ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

三才山 小日向付近 ・・・御射神社

2013-08-22 01:41:42 | 歴史

三才山(ミサヤマ)は松本市と上田市の境に存在する山であり、隣接は美ヶ原である。

所は、松本市の奥・・・

ここへの興味は、三才山の女鳥羽川沿いにある小日向という集落が、この地方の小豪族、小日向氏の住居ではないかという、歴史的な興味からで、あるいは何の関係もない場所かも知れないが、とりあえず訪ねてみようか、という程度であった。痕跡は残っていないかも知れない、と言う不安はあった。

歴史書に、松本に小日向源右衛門があり、高遠の保科正俊の娘が小日向に嫁ぎ、また小日向源右衛門から正俊の嫡男正直のもとへ、側女が来ているという。少し時が立った時、正直の嫡子正光と真田昌幸の娘との夫婦に子がなかった時、跡継ぎ約束で、保科正俊の娘と小日向源右衛門の子の小源太を養子に迎えている。その小日向家の屋敷跡と小日向家の墓でもないかと、当たりをつけて来たのだが・・・・・・さらに欲を言えば、保科正俊の所在不明の墓があるのではないかと・・・・・

ひとえに歴史的興味である。

  これは、三才山トンネルで、有料のトンネル。国道R254・・・

R254は、長い国道。三桁国道としては、R125とともに、首都圏でかなり交通量が多い国道で、走る区間により、違った名前を持っていることでも有名。埼玉県内は川越街道、群馬県では富岡街道、長野県に入ると佐久街道と呼ばれる。国道R18の脇往還でもある。

さらに延長すると松本まで繋がる。昔この道は松本上田往還と呼ばれた。あるいは上田松本往還なのかも知れないが・ 。つづら折りの長い峠道で、難所でもあったという。それが、R254が整備され、三才山にトンネルを掘り、かなり往来がし易くなったという。

聞けば、このルートの所要時間は、高速とほぼ同じ、というではないか。高速の松本市街への入口付近は、常に渋滞している。時間帯により、このルートの方が早く着けそうな気がする。もともと目的地はこのルート沿い、東部湯ノ丸で高速を降り、R254の道をたどる。

三才山トンネルの松本側出口付近が、三才山小日向という地名である。ここが小日向か・・・・・最近松本からのバスも、少し下の稲倉(シナグラ)までで、小日向橋のバス停は、廃線で、バス停を寂しくしている・・・

歴史的な建造物を尋ねると、城跡と神社だという。

 城跡の城の名は、三才山城。城主の名前すら覚束ない。どうも、小笠原氏の出城は砦のようで、あるいは小笠原家臣の赤沢氏の出城であるかも知れない。

       三才山城入口、民家脇の坂道。  城跡の地図

来たついで、と思い、急坂を登ってみたが、途中から獣道みたいになり山中に消えていく・・・これではまずい、と思い、諦めて引き返す。もともと城跡の探索は目的にはないのだ・・・

歴史考察・・・

この三才山小日向地区は、古くは、御射(ミサ)神社の神領の本郷六村の一つとされた地区であるそうだ。後に小笠原家が信濃守護として、伊賀等荘より府中(=松本)に移ってきて、その家中の赤沢氏が稲倉に城を構えて、この小日向を含む本郷六村も領内としたらしい。この赤沢氏は、小笠原家の別流(別家)らしい。そういえば、武士の嗜み、「弓馬の礼法」を作ったとされる小笠原家は、惣領家ととに赤沢家が実務を担当し、ともに、この「弓馬の礼法」を作成し、将軍家及び天皇家に、「礼法」を教授すべく、京に上り、赤沢家はそのまま京に居着いたとされる。あな赤沢家の片割れが、稲倉城の城主だったのかと・・・

さらに、御射神社

   御射神社鳥居・・・

この神社は、秋宮と言うらしい。と言うことは、春宮もあることを意味する。当然秋宮が奥の院と言うことになる。境内を彷徨くと和歌の奉納案内版がある。そこには、和歌とともに詠み人、諏訪社大祝某の記名もある。なるほど、御射神社と諏訪社大祝の二つの確証で、ここは諏訪社・・・、参詣の子供連れに、この神社は諏訪神社ですか、と尋ねたら、「そうらしいが、地元ではないので詳しくは分からない」とのこと。

また、彷徨いていると、老婦人、というか農家のおばさんと話ができた。このおばさんが話し好きな人で、神社近くの人は、比較的新しい移住者で、古くからの人は城山の麓の地区にいるらしい。小日向を名に持つ家は、旧家どころか、どこにもないという。狭い地区なので皆顔見知りだという。また、地区の旧家は、柳沢一族だという。「ほら、あの家も、その家も、あそこも、柳沢・・」という。御射神社の春社は、浅間温泉郷の奥にあるという。古い墓地はどこ・・・には、小日向橋を神社に向かう、橋を越して右手の丘の上・・・行ってみたが、沢山の道祖神の他は、柳沢ばかり・・・小日向はない。

小日方家探索は、むなしい結果に終わる。・・・・・小日向が真田の家臣で、領有地に小日向を見るが、そこではないと思う。・・小日向家が、保科正貞と良好な関係があり、飯野藩近くに移住した可能性はある。・・小日向家が、御射神社の宮司で春社・浅間温泉郷に移る住んだ可能性は・・・課題は残ったが、小日向探索は、ここまで・・・

  ・・御射神社境内1  ・・御射神社境内2

御射神社境内3

 

ミサ山のこと・・・

かって、地図で三才山の文字も見て、”ミサ”やまと読むのだと知って、キリスト教関連の山みたいだと、面白がって、すぐに忘れた。今回に、この付近に来た時、山の名前は直ぐ思い出した。そして、この御射神社に出会う。御射神社の御射の読み方だが、多くは”みしゃ”と読み、”みさ”とも読むらしい。この地の御射神社は、”みさじんじゃ”と呼んでいるという。創建は古いが、資料が無いため、年代は確定できなく不詳とされるが、平安末期の吾妻鏡に浅間社が見えることから、平安かそれ以前よりの存在が予想される。それぞれを勘案してみると、三才山の名は、御射神社のある山から由来し、名前は後付けのように思える。

 ある御射山神社

諏訪大社と御射神社あるいは御射山

御射山は御社山、御斎山、三才山とも、多少ややこしいが同義とされる。それは、諏訪神社の神事、生け贄用の狩りの山を示すとされる。これを表現するのに”射る”を文字に含めた”御射山”が、もっとも神事にふさわしい山の名前のようだが、のちに変化して一般化しても不思議はない。この神事のために、生け贄用に、狩り場で射られる、二つ角の動物は、鹿である。そういえば、諏訪神領の南部奥地にある大鹿村は、いかにも鹿のいそうな村であった。

と、ここまでは、諏訪神社あるいは諏訪大社に関心のある方は、ご存じの基礎的知識の範囲。

神社には、眷属が一対社稜を護るという風習がある。この場合の眷属は、俗に”家来”と訳してもいいが、より正確には家来一属という種族と理解した方がよい。神社を護る眷属に、狼や蛙は希で、その多くは”狛犬”という。御射神社の眷属も、その”狛犬”である。よく見ると、いや、よく見なくても、これは普通の犬ではない。毛がふさふさして、ライオンに似ている。神社の歴史は、紐解くまでもなく、古代から存在している。確認できる”存在”の資料でも、物部守屋の時代からは確かだ。それ以前より日本にライオンがいた痕跡は、嘘でもない。とすれば、ライオンを見た人が、日本に伝えた。それも、神社とか、神道に関わった人が・・・と考えるのが筋道がたっているように思える。他に考えようがあるのだろうか。だが、神社とか神道は、日本独自のとか日本古来のとか、ずっと考えてきた。

”ミサ”、”狛犬の獅子”、”生け贄の神事”、これらの日本の神社に関わることが、何処かの国から来たとすれば、どこの何という宗教なのだろうか、これは興味があるテーマだと思う。ただ、深入りすると出口のない、カオスの沼に溺れてしまいそうな気がするので、そこそこにと肝に銘じて・・・

想像はつくが、まず”生け贄の神事”と”ミサ”という言葉から・・・

旧約聖書では生贄の子羊の血は、イスラエルの民を護り、救うものであった、とあります。それは神の儀式であり、神の食事でもあったようです。この儀式のことを”ミサ”と呼んだらしい。このことを、古代ユダヤ教の解説書から辿ってみると、「古代ユダヤ教には生贄(いけにえ)の風習があったようで、ユダヤ教およびキリスト教の聖典である旧約聖書には、罪を贖(あがな)うために子羊などの生贄を捧げる習慣についての記述が散見されます。たとえば『レビ記』には、”生贄を捧げ、穢れのない子羊の血を振りまく”とあります」。聖杯はこの場合、子羊から出る血を受け止める器で、聖なる儀式に使うための道具で、かなり重要であったようです。日本では、羊がいないため、山野に生息する鹿が代用されたと見るのは、極めて自然な成り行きです。・・・この生け贄儀式は、神の食事儀礼として”ミサ”と呼んだみたいです。

古代ユダヤ教を受け継いだキリスト教・・・参考

罪を贖(あがな)うため儀式は、イエスによって変形されて、キリスト教に受け継がれます。イエスの十字架への磔の刑は、自らを子羊になぞらえての”生け贄”の儀式です。キリスト教において、この「子羊の血」の代わりとなったのがイエス・キリストの血、すなわち赤ワインでした。 最後の晩餐の席で、イエス・キリストはパンを取り、「これがわたしのからだである」といい、杯をとり「これがわたしの血である」といって弟子たちに与えたとされています。キリストは「神の子羊」とも呼ばれるように、人間の罪に対する贖いとして、キリストが未来永劫に生贄の役割を果たすと考えられており、キリスト教徒たちは、穢れのない神の子羊であるイエスの血によって、すべての人間が免罪され得ると考えています。このことを聖体変化とか聖体拝領と呼んだようです。

ただ、この”生け贄”の儀式に、鹿を供物にする日本の神社は、諏訪神社しか確認していません。他の神社がどうなのか、また昔の儀式にはあったのか、興味のあるところですが、今は分かりません。諏訪神社は、かなり原始的な儀式を継承しているのは確かです。

次ぎに、古代ユダヤ教の死生観を見て見ます。

「一般的な宗教に見られる「死後の世界」というものは存在しない。最後の審判の時にすべての魂が復活し、現世で善行を成し遂げた者は永遠の魂を手に入れ、悪行を重ねた者は地獄に落ちると考えられている。」

これは、日本の神道の死生観とかなり類似しています。神道では、死後も”魂”は霊魂として地上に残り、邪気を払って永らえれば、祖霊として存続するとされています。仏教のように、死後の世界があったり、輪廻転生といって「なにかに生まれ変わる」という、死生観はありません

またユダヤ教は、内面的な信仰に頼らず行動・生活や民族を重視し、また唯一の神は遍在すると考える傾向があるため、ユダヤ教の内部にはキリスト教的、またイスラム教的な意味での排他性は存在しない、といわれています。これも、神はみんな仲良し、八百万(やおよろず)の神の、神道に類似している点です。

また、ユダヤ教がイスラエルの地に生まれた宗教と考えるなら、獅子の姿をした狛犬のモデルがライオンであってもおかしくないし、モデルを見てからのデフォルメは納得が出来る事です。

渡来氏族の秦氏(はたのうじ)の一部は、原始キリスト教徒であるという、説があります。この真偽は分かりませんが、日本神道の形成に影響をあたえたという事例は幾つもあります。このブログに秩父地方を回った時の渡来人秦族の末裔を幾つか見ました。神社創建にも関与して事例も確認しています。その時は、ユダヤ教的な習慣まで、見つけることが出来なかったのですが、可能性としてはあります。

これも、真偽が疑われていますが、明治天皇の言葉に次の様な下りがあります。・・・・・「私は天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は、神道である。しかし神道は、本来はユダヤ教である」

 

 後日談:追記
「おびなた」と呼んでいた人のことだろう。とにかくこれが先だということを認識することから、日本の中世史は始まる場合があるようだ。
赤羽記では、「松本の小日向氏」という表現だったと思う。しかし、上記のように、調べればむなしい結果に終わった。
ここで原点に立ち返ると、「おびなた」の当て字は「小日向」の他に「大日向」かもしれない・・更に、松本を、松本周辺と広げると、違った視界が開けてくる。
「しなの」は「信濃」でもあり、「科野」でもあり、「品野」でもあり、、、「ほしな」は「保科」とも「星名」とも書けるのだ。
開けた視界から眺めると、松本近く・・生坂村に、「大日向」氏族があった。この士族は、内部で分裂し、「上杉」支持派と「武田」支持派に分かれた。
そして、「武田」支持派の「大日向」氏は、確かに保科正俊の娘婿であり、ここから養子を迎えているのだった。
 



 

 

 

 

 



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2 コメント

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この話は嫌う人も多いかと思いますが少し。 (やなちゃん)
2018-02-15 22:45:24
少なくとも例の12部族の一部(ひょっとしてエフライム族?)の一部がその
文化継承してきた渡来人(秦氏)によって日本の公家になり、その後
日本のあちこちに散らばって豪族化し、定着して来たんでしょうね。
(※但し、DNA継承とは言っていない。)
http://blog.goo.ne.jp/xenaj/e/de5deda32046b8433190d00517d364ad

私はズバリ稲倉の柳ちゃんですが家紋は武田菱です。
稲倉の実家の墓が面白いです。近代の石塔の後ろに古い磨きの無い石塔、
さらにその奥は山から掘り出して片面だけ平らにした石塔が奥へ何段も続き、
一番奥はもう文字も読めなくなってしまったのに武田菱だけは判別できる石塔があります。
少し行き過ぎなおじさんの宇野さんの神道と儀式「生贄(犠牲)」の話、
https://www.youtube.com/watch?v=we51Td5clMY
元々の神社の鳥居(門)と洗盤の間には生贄を捧げる祭壇があったようですね。

そしてこの「ときどり....さん」の貴重なコメント、
三才 < 御射 < ミサ(生贄)
で理解出来ました。

三才山(ミサヤマ) の意味は 「神社で生贄を捧げた山」だったということ。

?? - 伊深城 - 稲倉城 - 三才山城 - ??
昔はこれらが戦争の伝令拠点になっていたんでしょうね。

川中島の合戦では
- 稲倉城 - 荒神尾城 - 刈谷原城 -
と伝令されたんでしょう。 
(親から武田街道という呼び名も聞いたことがありますが熊も多く凄い道です。)
http://www.hb.pei.jp/shiro/shinano/inagura-jyo/
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補足 (やなちゃん)
2018-02-15 22:50:28
初期は上杉系の赤沢氏が稲倉城城主、その後、武田に敗北し、
「武田信玄は柳沢氏を稲倉の見張り役にしたのでは?」という示唆が親戚からありました。
赤沢氏の後、現在に繋がる柳沢グループが三才山~稲倉に定着したのかもしれません。
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