ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

円阿弥

2015-04-02 19:21:59 | 史跡

円阿弥 
    円阿弥 ・・えんなみ/えんあみ

円阿弥 ・・この地名に興味を抱くのは自分だけだろうか?
この人名のような地名は与野にある。
もとい、現在はさいたま市中央区円阿弥。合併により、味も素っ気も薄らいだ。

 

 

 

 

 

人名と言ったのは、自分の脳に蓄積された貧弱な知識の語彙から拾うと、
観阿弥、世阿弥、音阿弥という室町期の猿楽師、
つまり能を大成し発展させた人物を連想するからに他ならない。
もっとも観阿弥は、本名を服部清次といった。
当時流行していた浄土宗の宗派の法名として観阿弥を名乗ったらしい。
北条時宗が、浄土宗を信仰して、法名を”阿弥陀仏”としたのに習い、
清次は、生前法名を”観世音阿弥陀仏”としたが略されて”観阿弥”となった。
これは”号”である。
俳人である‘芭蕉’が俳号であるなら、画家である‘雪舟’が雅号であるなら、まさに”観阿弥”は能号である。
観阿弥に続いた嫡流の”世阿弥”、”音阿弥”も継承した‘号’を名乗った。
しかし円阿弥は地名である。法名で”円阿弥”を名乗る人物がいたかどうかは、かなり興味深いものがある。
円阿弥は、与野の地籍で、大宮に隣接する。
ここは大宮台地の上にあり、荒川の、古くは入間川の氾濫原河原より標高を高くする。
したがって、古より古代人の住居をもつ生活地であったようだ。
付近は、縄文後期、弥生期の遺跡跡、貝塚が多く発見されている。

御屋敷山

円阿弥の地名が文献に登場するのは、中世の頃 ・・・
円阿弥の中心は、どうも御屋敷山のようだ。
御屋敷山と呼ばれた地は江戸時代初期に伊奈氏によって築かれた陣屋跡とされているが、実際には岩槻城主太田氏により築かれた城館を陣屋として再利用したものだろう。
 ・・・ 岩槻城主太田氏虜の家臣・円阿弥氏が、奉行人として御屋敷山に住んだ、という文章を目にしたのは、円阿弥・日枝神社の由緒からである。
御屋敷山はさいたま市円阿弥の舌状台地斜面に位置し、関東郡代・伊奈半左衛門の陣屋跡と云われている。

円阿弥陣屋

伊奈家三代目・伊奈忠治が、”荒川西遷”の大事業の差配の拠点として、円阿弥の御屋敷山に”陣”を構えたのは確からしい。
伊奈忠治は、関東郡代として赤山に城を構え、赤山道を与野まで引き、その延長線上に、円阿弥陣屋、土屋陣屋を、少し離れて川島に出丸陣屋を作っています。
伊奈家の場合の陣屋は、治水事業の作業の指揮所兼代官・役人の宿泊所の内容で、今で言う飯場も兼ねていたようです。現存する土屋陣屋は、当節の代官・永田氏に払い下げられ、現在に繋がっています。土屋(永田)陣屋屋敷の概容を眺めると、かなり立派な長屋門を持ち、権勢が覗い知ることが出来ます。出丸陣屋の概容も文献から、広大な敷地と屋敷であったと記録(川島町史誌)されています。
資料の少ない円阿弥陣屋も、推して然るべき規模と推察されます。

円阿弥・日枝神社: 円阿弥の鎮守・岩槻城家臣円阿弥氏の郎党・野本氏の勧請?

伊奈家の陣屋は土木作業の飯場?指揮所?

伊奈忠治の荒川西遷の事業のの内容は、まず荒川を、熊谷・久下で締め切ります。水路を開鑿して和田吉野川へ繋げます。和田吉野川は下流の市野川に合流しており、さらに流下して、越辺川を合流した入間川と合流します。和田吉野川以下は既存の水路です。
ここで大工事となるのは、久下の締め切りと吉野川へ繋ぐ開削工事です。さらに、水量の増えた荒川は、そのままでは直ぐに氾濫を起こします。沿岸の堰堤の構築が大工事になります。堰堤の内側の水路の整備が、農作地には絶対不可欠です。上尾、大宮、与野、浦和、戸田、川口の荒川沿いの水田地帯の水路の確保。荒川から取水した鴨川などと、利根川から取水した見沼用水路などがこれに当たります。荒川の西遷は、荒川のみでなく、付帯の水路の工事を含めた総合の治水事業になるわけです。
関東郡代・伊奈家の円阿弥、土屋、出丸の陣屋をみると、同じ方式で、熊谷の久下、吉野川辺りにも、伊奈家の陣屋がありそうです。ありそうですが聞こえてきません。文献に見落としがあるのでしょうか?久下の締め切りは、実行者が忍藩になっていますので、設計と技術指導を伊奈家が行い、忍藩内に、間借りをしたとも考えられます。

円阿弥陣屋の今!
現在、円阿弥陣屋はさいたま市中央区円阿弥の住宅街の中にあります。雑木林の中に遺跡として土塁と空堀が残っていたが、周辺の開発が進み、残念ながら遺構は宅地化により消滅してしまったものもあります。台地の先端部を利用した縄張で規模も案外と大きいもののようです。現在は、雑木林の前に御屋敷山と書かれた木製の札が立てられているが、消滅の危機が迫っている様子。公園化するなどの保存対策が採られていれば良いと思ったが、与野や浦和の再開発は残された僅かの自然も根こそぎ奪ってしまうのでしょうか。

 

綾瀬川沿い・・ :幕藩体制下の幕府直営地からの年貢米の運搬の水路

綾瀬川

 

浦和・イオン付近

草加・市内

草加・古綾瀬川と合流付近

伊奈陣屋の余談


大川戸陣屋屋敷・・埼玉県北葛飾郡松伏町大川戸字新川
 ・・松伏町の北西部。庄内古川と古利根川に挟まれた土地で 、利根川東遷の拠点。
 ・・慶長六年(1600)家康が会津の上杉景勝を討とうと出陣し、石田三成挙兵の報を受け江戸に引き返す途次、伊奈忠次に築かせた陣屋御殿。
 ・・大川戸陣屋御殿、杉浦陣屋 ・伊奈忠次は代官・杉浦定政にその構築を命じ、やがて定政に払い下げた--『杉浦氏文書』 
小菅陣屋・・現東京都葛飾区小菅
 ・・伊奈氏の江戸屋敷・代官をおいた。
 ・・将軍の鷹狩りの「御膳所」に供した場所
  ・・水戸橋付近に河岸あり、 小菅籾藏で綾瀬川で運ばせた米の貯蔵倉庫があった。
蔵前陣屋
・・浅草・墨田川河岸に幕府の米倉があった。御蔵という。江戸の台所としての機能。御蔵の前の地を蔵前といい、米問屋や役人が住んだと言う。
・・伊奈家はここの奉行として、墨田川の河川管理、集荷・貯蔵管理の責任者として陣屋があった。
・・JR浅草橋駅蔵前口降りて、右橋を越して右側川縁。

参考
越谷御殿:越谷市御殿町:徳川家康が鷹狩りのために造営。-伊奈忠次が築・管理。
会田出羽屋敷:越谷市御殿町:家康が鷹狩りのために造営。-伊奈忠次が築・管理。

伊奈陣屋は、前述の3っつと合わせて、六カ所を確認している。
大工事の時、付近に陣屋を建てるのが伊奈流ならばもっとあるのかも知れない。


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