真田氏の町 ・・・松代
松代城
城門
城内庭園
裏門建物
真田氏の住居
真田家・宝物殿の裏側
真田家家臣の屋敷
鬼瓦の六文銭
松代 ・・こぼれ話
真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は譜代大名待遇であった。理由として、八代藩主真田幸貫が八代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻が徳川家康の養女・・本多忠勝の実娘・・であること等の理由による。
*信之の父・昌幸と弟・幸村は、反徳川として有名。関ヶ原の戦いの時、真田昌幸は、どちらが勝っても、家系が存続するように、兄弟を徳川方と豊臣方に分けたという。
*松代は、今でこそ千曲川の氾濫はないが、真田家統治時代には、度々氾濫で藩財政が困窮したといわれる。真田藩の財政再建を託された、恩田木工の手法は、現在研究されて、評価が高い。恩田に登用された佐久間象山は、改革があまりに急進的すぎて京都で暗殺される。象山の名は、象山の生家の背後の山の象山から付けた号で、この山に”地震研究所”がある。
参考:『日暮硯』
『日暮硯』は、真田幸弘が藩主の時代、松代藩の藩政改革を担った恩田木工民親の業績を記したものである。
江戸時代、『日暮硯』は、改革の成功物語とし写本が流布し、武士や庶民に愛読された。
まさに、藩政改革のマニュアルと呼べるものなのである。
恩田家は、松代藩の家老の家柄。木工も宝暦四年(1754)、三十代後半の若さで家老職に。この時期の松代藩は、課役や水害など天災で莫大な出費があり、土地も荒廃していた。
このため藩主・真田信安は、藩政改革を断行しょうとしたが、領民や足軽たちの強い抵抗を受けて失脚、改革は無残な失敗に。結果、幕府に莫大な借金をして、松代藩は完全に破産状態に陥った。そこで、藩主・幸弘は、恩田木工を抜擢し、彼に藩政改革を命じる。
木工はまず、大きな2つの決断を下した。
・・「ウソをつかないこと」「いったん命じたことは、決して撤回しないこと」。この2つを貫徹するために命を捨てる覚悟を決め、改革の足手まといの家族や家来を義絶しようとした。
改革にあたって木工は、諸役人と領民すべてに自分の政策を事細かに説明し、彼らの同意を取りつけている。木工が大切にしたのは「信」であった。自分に対する信頼がなければ、人々はついてこないと考えたのだ。同時に自分は粗食に甘んじ、その身を強く律したのだった。
木工の改革は異例であった。一切増税はせず、逆に農民への諸役を廃止し、「今後は年貢の先約や上納金は求めない」と約束、「役人に対する不満を書面にしたためて差し出せ」と申し渡したのである。農民たちは狂喜し、瞬時に改革に協力させる体制をつくり上げることに成功したのだった。
さらに驚くべきは、不正を告発され戦々恐々の悪徳役人たちを自分の同志とした。罪を許されて感謝した彼らは、以後、木工の忠実な手足になり改革に尽力していくことになる。
・・いかにすれば部下は動き、仕事が成功するのか――。江戸時代記録でありながら、この本はそうした教訓が数多く含まれている。日暮硯は木工の説話・事跡集。
蛇足・・日暮硯は奈良本辰也の解説が一番読みやすい。