ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

毛呂山のこと

2015-07-04 19:02:51 | 史跡

毛呂山のこと

毛呂山には、毛呂山という山があるのかと思った。
しかし、町内何処を探してもそんな山はない。

毛呂山は、・・・
覚えでは、埼玉医大・国際医療センターのある場所。
お世話になったことがある県内の最先端医療の病院。県内2番目のペット設備、身内がこれで10年ぐらい前診断した

今一つの覚えでは、武者小路実篤の「美しき村」。
大正デモクラシイの白樺派の理想郷。
越辺川と高麗川に挟まれて、北に鳩山町、南に坂戸と日高を隣接する。

越辺川と高麗川の落合(合流点)

合流点の拡大写真

R407を高坂橋で越辺川を越す。この高坂橋の上流・200mぐらいで、高麗川と越辺川は落ち合う。この合流点のことを昔から落合という。
この狭地は扇状に上流に向かって扇を広げて外秩父に突き当たる。
もともとの土壌は関東ローム層だが、外秩父の山岳を水源とする越辺川と高麗川の水脈は、広大な山岳に降った雨量を集合するため、洪水になると氾濫原は広大になった。もっと北に流れる都幾川も、外秩父の山岳を水源にするため、性質はほぼ同じだと見て良い。
標高60mの毛呂山の平坦地は、従って土地が痩せているわけではなく、水田に適した土地になったようである。削られた外秩父の山岳の土砂が堆積したのであろう。

出雲伊波比神社・本殿

昔、‘毛呂一族’がこの地へやって来た。
太宰権帥藤原季仲の子周防前司季清が毛呂郷に移り毛呂冠者を称した。
従って、‘毛呂一族’は藤原氏族だと言われる。
この‘毛呂一族’の氏神が”出雲伊波比神社”で、古式ゆかしい「流鏑馬」で有名な神社である。
 ・・・流鏑馬 本祭り・・11/3の早朝、厳かに大谷木一族(毛呂郷の領主であった毛呂氏の子孫)による神社への参詣が終わると、いよいよ本祭り。午前の「朝的」と午後の「夕的」の二回行われます。常に先頭を走る一の馬は白で源氏、二の馬は紫で藤原氏、三の馬は赤で平氏を表しています。朝的は、三騎が一度ずつ矢を放ち、その後二度ずつムチを持って走ります。・・・ 毛呂山町広報
中世、大谷木氏(毛呂一族の嫡流)は、松山城主・上田氏の配下であったようです。従って、扇谷上杉の陣営。松山城陥落の後は、後北条に靡いたと言われています。

さて、毛呂山の毛呂はどうにか分かったとして、”山”が残ります。
国際医療センター”や”美しき村”のある辺りが”山根村”。外秩父山系の麓の村だから山根なのか??。
昭和14年(1939)4/1 - 毛呂村と山根村が合併し、毛呂山町となる、とあります。その後、大学が点在すする川角村も併合するが、川角の名残の文字は無い

合併の経緯が、なんとなく「とりあえず」感、「便宜」的に思えます。町名の名付けに、熟慮と”ひねり”は感じられません。

周りはほぼ水田の農地です。その中に、大学が幾つかと大病院と駅前にあまり大きくない商店街があります。背後には外秩父山系があります。・・・典型的な日本の里山風景。

武者小路実篤は、この毛呂山の「美しき村」のなにを”理想郷”として求めたのでしょうか。鈍感なせいかあまり見えてきません。

この町は、「美しき村」を観光資源として売り出そうという気もないようです。

美しき村の美しき・・

美しき村美術館

       

我 野菜を愛す

仲良きことは美しき哉

 

こうゆうのも 大正デモクラシー というのかしら




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