ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

子の権現

2017-06-06 01:47:25 | 神社・仏閣

子の権現

外秩父丘陵:最高峰・伊豆ヶ岳近く、その寺はあります。
 ・”その寺”は”天龍寺”というが、”寺”というのは正確ではない・
 ・またの名を”子の権現”。”このごんげん”ではなく、”ねのごんげん”という。


 
”子の権現”は、関東平野の西部を潤す2つの河川の水源の源流に位置する。
 ・一つは、名栗川といって入間川上流部(現在は名栗川まで入間川と呼ぶ人もいる)。
 ・いま一つは、高麗川といって越辺川の支流。
 ・この2つの、風光明媚な渓谷をつくりだす山岳のほぼ中央の頂付近・・
 ・つまり、かなり深山幽谷、人里離れた山奥にある”寺”なのです。


水稲の農耕文化が発生して以来、水源には”神宿る”という信仰が生まれました。
  ・もとより、農耕文化の”賜物”は、太陽と水です。
  ・水源のあたりに宿った神を祀って大きな神社がいくつもできました。
    ・三峯神社/・戸隠神社/・穂高神社
    ・諏訪大社の守屋山などは、山自体が”ご神体”です。調べればもっと一杯ありそうです。


 
神仏習合なので、寺か神社かは正確ではないんですが、当代”寺として認識されています。


寺というように登録されたのは明治維新のころかと・、ので、寺ということで進めます。
江戸時代あたりでは、「羽黒末」・と文献に残っていますから、東北羽黒山の修験者の流儀と心得ていますが、
分類を明確にしない宗派は、天台密教と習俗を似せていたため、天台宗の末寺に属すことを決めたようです。
ちなみに、羽黒末の”末”とは、
   出羽国・羽黒山・修験者集団宗派の影響下と読解したのですが、当たっているのかどうか・・

茅葺屋根の頂は”千木”です。神社の様式。

 
・寺は、深山深く山頂近くにあり、従って辿り着くには、難儀な急坂で囲まれています。


・この急坂は、半端ない角度であり、健脚をもって登頂を許される程度であり、
・思うに、この急坂によって鍛えられる足腰が、
   ・この寺の象徴の鉄のわらじ鉄の下駄に繋がったのではないかと、密かに思っています。
   ・この寺のもともとの教義とはあまり関係が見出せません。


   
それにしても、寺を取り巻く杉木立の古木は、美林です。
  名栗は江戸への木材の供給源で、
     ここの材木が、江戸時代に、江戸の家屋を造ったのかと思うと・・・感激です。

ここから約500m下方の参詣道に、鹿の親子・4匹が道を横切りました。鹿は”神への贄”、、なんか神聖な雰囲気を感じました。


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