ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

新河岸川風景

2015-01-26 18:39:39 | 街 探求!

新河岸川風景

かって、川越の物流は”新河岸川”に支えられていた。
”栗より甘い十三里”の川越芋(さつまいも)も、新河岸川の船運によって江戸へ運ばれていたのだ。

新河岸川

岸辺の、”航海安全”・大杉神社(旧社・現在は改築された新しい神社が鎮座します)

水天宮・座船玉宮・大杉宮、大杉神社由緒

 

明治の頃の川越の様子を知るのに、こんな小説がある。
岡本綺堂 「川越次郎兵衛」
・・・四月の日曜と祭日、二日つづきの休暇を利用して、わたしは友達と二人連れで川越の喜多院の桜を見物して来た。それから一週間ほどの後に半七老人を訪問すると、老人は昔なつかしそうに云った。
 「はあ、川越へお出ででしたか。わたくしも江戸時代に二度行ったことがあります。今はどんなに変りましたかね。御承知でもありましょうが、川越という土地は松平大和守十七万石の城下で、昔からなかなか繁昌の町でした。 おなじ武州の内でも江戸からは相当に離れていて、たしか十三里と覚えていますが、薩摩芋でお馴染があるばかりでなく、江戸との交通は頗る頻繁の土地で、武州川越といえば女子供でも其の名を知っている位でした。あなたはどういう道順でお出でになりました……。ははあ、四谷から甲武鉄道に乗って、国分寺で乗り換えて、所沢や入間川を通って……。成程、陸を行くとそういう事になりましょうね。 江戸時代に川越へ行くには、大抵は船路でした。浅草の花川戸から船に乗って、隅田川から荒川をのぼって川越の新河岸へ着く。それが一昼夜とはかかりませんから、陸を行くよりは遥かに便利で、足弱の女や子供でも殆ど寝ながら行かれるというわけです。そんな関係からでしょうか、江戸の人で川越に親類があるとかいうのはたくさんありました。 例の黒船一件で、今にも江戸で軍が始まるように騒いだ時にも、江戸の町家で年寄りや女子供を川越へ立退かせたのが随分ありました。わたくしが世話になっている家でも隠居の年寄りと子供を川越へ預けるというので、その荷物の宰領や何かで一緒に行ったことがあります。花の頃ではありませんが、喜多院や三芳野天神へも参詣して来ました。今はどうなったか知りませんが、その頃は石原町というところに宿屋がならんでいて、江戸の馬喰町のような姿でした」
 老人の昔話はそれからそれへと続いて、わたし達のようにうっかりと通り過ぎて来た者は、却って老人に教えられることが多かった。 そのうちに、老人はまた話し出した。・・・

聞き慣れない、甲武鉄道なるものがでてくるが、それは後で調べるにして、新河岸川が、川越から浅草・花川戸まで繋がっていたことがよく分かる。それと、川越から、農産物などを川の流れで運んだのは頷けるとして、客船(たぶん屋形船)が川の流れに逆らって、江戸から川越まで人を運んだことが描写されている。これはたぶん”曳舟”のことだろうと当たりをつける。
*甲武鉄道・JR中央線の前身(明治に、内藤新宿--立川を開通した)

 

 

新河岸川の船運の歴史
歴史
寛永十五年(1638)、川越に大火災が起き、喜多院や仙波東照宮も類焼した。この時江戸幕府三代将軍・家光の命により、寺社再建のための資材を江戸から新河岸川を使って運び込んだのが舟運の始まりとされている。・・“知恵伊豆”松平信綱は舟運の活用を積極的に進め、新河岸川に、舟の運行に適するように伊佐沼から水を引き、九十九曲がりと呼ばれる程蛇行させ、水量を保持し舟を運行し易くするなどの改修を行った。この工事を経て、本格的な舟運が行われ始めた。・・これに伴い、川越五河岸(上・下新河岸・扇・寺尾・牛子)をはじめ、下流に福岡・古市場・百目木・伊佐島・蛇木・本河岸・鶉・山下・前河岸・引又・宗岡・宮戸・根岸・新倉河岸といった河岸場が次々に開設された。特に川越五河岸は商都川越の玄関口として、積問屋・回漕問屋や商家が建ち並び、大変な賑わいであったと言われている。舟運路は新河岸から新倉(和光市)で荒川に合流し江戸浅草の「花川戸」に続く三十里(約120㎞)であった。
舟・荷
終着地の浅草花川戸まで一往復7・8日から20日ほどかかる不定期の荷舟や、今日下って明日上がる飛切船など船の速度によって所要日数に違いがある。また載せるもので荷舟や、乗客を主として運ぶ屋形船に分かれていた。使用される舟は底が平らな高瀬舟で、当初は年貢米の輸送を主としたが、時代が進むにつれて人や物資が行き交うようになった。・・柳沢吉保の三富開拓は、舟運の一層の繁栄がもたらされた。九十九曲がり三十里の舟運路を、川越方面からは俵物(米・麦・穀物さつま芋)ソーメンや農産物、木材などを運び、江戸からは肥料類をはじめ、主に日用雑貨を運搬した。*薩摩芋は三芳野の三富・”富の芋”。
鉄道の発達
隆盛を誇った舟運も明治二十八年(1895)に初めて川越、国分寺間に列車が走るようになり(現西武鉄道)、続いて同三十九年(1906)には、これが路面電車に変わり客を運ぶようになった。 このため、鉄道を利用する者が多くなり、次第に舟運利用者は減っていった。 加えて大正三年(1914)に開通した東上線は、新河岸川とほぼ並行に走り、船便は壊滅する。

福岡河岸記念館(旧・福田屋)

福岡河岸記念館、ふじみ野市が管理しています

上・倉、下・水車

福岡河岸と養老橋、対岸には古市場河岸

上流には、もっと河岸があったが、市街地化して、”昔の面影”があまり残っていません

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。