ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

足立野の風景

2015-02-04 23:05:20 | 名勝

足立野の風景

 足立 ・・飛鳥・奈良時代「足立」という地名が記録に残されているのは、735 年が最初で発見された木簡に「武蔵国足立郡」とその名が記されており、「足立」という地名は奈良時代に起源がある古い地名のようです。
起源を辿ると、足立郷の範囲は意外に広く、大宮・上尾・桶川・浦和・川口を含め、現在の都・足立区まで広がっています。
歴史資料を紐解くと、三室の武蔵武芝が、足立郡司を名乗っていたり、鎌倉期に、足立一族の足立遠元という武将が上尾一帯を支配していたことが「平治物語」に書かれたりしています。

それから暫くしてから、江戸の足立郷の千住に足立総鎮守の神社が出来たりして、足立の中心が移動しましたが、つい最近まで大宮近辺は、大きな郡郷の括りで足立と呼ばれていました。・・例:北足立郡伊奈町など。 ・・・足立郡の範囲. 足立郡は、東京府・埼玉県にあった郡。 ... 現在の埼玉県鴻巣市から東京都足立区までの地域で、概ね荒川の左岸(東側)、元荒川と綾瀬川の右岸(西側)にあたるとされる。

浮世絵に描かれた足立野の風景 --

浦和宿 第四

『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望
天保六年(1835)、渓斎英泉 画。
 ・支蘇路(木曽路)ノ驛
 ・浦和宿
 ・浅間山遠望
街道を行くとと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。・・・ただ、かなりディフォルムされていて、位置関係はおかしい。・・・浮世絵は、この様の省略・誇張・変形がよくつかわれる。

英泉の浮世絵は大宮宿の手前にある六国見の立場から高台橋を描いています。

吉敷町の神道小僧と高台橋と刑場
・・さいたま市大宮区北袋町1丁目
左が火の玉不動、右がお女郎地蔵の祠・・ここが高台橋で、かつて刑場があり、長谷川平蔵の出世話として有名な大盗賊神道小僧こと神道徳次郎が、この刑場の露と消えました。
この辺りは大宮原あるいは氷川原と呼ばれる野原だった。推測すると、ここ北袋は木崎の一部・浦和だったらしい。


・・・高台橋のお女郎地蔵
 「昔、大宮宿に柳屋という旅篭屋を兼ねた女郎屋に千鳥、都鳥という美人姉妹いました。姉の千鳥は宿場の材木屋の若旦那と恋仲になり結婚の約束までしましたが、当時悪名高い大泥棒の神道徳次郎が千鳥を見染め、若旦那に嫌がらせを始めました。そして千鳥は自分の為に迷惑はかけられないと進退窮まり高台橋から身を投げてしまいました。それからこの橋付近に人魂が現れるようになり、人々は哀れんで地蔵尊をたてたのがこの女郎地蔵のいわれ」。
・・・火の玉不動
 「この高台橋の火の玉が、哀れな千鳥の人魂かどうか、その正体をつきとめようと、一人の男が、小雨の降るなか松にかくれ出てくるのを待ち構えていました。そして火の玉が出てきたところを無我夢中に斬りつけてみるとキャッと声がして消えてしまい、かわりに物凄い面体の男が立っていました。男はおそるおそる何者だと尋ねてみると「俺は不動明王だ」というので、「それなら剣を持っているはずだ」といえば、「剣はいまお前が斬り落したじゃないか」といって消えてしまったそうです。翌日この話を聞いた人達が、高台橋に行ってみると不動様はにがい顔をしてその手には剣を持っていなかったそうです。それからというものこの不動様を誰いうとなく「火の玉不動」と呼ぶようになったそうです。」

 

大宮宿 第五

『木曾街道 大宮宿 冨士遠景
天保六- 八年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
 ・木曾街道
 ・大宮宿
 ・富士遠景
水ぬるみ、田畑は地色を覗かせ、桜が花をつける早春の郷。
左手には、青面金剛像の彫られた庚申塔と近在の農民の暮らしが描かれる。木鍬を携えて道を行く年老いた農夫と、大きな竹籠を背に付き従って歩く孫であろう幼子である。右手には大宮宿を後にしてなだらかに続く土手を上方(京)へと向かう旅人の様子が描かれている。商いの旅などであれば頓着の無いことが多いようではあるが、土手の上にまで幾人も見られる旅人の往く手には丹沢山地と富士の眺望がひらけている。この風景は、現在、針ヶ谷の大橋陸橋交差点の小堂に納められている庚申塔(東大成の庚申塔)あたりの、かつての様子である。もっとも、土手と田畑の高低差は実際これほどではなく、誇張して描かれている。
・・大宮台地の”はけ”が目立ちます。桜が咲く頃の田園風景が清々しい。

 

上尾宿 第六

『木曾街道 上尾宿 加茂之社
天保六-八年(1835-1837)、渓斎英泉 画
 ・木曾街道
 ・上尾宿
 ・加茂之社
描かれたのは、実りの季節を迎えた神域と農民の働きぶり、そして旅路である。上尾宿と江戸方に一つ手前の宿場である大宮宿との間に位置する加茂神社と加茂宮村が舞台に選ばれた。秋祭りが近いであろう社には何本もの加茂大明神の奉納幟がはためいている。その中の一部に絵の版元「いせり(伊勢利)の宣伝が見えるのは、絵師一流の洒落っ気である。社の前では男二人女二人の農民が唐箕を使って籾の精選に励んでいる。その奥には立場茶屋(天神橋の立場)があり、今しがた茶屋を発った侍と供の二人連れ、一服しようと立ち寄る商人一人が見える。もっとも、実際の立場は、近くはあっても神社と隣接していたわけではなかった。また、街道筋の境内前に出張って唐箕を使うなど、ずいぶんおかしな光景には違いない。つまり、絵師は三つの画題を一画面に詰め込んだのであり、絵画的工夫の結果としてこの図がある。

 *** 中仙道六十九次 浦和宿 大宮宿 上尾宿 三枚の浮世絵は市立博物館所蔵。桜木古木の版木からの多色刷り・複製で、本物と思われます。浮世絵はその性質から本物が複数存在します。紙は高密度の和紙、細川紙かどうか、専門家でないので分かりません。江戸時代、中仙道が、一般呼称としては”木曾街道”(”支蘇路”・宛字)と呼ばれていたことが分かります。この時代の自然への信仰が厚く、”火山”が、愛情と畏敬をもって崇められていたことが見て取れます。


 

加茂神社


京の賀茂別雷神社(上賀茂神社)を勧請した加茂神社は、加茂宮村の鎮守であり、村名の由来にもなった社である。 徳川幕府による文化七年(1810)の創建ともされ、『新篇武蔵風土記』にも「加茂社 加茂宮村の鎮守にして社辺に古杉数林あり 土地のさま 旧社と見ゆれど 勧請の年代詳かならず」と記されている。 なお、加茂神社と加茂宮村およびその周辺地域は、合併による宮原村等の時代を経て、さいたま市北区宮原町に重なる。
・別雷・わけいかずち ・・しばらく”雷”神社と思い込んでいた。雷神社は”菅原道真・神社”のこと。別雷は、雷を分かち、雷は雨を伴うところから、農耕の神とされる。別雷命が、加茂神社主祭神で、加茂明神とも呼ばれる。

加茂神社は、三つの地名を残している。一つは、加茂宮ズバリの地名、二つ目は、隣接は宮原 ・・宮原の宮は氷川神社ではなく加茂神社、三つ目は、鴨川 ・・鴨川は荒川の支流とも入間川の支流とも目されている。

実際の上尾宿は、ここからやや下った所にあった。風景の見せ場として、上尾宿の象徴が加茂神社だったのかも知れないが、定かではない。


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