磁が展示。----------
----挽きたてのコーヒーのいただける喫茶室もあり。----------------------------------
○小さな栗の木美術館・・・洲之内徹氏との親交から生まれた個性派コレクション------------
----秀逸の絵画が心に残る美術館。-----------------------------------------------
○おぶせ藤岡牧夫美術館・グレイスフル芸術館・・・雁田山の麓にたたずむ美術館。---------
----北信濃の風景・・ 心がほっとする、どこか懐かしい絵画に包まれます。----------------
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今日は忙しいので割愛・・・

菓子と北斎の天井画と下の二つの美術館は心残り・・・

 

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長野電鉄の廃線・・・

2014-06-15 12:48:12 | 日記

どうもこの歌は、松代駅と長野電鉄が関係しているらしい       ・・・ 松代駅前

汽車ポッポ』(きしゃポッポ)とは富原薫作詞、草川信作曲の日本の童謡である。

草川信は松代町(現・長野市)出身。

その日の午前中、松代にいた。空いた時間の、少し松代の町を彷徨いた。松代は、真田家の町であるとともに佐久間象山の町でもある。白い漆喰の土塀の武家屋敷やお城は、タイムスリップしたように江戸時代に戻るかのようであった。

間違いがあったのでお詫びして訂正します

廃線のなったのは、長野電鉄・屋代線で、長野駅・湯田中駅の長野線は運行中です。

お城の脇に駅舎があった。長野電鉄の松代駅であった。
線路のあった場所は、砂利を敷き詰めて広大な駐車場に変わっている。
衝撃的な風景であった。
長野電鉄(屋代線)は、廃線になっていた。

 

自分が学生であった頃、若者はスキーに憧れた。・・・スキー場が滑降可能になると、上野駅で客車は若者を満杯に詰め、まず長野駅へ運び、長野駅から湯田中まで、長野電鉄でスキー客を運び、そこからスキーのメッカ、志賀高原の各スキー場へ散らばっていった。
その”長野電鉄”は思い出が深い路線・・・

 

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Azur にて

2014-06-15 12:23:33 | 日記

 

Azur にて

6月14日午後・・・軽井沢・「Azur」に立ち寄った。
友人が営業している”喫茶店”である。


「Azur」はフランス語で”青空”とか”蒼天”を意味するらしい。
本人はいたって営業的、商売的でなく、広告的なものは一切出して無く、電話帳にも喫茶店分類に、店名を見つけることが出来ないほど・・。

場所は軽井沢駅を東雲の交差点にむかい、交差点から右に折れて、一つ目の三叉路角・・・

   

 

その時、「草軽電鉄」の話がでて、「じつは、この店”Azur"の前の道が、草軽電鉄の線路であった」という

「草軽電鉄には、乗ったことがあるか」と尋ねたら、・・・

動いている電車には乗ったことが無く、
廃車になった車輌が近くの操車場に貯め置かれていて、
「小さい頃の子供の遊び場だった」という。


  

 

 

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