ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

蔵前と伊奈忠次 ・・・地名の裏を覗くと

2014-02-27 23:04:44 | 歴史

蔵前と伊奈忠次

 浅草橋駅前風景・転用 

柳橋に仕事で10年以上通ったことがある。従って、墨田川や浅草橋駅の風景や、人形問屋や玩具問屋など、馴染んで記憶に擦り込まれている。”墨田川の花火”は、同時期に”イベント”があって、その準備に忙殺されて見たことはないが、花火の音だけは、耳に生々しく覚えている。
蔵前や横綱も、柳橋ほどではないが、今でもその輪郭は辿ることが出来るご近所さんだ。横綱は墨田川を挟んだ対岸にあり、横綱では、送別会などに、かっての名横綱の料亭(=”吉葉”)を、何回か使っていた。また蔵前は、かって蔵前国技館があり、大相撲の殿堂であった。蔵前工業学校(・東京工業大学の前身)もあり、ここに吉本明も通っていたらしい。蔵前についての知識はそんな程度であった。

 蔵前国技館・転用

蔵前の地名は、その名前から辿ると早道になり、由来にたどり着く。
・・・蔵前という地名はこの地に江戸幕府の御米蔵(浅草御蔵)があったことに由来する。御蔵は”おくら”と読むらしい。この蔵は幕府が天領他から集めた米を収蔵するためのもので、元和六年(1620)に鳥越神社にあった丘を切り崩し、隅田川を埋め立てなどして造られた。その総敷地面積は36646坪(・・『御府内備考』は27900坪)、東を隅田川、他の南北西の三方を堀で囲み、67棟の蔵があった、という。この蔵の米が旗本・御家人たちの扶持米(・給料)となり、これを管理出納する勘定奉行配下の蔵奉行をはじめ大勢の役人が敷地内や近隣に役宅を与えられ住んでいた。・・御米蔵の西側にある町は江戸時代中期以降蔵前と呼ばれるようになり、多くの米問屋や札差が店を並べ、札差は武士に代わって御米蔵から米の受け取りや運搬・売却を代行した。札差も寛文の頃からこの地域に住むようになった。・・明治元年(1868)、浅草御蔵と蔵奉行以下の役宅地は明治政府が管理する。その後関東大震災によって焼失。昭和九年(1934)、御蔵前片町、福富町、新旅籠町など周辺九つの町を整理統合し蔵前一~三丁目となり、蔵前が正式な町名として使われる。なお、かつての御蔵跡地の南側には国技館(蔵前国技館)が置かれた。・・・

 ・・伊奈忠次・転用

ここまでの蔵前の由来の知識を脳裏に収めると、次はこの”御蔵”の立案と実行は誰なのかと気に掛かる。”御蔵”は、まさに江戸幕府の台所であり、経済の源泉であるからだ。ここには、一人の名前しか浮かばない。

関東郡代頭・伊奈忠次は、川を制する治水の技巧者であり、かつ徳川幕府の天領の統括者であった。天領から生み出される年貢は、彼の作った川のルートで、水運によって江戸に運ばれる。その集積の場所が、この”御蔵”であった。伊奈忠次は、徳川幕府の内では、一官僚に過ぎなかった。しかし百万石を超す天領の総括者は、大名を凌ぎ、大大名と比する権限を有していたことになる。・・・この立案者・実行者が誰か、の裏付けの資料は見つけることができない。しかしこの推論に自信がある。
・・・としたら、伊奈家の江戸屋敷はこの付近と言うことになる。

 ・・墨田川・転用

江戸を流れる神田川は総武線に平行し、墨田川に直角に合流する。そして、神田川は、総武線の駅・浅草橋付近で墨田川に合流。
浅草橋を降りて、神田川を渡りきったところの右手の交番の所と後背地が、伊奈家の江戸屋敷。・・・町の名前は、馬喰町。


面白き神社   ・・鳥越は、蔵前に隣接・・

 鳥越神社・転用

鳥越神社

かつての神社の名前は”白鳥神社”という・・・・・。
・・・鳥越(トリゴエ)神社は、東京都台東区鳥越にある神社。白雉二年(651)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。
・・・祭神・日本武尊が奉祀したのが始まり。・・天児屋根命:武蔵の国司となった藤原氏の祖神として祀ったもの。徳川家康を祀っていた松平神社が震災で焼失、後合祀。



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