南朝の道 秋葉街道
南朝の道は宗良親王伝承に繋がる。
南朝の道 秋葉街道 を書くに到った経緯は、保科家が諏訪家や諏訪神党に関わった時代に、信濃武士の在り様は、小笠原守護と諏訪大社の関連の勢力の狭間で性格づけられていると見たからで、ここを素通りしたら、保科も諏訪も小笠原も理解できないと思ったからです。その諏訪は、北条残党の首魁格で、かつ南朝の強力な支持者であり、諏訪と大河原を結ぶ線に、南朝支持豪族が跋扈し、結ぶ線の街道を秋葉街道と言っていた、と言うわけです。
南朝の東日本総司令本部が宗良親王(信濃宮ともいう)を征東大将軍にして設立されて、この一帯が南朝の拠点になったわけです。この研究に携わった市村咸人さんの書物にたどり着くのは、ハードルがけっこう高く、理由は地方自治体の図書館管理ではなく、地方教育会の管理になっていてめんどくさいです。
南朝の道 秋葉街道 2012-11-27 22:54:30 | 歴史
赤石山脈に平行して南北に走る中央構造線、その中央構造線のほぼ上に秋葉街道が走る。この道は、柳田国男が「我々が言うならば寧ろ諏訪路とも、遠山通りとも呼んでみたい」(東国古道記)の記述どうり、諏訪大社(茅野)から高遠・藤沢、長谷を経て分杭峠、大鹿村、遠山、青崩峠を越して、静岡県の秋葉神社(秋葉寺)に通じる。秋葉街道の歴史は、縄文時代からとかなり古い。その証は、諏訪・和田峠に産出する「黒曜石」がこのルートに散見されるところからも見える。
鎌倉・室町時代に入ると天竜川を挟んで平行する三州街道の往来が主流となり、三州街道の飯田・八幡宿が起点となる「繋ぎ秋葉街道」ができ、遠山へ通じ、こちらも秋葉街道と呼ばれるようになる。
だがこの街道は峠難所が数多く、遠州への道であったが、産業交易には不向きで若干の塩などの運搬があったのみと推測される。
秋葉街道、大河原地区、時は南北朝時代、この地は脚光を浴びる事になる。
南朝側、東日本総司令本部が信濃宮を征東大将軍に設立された。信濃宮は宗良親王のことであり、南朝の後醍醐天皇の第五皇子(第三皇子とか第七皇子の説もある)である。
以後30年間この地を拠点に南朝の勢力拡大に活動したという。
宗良親王を整理探求する前に、「ゆきよしさま」伝承を検証したい。
南信濃には秋葉街道で遠州に通じ、古東山道で岐阜・恵那に通じ、古東山道を分かれて、左に豊橋(昔は吉田・伊那街道)、右に足助(三州街道)に通じた。このいずれの街道も、峠が難所であり、伊那谷から北三河、北遠江には「ゆきよしさま」を祀る習俗が広く分布していた。「ゆきよしさま」は山路の神であり、旅人の道中安全を護る守護(=道祖)神であった。・柳田国男「東国古道記」
浪合合戦
浪合合戦(1442)があったのは事実と思われる。
後醍醐天皇の孫の親王が、南朝のために各地を転戦し、勢力衰退で、比較的南朝勢力の残った南信濃と北三河へ向かっていたが、浪合で土豪に襲われて敗北した。
この時に親王は死んだとも言われ、あるいは更に逃避したとも言われる。
この親王の名前が尹良親王と呼ばれ宗良親王の子と言われている。だが母親は誰かで諸説分かれる。
一つは、井伊道政の女(娘)、二つ目は香坂高宗の妹、三つ目は知久敦貞の女(娘)の三説である。別説では母が香坂高宗の妹で、育ての親が知久敦貞の女(娘)という。
この三家とも南朝の有力なサポーターであり、特に香坂家は最有力な宗良親王の忠臣であった。
この時代地方豪族は、中央政府高官、特に天皇家との血縁を強く望み、この高官が地方豪族家に長期滞在をする場合、豪族の親族の娘などを夜伽に供するのは常であったようである。
従って上記の三例とも宗良親王の奥さんの父親、外戚の可能性はある。
異説では、足利直義の子の之義(ユキヨシ)が浪合合戦で戦死した(1396)とあり、「ゆきよしさま」は足利之義であるという信仰に繋がったとある。・・・知久氏伝記(信濃勤王史)
室町幕府の足利尊氏が北朝方だからといって、一族そろって北朝側ではなく南朝支持の足利あった。足利直義は尊氏に離反しており、子の之義も南朝側である。
この地に元々あった「ゆきよしさま」信仰は、南朝の拠点であった南信濃の浪合で、南朝の宮様の敗北を持って伝説伝承化していった。
諏訪神党の知久家は諏訪神族である。浪合合戦に敗れて自害した尹良親王は、育ての母親の家の知久氏に「車の紋の御旗錦の母衣」を贈り、以後知久氏は諏訪一族の証の梶紋から御所車紋にかえたという。
「浪合記」は信憑性が薄いと言われている。事実時代考証など無理があり、合理性に欠ける。これは、浪合合戦に関係した南朝側の生き残りが言い伝えや伝聞をもとに、かなり後年に書き残した戦記ゆえ、と思われる。そこには誇張や記憶違い、聞き違い、言い違い、不都合なことの省略などなどがある。でも、すべてを偽書と片づけないで真実も見たいと思う。特に新田一族や、人名や構成など精度が高そうだが、戦記など、少し雑な気がする。真偽は不明だが、南朝の宮を奉じて奥三河に流れてきた新田一族(世良田)が徳川家康の祖に繋がったという説もある。
南朝の道 秋葉街道 宗良親王 2012-12-04 00:12:58 | 歴史
秋葉街道、時は南北朝時代、大河原地区は脚光を浴びる事になる。
南朝側の東日本総司令本部がこの南信濃の山奥に設立された。宗良親王こと信濃宮を征東大将軍に任命し、東国の南朝側の拠点である。宗良親王は、南朝の後醍醐天皇の皇子(第四とも第五とも第七皇子とも、説はある)である。以後30年間この地を拠点に南朝の勢力拡大に活動したという。
後醍醐天皇は、実に32人の子供がいたといわれる。それと相関して、30人以上の女性と関わったとも言われている。
南北朝になった経緯を簡単におさらいすると、
建武の新政・・1333年
北条得宗家は武士層から支持を失っていた。北条得宗家は大覚寺統と持明院統と相互に皇位を交代させていた。大覚寺統の後醍醐天皇は自己の政策と皇統の一本化を図るため、両統交代を支持する鎌倉幕府の倒幕を計画し、何度かの失敗のあと、足利高氏や新田義貞の味方を得て、鎌倉幕府を倒すことになる。
新政の瓦解
武士の力を嫌った後醍醐天皇は、当然足利尊氏が力を持つことも嫌った。一旦西国へ放逐するが、尊氏が再び九州から攻め上り、入京すると、後醍醐天皇は比叡山に逃避する。各地に北条残党が反抗を開始すると、実際には各地豪族に支持された尊氏は北条残党を駆逐する。それでも尊氏を認めない天皇は反抗するが、敗れて新政は瓦解する。
南北朝
後醍醐天皇は尊氏と和睦して「三種の神器」を渡し、尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し幕府を開く・・北朝・室町幕府。一方吉野に逃れた後醍醐天皇は「三種の神器」は偽物であると主張し、吉野に朝廷を開いた・・南朝。
以後、北朝・南朝の対立時代が始まる。
宗良親王
生涯
後醍醐天皇の皇子として生まれた宗良は、幼少より和歌の道に親しみ、当代一の歌詠みと称せられた。後、妙法院門跡を継ぎ、天台宗座主になるが、後醍醐天皇が南朝をつくると還俗して宗良親王となり、南朝方として活躍するようになる。1338年、南朝勢力拡大のために、伊勢から陸奥(福島県伊達郡霊山町)に船で渡ろうとするが、途中遠江で難破して、井伊谷の井伊道政に身を寄せる。1340年、足利方に井伊城を攻められて落城すると、寺泊(新潟)や放生津(=富山県射水市)などで南朝方で戦い、あと、香坂高宗(大河原、長野県大鹿村)に招かれて、大河原に身を寄せる。以後30年間この地を拠点として、南朝方として各地に転戦することとなる。
この地の利点として、南朝勢力の温存地域で、味方する豪族が諏訪地方や秋葉街道沿いに多く(・・南朝の道)、また味方の遠州の井伊谷の井伊家に通じ、三河の南朝方の味方にも通じていた。事実、劣勢になった南朝の兵(新田一族など)は、大河原に逃げ込むことも多かった。
1351年、正平一統、宗良親王は新田義興とともに、足利尊氏を破り、一時的に鎌倉を占領するが続かず、後に越後で再起するが振るわず、大河原に戻る。1355年、信濃国南朝方、諏訪神党の豪族中心に、桔梗ヶ原(塩尻)で、守護小笠原長基・村上などの北朝と戦うが、敗れて、失意のもとに大河原に帰る。・・桔梗ヶ原の戦い
この戦いのあと、南朝側は諏訪氏、仁科氏などが離反し、停滞・沈静化していく。1369年に関東管領の上杉朝房の攻撃も受けている。南朝の勢力回復ができないまま吉野に戻った宗良親王は、新葉和歌集を編纂したあと、再び香坂高宗のもとに戻ったようである。
個人的見解であるが、宗良親王の大河原での居城は大草城(中川村)であろう、と思っている。当時、高坂高宗の領域は大河原地区と大草地区であり、大草には香坂氏の支城(大草城)があった。宗良親王は、別称信濃宮、香坂宮と呼ばれ、また大草宮と呼ばれた。本人記述の文中に大草の文字が散見される。
大草に隣接する長谷の入野谷が宗良親王の没所の説も支持したい。長谷、常福寺に、文書、16弁菊花の紋章、法名の尊澄法親王の文字の刻まれた無縫塔が発見されている。
宗良親王こと 大草宮戦記 2013-01-04 03:33:58 | 歴史
・・・建武の新政のあと、南信濃の山深き里のあたり、香坂高宗の大河原城があり、彼の領土の端に位置するところに大草城を建てて信濃の宮が住んだという伝承がある。小渋川の川沿いで大河原に通じる道がある。今の中川村である。
延年三年(1338)九月、伊勢から出航した三隻の船のうち、しけで、一番小さい船のみが遠州白羽港(浜松市)に漂着した。この年二度目の浜松である。当時安宅船はまだ無い頃で、それでも2,30人は乗船できたのであろう。他の二隻の船は散り散りになり、一隻は知多の篠島に、もう一隻は伊勢に戻された。宗良親王は、伊勢で還俗したばかりで、天台宗座主の尊澄法親王の名を捨てて宗良親王に替えている。南朝のために働こうと意気軒昂の時である。港に着いたあと、宗良は浜名湖北の三嶽城に入る。南朝側の豪族、井伊道政の城である。
翌年の1339年、武家方の高師康と仁木義長の軍勢が、宮方の三嶽城を攻め、三嶽城が陥落すると、宗良はさらに北の大平城に逃れ、ここで七ヶ月防戦するも耐えられず、流転の戦いの旅に出て行く。この戦いには、北条時行が同行しており、時行はここで分かれて信濃に行き、大徳王寺で南朝側を集め、兵を挙げている。北条時行は先の中先代の乱で敗れたあと伊勢に行き、南朝側につくことを誓っていた。
・・・北条時行を説明すると、建武の新政の時、北条得宗家の高宗は嫡子亀寿丸(後の時行)を諏訪盛高に頼み、盛高は亀寿丸を諏訪に連れ、成年まで隠した。亀寿丸の隠れ家は確定されていないが、現在五カ所が推定されている。1;三義御所平、2;御堂外垣権殿屋敷かくれ久保、3;富県福地時行屋敷、4;四徳小屋、5;大鹿大河原桶谷。そして、建武2年(1335)、北条残党を率いて中先代の乱で挙兵する。
ここで、宗良親王の続きを書く前に、井伊家に触れておく。
井伊谷の井伊城は、現在浜松市北区引佐町井伊谷にある。井伊直政の末裔は、500年余り後の幕末の安政7年(1860)桜田門外で水戸や薩摩藩の脱藩浪士達により殺害された大老で彦根藩主の井伊直弼である。室町・南北朝期に南朝の朝廷を敬って宗良親王を助けた井伊家の末裔が、尊皇を叫ぶ維新の志士に殺害される事になろうとは、歴史の運命の皮肉であろう。
まず、宮方の井伊家は、足利執権の高家に圧迫される。続いては、足利同族の今川家に対立する。この頃、奥三河に拠点を置き、急速に勢力を拡大する松平家に接近し同盟するようになる。ここで奥三河の松平家を簡略に説明すると、宗良親王の子、尹良親王が南朝側として各地を転戦したとき、上野(群馬)の新田一族は、井伊家とともに尹良を護り助けて各地で戦った。新田一族は新田姓とともに世良田姓も多くあった。ともに新田一族である。さらに領国を詳細すると、新田荘は今の太田市の中心部分で、世良田荘は利根川の川沿い部分である。さらに詳しく言えば、源氏の義国流で、渡瀬川を挟んで対岸に、同族の足利家が存在した。新田が兄で足利が弟の分流である。新田が足利の後塵であったのは、最初の後醍醐天皇の北条倒幕の呼びかけに、足利は応じ、新田は躊躇したからである。あとに南朝側に参加した新田一族は、尹良親王が浪合で倒れた(浪合合戦)後、三河に流れて豪族になった。家康に繋がる松平家の源流がこの世良田家である。
井伊家は、松平・徳川家のなかで、各戦に参加し、武闘派として台頭していく。特に、織田・徳川連合軍が武田を破ったとき、信州は織田に、甲斐は徳川に領分され、井伊家は、武田の武闘派残党を組み入れ家臣とした。この武闘派集団の戦い装束は「赤備え」といって赤で統一された物で、「赤備え」もそのまま継承した。この時点から、井伊軍は徳川軍のみならず、豊臣軍までを含め、当代最強と言われる軍団を持つに至る。以後、江戸幕府時代、一貫して老中・大老を歴任して幕末に至るわけである。
井伊家が南信濃と関係する逸話がある。
戦国の頃、井伊家は駿河の今川家に圧迫されていた。形勢は不利で、お家存続の危機を覚えた井伊家は嫡子の亀ノ丞をしばらく隠すことになった。選ばれたのが、南信濃の市田にある松源寺である。松源寺と井伊家の菩提寺の龍澤寺は住職を通して関係が深かった様である。この亀ノ丞は後の井伊直親であり、直親は井伊直政の父である。また、松岡家が武田方として、織田・徳川軍に抵抗したことで改易されそうになったとき、井伊直政は松岡家を助けた。松源寺は松岡家の菩提寺であった為とされる。
さて、宗良親王に戻る。
宗良の生誕から伊勢まで。
応長元年(1311)宗良親王、誕生 後醍醐天皇と大納言二条為世の娘為子との間に誕生。
・・この二条家は和歌の大御所の家系で幼年より歌道に嗜み、文人としての資質を磨いている。
1321年 10歳で妙法院門跡を継ぐ。法名を尊澄法親王(ソンチョウオウシンノウ)とする。
元徳2年(1330)天台宗座主になる。比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のトップ。
・・延暦寺を支える三門跡に、妙法院、梨本、青蓮院がある。また当時比叡山は、最大の僧兵をもち、その数二千とも三千とも言われた。後醍醐天皇は、この僧兵に期待して、自分の子を座主に据えたと言われている。
尊澄法親王のまえ、天台宗座主は尊雲法親王(護良親王)で、彼も又後醍醐天皇の子である。
延暦2年(1337)27歳の時、伊勢で還俗して、宗良親王を名乗る。
・・この頃、北畠親房を理論的リーダーとして、後醍醐の皇子達が伊勢に集結し、また有力な豪族を集め、日本各地に南朝の勢力拡大を目指して、計画し出発してゆく。北条得宗家の遺子の時行も、中先代の乱で敗れた後、伊勢に赴き南朝側で戦に参加している。美濃青野原の戦い、奈良の戦い、天王寺の戦いなどである。
そして、伊勢港出航に繋がり、井伊谷の井伊家の三嶽城に入る。
浜松の大平城を出た後の、各地での転戦の様子は、ほぼ歴史書に無いに等しい。ただ、宗良が歌人であり、各旅先で作った和歌を、かっての和歌仲間と交換したり、親王同士で交換したりしている。後年に書き留めた夥しい和歌を自家選集の「李花集」として編纂していて、その詞書に年代と場所が記されていることが多い。これがかなり参考になるが、編纂が後年で記憶に頼っていることから、若干の年代の狂いがあるようである。
以下、宗良親王の転戦先。
興国元年(1340)駿河の狩野貞長のもとに立ち寄る。貞長の館には興良親王(護良親王の子)が滞在していたので、興良に会うためである。貞長の兵力は小さいのでここを出る。
興国2年(1341)越後寺泊、五十嵐城。宮方に新田氏、小国氏参戦。武家方に上杉氏、吉良氏、信濃の市河氏、中野氏参戦。宮方敗れる。
興国3年(1342)越中奈呉浦(なごのうら、新湊市の海浜部に「奈呉」と称する地区があります)。
宗良はここに2年間滞在したことになっている。豪族名は不明。
興国4年(1343)信濃国、大河原城に入る。香坂高宗の居城である。
この時の宮方は、諏訪氏を中心に佐久・小県の滋野氏、海野氏、弥津氏、望月氏、伊那の香坂氏、中沢氏、藤沢氏、松本の仁科氏、川中島の香坂氏、栗田氏など。一方武家方は、小笠原氏を中心とする飯島氏、片桐氏、大島氏、名子氏、松岡氏、坂西氏などであった。
以後、宗良親王は大河原を拠点として南朝勢力拡大に出陣するようになる。
正平2年(1347年)楠正行が吉野で挙兵する。呼応して宗良は、吉野への合流を目指して、御坂峠を経て木曽から美濃に行くが吉野まで届かず、犬山、鳴海(尾張)を通って、興良親王と合流するために狩野介貞の安倍城に入り、ここで6ヶ月の戦いの後、再び信濃に帰ることになる。その時辿った道は、富士の裾野を回り、甲斐に入り、、釜無川を遡って、台ケ原、白州松原(ともに北杜市白州)をすぎて信濃に入るという道程であった。信濃に入ると、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。
・・・
甲斐 松原諏訪神社 北杜市白州(はくしゅう)町 21.4.8
ここに登場する「松原諏訪神社」は山梨県北杜市に鎮座しています。
征東将軍宗良親王
境内にある案内板です。
祭神 建御名方命
由緒 寛政7年(1795)11月18日再建の棟札が現存する。
其他 白須松原は南北朝時代、征東将軍宗良親五遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~
「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」
白州町教育委員会
・・・
大河原に戻った宗良は、その後大河原に隠棲したわけでないことが詞書きの地名から散見されます。
更級で和歌を作り、姥捨てでも浅間近くでも和歌を作っています。物見遊山でもないことから、多少南朝のために活動していたことが見えます。興国年間から正平初めまで信濃国は穏やかに過ぎます。
正平7年(15352)足利直義と足利家執事の高師直の間に対立が起こり、高師直側に尊氏と足利義詮が付くことによって内訌が始まります。これを観応の擾乱と呼びます。結局足利直義は毒殺されるわけですが、後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇は、この期に乗じて北朝倒幕を企てます。
信濃国大河原にあった宗良親王を、後村上天皇は、征夷大将軍(征東将軍という説もあり)に任じ、南朝側の各豪族に参戦を呼びかけて挙兵し、武蔵野原合戦で勝利するも、小手指原(所沢)で敗北を喫して、宗良親王はまた大河原へ帰ります。村上天皇も山城へ向かうが敗れて賀名生(あのう、奈良五條市)に隠れます。
正平8年(1353)宗良は越後へいって活動します。寺泊か何処かは不明。
また信濃に戻って、最後の合戦の準備をします。宮方は諏訪上社大祝と同族、矢島、武居、上原、金子、知久、仁科、香坂、栗田、三輪の結集です。
正平10年(1355)、桔梗ヶ原(塩尻)の合戦。
小笠原勢は強くて宮方は決定的な敗北をします。敗走で北信を経て越後へ。また正平12年(1357)信濃に戻り諏訪の北野社に寄り、大河原に戻ります。この戦いに期待していた宗良親王は失意します。南朝の勢力回復に諦観したようです。
文中3年(1374)宗良64歳の時、吉野へ帰ります。
だが吉野は顔見知りであった、後村上天皇も、北畠親房も、四条資も、洞院実世もなく未知の顔ばかりであったという。長慶天皇も初対面であり、昔物語や歌会を頻繁に催して過ごしたが、寂しさは消えなかったという。
この間、南朝側の和歌を集めて「新葉和歌集」を編纂し、また自分の書きためた和歌を整理して詞書きをつけて「李花集」を編纂している。これで3年を費やし、天授3年(1377)信濃国大河原に帰る。
以後の消息は不明。
なお、没地は大河原が以前は定説であった。
根拠は三宝院文書という資料に基ずくという。
戦国時代の天文19年、宗詢が文永寺で、宗良親王の和歌を書き写したものの詞書に「大草と申(もうす)山の奥のさとの奥に、大河原と申所にて、むなしくならせ給とそ、あハれなる事共なり」と記され、ここが親王の終焉の地とされています。この宗詢の詞書きも三宝院文書を基にしていると見られます。
昭和15年に、黒河内の溝口(現在伊那市、長谷溝口)より宗良親王に関する遺物と資料が発見されます。これにより、宗良な亡くなった場所がここではないか、と注目され始めます。また、幻の城とされてきた「大徳王寺城」も同時に脚光を浴びてきます。
伊那市教育委員会の資料を以下のそのまま記載します。
常福寺は永禄二年、来芝充胤大和尚を開山とし、高遠町勝間龍勝寺末寺として曹洞宗になる。以来六人の監寺(かんす、住職に替わる)をおき、明治になってから龍勝寺大願守拙大和尚(だいがんしゅせつ)を勧請開山(かんじょうかいさん、師を開山とした)として今日に至り、正住職五代目となる。
以前のことは詳らかではないが、高遠領内寺院開基帳によれば溝口には松風峰大徳王寺と呑海和尚開創による真言宗常福寺の二ケ寺があったと記されている。現在の常福寺はこの二ケ寺を合祀したものと思われる。大徳王寺とは鎌倉時代末期、新田義貞により鎌倉を追われた執権高時の子時行が籠城し、足利尊氏方と四ヶ月に渡り対峙した「大徳王寺城の戦い」(1,340年)として伝わる難攻不落の寺城と言われている。
興国5年(1,344年)信濃国伊那郡大河原(現在の大鹿村)に入り、約30年間にわたりこの地を拠点とした後醍醐天皇第八皇子宗良親王が南朝方諏訪氏と連携をとるため、秋葉街道を通い、当城を利用したとされる。明治の中頃、常福寺領「御山」と呼ばれる小山北側から円形の無縫塔(僧侶の墓塔)が見つかり、これには正面に十六弁菊花御紋章(南朝の紋)と宗良親王法名「尊澄法親王」と刻まれていた。その後昭和6年には当寺位牌堂から新田氏一族の位牌が発見された。昭和15年5月12日、常福寺本堂屋根改修中、屋根裏から僧形座像の木像が落下し、胎内から青銅製の千手観音像とともに、宗良親王終焉の様子と、宗良親王の子尹良親王が当地に御墓を作られ、法像を建立されたこと、親王に随従して山野に戦死した新田一族を弔うことが、大徳王寺住職尊仁によって記された漢文文書が発見された。すなわち「御山」は宗良親王の尊墓であり、この地が宗良親王終焉の地であると考えられている。御尊像はお袈裟から天台宗のものであり、宗良親王は天台宗の座主であったことから、宗良親王像と伝えられる。
大平城が危機に陥っている六月二十四日、時行は信州伊奈谷に旧臣を結集し、大徳王寺城に挙兵した。信濃守護・小笠原貞宗の対応はすばやく、数日にして城を包囲した。苦しい戦いを続ける時行のもとへ、宗良親王が訪れた。援軍を連れて来たわけではない。居城であった大平城が陥落し、保護を求めてきたのである。親王を迎え、城兵の意気は上がった。だが、現実は動かしようもなかった。北朝軍は、大軍をもって城を囲み、隙を見ては攻撃をかけ、時行を確実に追い詰めていったのである。落城が迫っていることを悟った時行は、親王を脱出させた。そして、籠城四ヶ月後の十月二十三日、大徳王寺城は落城した。
尊澄法「宗良親王」御木像
指定 伊那市文化財(有形文化財)
平成3年9月20日
所在地 伊那市長谷溝口
われを世に 在りやと問わば 信濃なる いなと応えよ峯の松風
後醍醐天皇の皇子「宗良親王」は齢十余歳で尊澄と名付け天台坐主となるが、南北朝の争いのため還俗して宗良と名を改め、信濃の国を中心に戦いしかも長く住んでいたので信濃宮とも称せられ、父帝より征東将軍に任ぜられていた。しかし「不知其所終」という悲劇の皇子であった。
昭和15年5月12日、当寺本堂の屋根修理中、屋根裏から大音響とともに厚い煤におおわれた僧形坐像の木像が落下してきた。像の背部には彫り込みがあり、その中から青銅製の千手観音と古文書が現れた。
古文書の終わりの方には、元中8年に至り、尹良親王は大徳王寺に来り、父「宗良親王」のお墓を作られ法像を建立された。法華経を写してお墓に納め、また新田氏一族の菩提を弔うため金2枚をお寺に収め、桃井へ帰られたと記してある。
御尊像が天台坐主であることは、お袈裟からも一目瞭然である。
伊那市教育委員会
御山の遺跡
指定 伊那市文化財(史跡)
昭和49年3月1日
所在地 伊那市長谷溝口
古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。 明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼形の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺の住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。
昭和6年5月20日、郷土史家「唐沢貞次郎」「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に十六弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側側に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。
その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回ねんごろに法要を営んでいる。
御山の遺跡関連資料は常福寺本堂内に展示されている。
伊那市教育委員会
この発見された宗良親王に関して、歴史家の市村咸人氏は年代と資料の紙質などで若干の疑問を呈している。が、概ねこの発見で「大徳王寺城」と「宗良親王の終焉地」の長谷溝口説が有力になりつつあることが確認できる。
さらに、この溝口周辺が宗良親王の知行地の可能性が出てきている。・・資料は確認できていない。
以下は推論である。
宗良親王が「知行地」を持っていたとするならば、大変興味深い。今までの謎の多くが解明できるかもしれない。大草城に拠点を持ち、家族や子を持ち、小笠原守護に対峙して宗良の第一の随臣の桃井宗継の桃井城を前衛に、諏訪族の溝口を右翼に、知久家を左翼に、背後を香坂家に配した布陣の城は強靱であり、30年余の長きにわたり武家方(小笠原守護)に耐えたのは頷ける。また、各地に度々の合戦のため出陣するに都合の良い交通の、連絡にも都合の良い地点でもある。宗良の子の尹良親王が、宗良崩御のあと4年後に大徳王寺で法要し桃井に帰った、とあるが、この時桃井城はまだ健在であったのだろう。この後尹良は桃井宗継を伴って各地を転戦する・・浪合記。諏訪家か諏訪一族の誰かが溝口周辺を、知久家が生田を、香坂家が大草を割譲し、大草を中心に「知行地」か類する「疑似知行地」になった可能性は、かなり高くなる。これを認識すると、後醍醐天皇の他の皇子達と違った宗良像が浮かんでこないだろうか。各地に南朝の勢力拡大のために流転転戦して各豪族の城に入っても、所詮食客であり仮の宿りであろう。各地に出陣し戻り、また出陣しては戻れたのは、大草が、仮ではない拠点であることを本人が自覚していたのではないだろうか。文中3年(1374年)宗良64歳の時、吉野へ行きます。そして、和歌集を二つ編纂した後信濃へ戻ることは、大草か大河原かは別として、ここが自分の「故郷」だということを意識した結果だと思われます。他皇子と比べ長命であったこと、南信濃に30年余居続けたこと、などの疑問が解けた気がします。さらに言えば、知行地、領国の経営とは税の徴収と警察権の行使ですが、戦士の他に行政官が必要になります。この行政官が全員戦地に赴くことは到底考えられないので、宗良亡き後、この文官(行政官)達はこの地に散在して残ったと想像することは極めて当然に思えます。後にこの地に数多く残った伝承が物語っています。
大草、生田、長谷、大河原は宗良親王の歴史の宝庫です。
この地を現在の地名に直せば、中川村、松川町、伊那市長谷、大鹿村になります。
宗良親王が「知行地」を持っていた、とする資料は
「正平より元中年間まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった」・・武家沿革図に基づく説であります。この文章は高遠町誌上巻(P351)にあり、偶然見つけました。南朝年号の正平は1346年から1369年までを指し、元中は1384年から1392年までを指します。宗良親王の没年が元中2年(1386)頃と思われます。
以下、気になっていて解明できていない点を列挙
至徳2年余年(1385)宗良親王崩御 中川村四徳との関係 至徳と四徳の関係
「南ア・赤石岳の大聖寺平」
赤石岳南麓には高貴な方の伝承が多い。南朝の宗良親王は伊那の奥地に幽居したという。また赤石岳北方の大聖寺平は良月親王を埋葬した場所とも伝えている。一説には親王の御守刀の大小(刀)を埋めたから大小寺平であるという人もあるという。そういえば大聖寺平は大小寺平とも書くという。
・・良月親王は宗良の子か?母は?
宗良親王の甲斐より諫訪に入り給ひしは此の道なるべし。次に御所平あり。これまた親王御駐輦所の口は正に其の中央に位す。溝口より東背 ... 然れどもそれを以て親王御終焉の地もまた大河の前望を上蔵の背後より宇津木峠の北方に展開するも可なるべし。
・・宗良親王の住まいと終焉の地は別所、地図上での確認
大徳王寺城址
興国元年(1340、南北朝時代)に、北条時行(鎌倉幕府の執権北条高時の子、南朝側)がこの地に立てこもり、足利氏方の小笠原貞宗(北朝側)と4ヶ月にわたり対峙したと伝えられています。
この城は山を背にし、三方を深い谷に囲まれ、容易に切り崩すことのできない難攻不落の城といわれていたのですが、遂には兵糧が尽き開落し、時行は後方の山中に逃れました。
・・北条時行の終焉の地は?
釜沢から小河内川を上った御所平は親王隠棲の御所と伝え、現在その供養塔である宝篋印塔が残り、「李花集」の詞書に「信濃国大川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりしてすみ侍りける…うんぬん」とあるのは御所近くのことと推定されています。
大河原ノ岳は、西麓信州側の大河原集落からの名前だそうです。南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が、南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂高宗などを従え、しばしば赤石岳山頂に登って、足利氏調伏を祈願したという。
この地区の伝承を複雑にしている原因は、北条得宗家の遺子、時行の遺跡を御所と呼び、宗良親王の遺跡も御所と呼ぶ重複があり、さらに二人ながら同時代の同地区をを生きた足跡であるから、だと思います。
そしてこの時代、信濃では有力領主を四大将と呼び、小笠原、村上、諏訪、木曽がそれにあたり、室町前半・中盤は小笠原・村上と諏訪が、室町後半(戦国期)は諏訪・小笠原・村上と武田が対立し、震源の多くは諏訪神党が中心であった。
諏訪社の守矢文書では、度々「大草香坂」の名が見られます。大河原香坂でないことが気になります。
この項の締めは、幕末の志士、坂本龍馬が好んだという、宗良の和歌(李花集)を載せておきます。
・・「君のため 世のためなにか 惜からん、かぎりある身の いのちなりせば」
大草宮雑記 後書き 2013-01-21 14:38:29 | 歴史
大草宮戦記をアップした後で、消化不良の感を抱いている。すっきりとしない疑問が頭の底に残り、自身に対して納得感が生まれてこない。これでは読まれる方の説得力も無いのだろうと思う。
その一つは、敵対する「小笠原守護」の本拠地の松尾城から距離にして約10Kmに大草・大河原地区はあること。さらに天竜川を挟んで対岸は、当時小笠原の臣の片桐家が存在していること。この時代最大5万人の兵力を動かせる力を持った小笠原守護が、なぜ守護側から地方豪族の香坂・宗良親王を攻めなかったのか、謎であること。
鎌倉時代後期から室町時代前期に小笠原守護の領地の石高は鮮明でないし、半農武士が多い当時は、戦国期の1万石=250人の兵力を保有できるという方程式は成り立たないかもしれないが、それでも不鮮明ながら、直参・旗本・先方衆などは香坂氏を遙かに凌ぐ力だったはずだ。
二つ目は、南朝側の構成に関しての疑問。一概に南朝側と言っても構成は三つの要因を持って成り立つ。香坂家の様に南朝側も宮家を尊ぶ勢力を基にする者と北条残党の勢力拡大・維持を望む諏訪家や北条御家人であった者達・・北条最後の将軍の高行の遺子(次男)時行を象徴に掲げている、さらに新田一族のように幕府側に付き中先代の乱で、北条残党を鎌倉で破り、やがて足利尊氏への対抗から宮方についた者、の混成部隊である。
これは、どう見ても「呉越同舟」であり、「敵の敵は味方」だとする戦略上の方便にしか思えない。この混乱の中に正義は見えてこない。事実、足利尊氏から領土を安堵された地方豪族は、次第に宮方から剥がされてゆく。この様に見ていくと、諏訪神党の、宗良親王に対する立ち位置が鮮明に見えてくる。大徳王寺城の戦いでは諏訪頼継が参戦しているが幼少であることと諏訪上社のみであることが疑問符として認識する点である。この頃、諏訪円忠は足利尊氏に従い政務の中心として信頼を得て、諏訪神社の旧領を戻している。足利幕府との対立軸の一つの経済基盤を回復しているのだ。
三つ目は、北条の遺子、相模次郎こと北条時行が宮方に転じたことも疑問だが、彼の親兄弟を鎌倉で殺害した新田義貞の系譜の新田一族の協力が南北朝期後半より活発化したこと。更に言えば、観応の騒擾以降、足利一族の足利直義の係累が、尊氏との対立から、宮方に参加してくる。この無節操な合流に正義は見えてこず、裏打ちのない勢力争いに過ぎなくなっていく。
小笠原守護の北条残党への対応と、宮方への対応に強弱がある。この強弱を読み解く鍵は、小笠原貞宗がかって宮廷において天皇家に弓馬の礼を伝授して、天皇家に尊愛の情を抱いていたからではないかの説がある・・長谷村誌、この説に賛成である。小笠原一族は信濃守護として武家頭領であるとともに「弓馬の礼」を基とする武家頭領の儀式の宗家でもあった特異な家柄でもある。この弓馬の礼は、奥義を極めて、武家社会における礼式を定め、やがて一家をなして、小笠原四家目(府中・松尾・鈴岡・新たに京都)として京に行き、茶道と花道を加えて「小笠原流家元」となる。
余談だが、小笠原長棟が守護時代に家臣に中島明延がいた。小笠原長棟が引退し家督を長時に相続して2年後中島明延も小笠原家を引退し京に上った。長棟は出家して寺に住み、庭に「牡丹」を育てたという。中島明延は京に隠棲し、日々「茶」を点てたという。時の将軍は、明延のもとに茶を楽しみに通ったという。この話は、しばらく自分の脳裏に焼き付き、小笠原長棟は守護としての武家職務の一方、「礼節の儀」の職務を重んじ、家臣の中島明延に当たらせていたのではないか、と密かに思っている。二人して風流人である。後に、中島明延は茶が因で「茶屋四郎次郎」を号し、子孫が家康を助けて、豪商となった。また文明の頃に、内訌(一族間の下克上の内乱)が小笠原家にもあった。松尾(宗家)、鈴岡、府中(松本)の三家の争いである。小笠原家の文明の内訌は勢力争いの他に、「伝書」の争奪戦の意味もあったという。この伝書は何か?は大いに謎であるが、特異な小笠原宗家を証し立てる書とは、「弓馬の儀式」の礼法書ではないかと想像している。いずれにしても、小笠原家は、他に類を持たない守護であったらしい。
新田一族も数奇な運命を辿った一族で謎な多い。源氏を祖とする兄弟が上野(群馬)に流れ、兄の系譜が新田荘に住み、渡良瀬川を挟んで、弟の系譜が足利に住んだ。後醍醐天皇の命で共に挙兵し、建武の新政を遂げた後袂を分かち、新田一族は上野を追われ、越後を拠点とするも敗走し、南朝宮方の最後の勢力拠点となった信濃の宗良親王のもとに集結するが、ここも敗北する。謎の多い一族である。群馬・太田市中心に研究者も多いと訊く。期待したい。
宗長親王を助けた大河原城主の香坂高宗の香坂家のその後も気になるところだ。事実,大河原の香坂家は歴史書から消えている。中川村誌の気になるところ繋いで想像し物語すると、香坂の領分とした大河原地区は山岳をほとんどとして耕地は極めて少なく、大草は天竜川に面したあたりし平地を有し耕地があり、そこを部奈と福与といった。徐々に疲弊していった香坂家は大草の平坦地に移り住んだ様だ。中川村誌によれば香坂を名乗る農家が数軒存在しているという。
時が移りゆくとき、隣接する河野氏の下でか、直接か、小笠原家に臣下したのだろう。残念なことに、香坂家も知久家も、宗良親王を助けたとする資料を多く持っていない。
南朝の道は宗良親王伝承に繋がる。
南朝の道 秋葉街道 を書くに到った経緯は、保科家が諏訪家や諏訪神党に関わった時代に、信濃武士の在り様は、小笠原守護と諏訪大社の関連の勢力の狭間で性格づけられていると見たからで、ここを素通りしたら、保科も諏訪も小笠原も理解できないと思ったからです。その諏訪は、北条残党の首魁格で、かつ南朝の強力な支持者であり、諏訪と大河原を結ぶ線に、南朝支持豪族が跋扈し、結ぶ線の街道を秋葉街道と言っていた、と言うわけです。
南朝の東日本総司令本部が宗良親王(信濃宮ともいう)を征東大将軍にして設立されて、この一帯が南朝の拠点になったわけです。この研究に携わった市村咸人さんの書物にたどり着くのは、ハードルがけっこう高く、理由は地方自治体の図書館管理ではなく、地方教育会の管理になっていてめんどくさいです。
南朝の道 秋葉街道 2012-11-27 22:54:30 | 歴史
赤石山脈に平行して南北に走る中央構造線、その中央構造線のほぼ上に秋葉街道が走る。この道は、柳田国男が「我々が言うならば寧ろ諏訪路とも、遠山通りとも呼んでみたい」(東国古道記)の記述どうり、諏訪大社(茅野)から高遠・藤沢、長谷を経て分杭峠、大鹿村、遠山、青崩峠を越して、静岡県の秋葉神社(秋葉寺)に通じる。秋葉街道の歴史は、縄文時代からとかなり古い。その証は、諏訪・和田峠に産出する「黒曜石」がこのルートに散見されるところからも見える。
鎌倉・室町時代に入ると天竜川を挟んで平行する三州街道の往来が主流となり、三州街道の飯田・八幡宿が起点となる「繋ぎ秋葉街道」ができ、遠山へ通じ、こちらも秋葉街道と呼ばれるようになる。
だがこの街道は峠難所が数多く、遠州への道であったが、産業交易には不向きで若干の塩などの運搬があったのみと推測される。
秋葉街道、大河原地区、時は南北朝時代、この地は脚光を浴びる事になる。
南朝側、東日本総司令本部が信濃宮を征東大将軍に設立された。信濃宮は宗良親王のことであり、南朝の後醍醐天皇の第五皇子(第三皇子とか第七皇子の説もある)である。
以後30年間この地を拠点に南朝の勢力拡大に活動したという。
宗良親王を整理探求する前に、「ゆきよしさま」伝承を検証したい。
南信濃には秋葉街道で遠州に通じ、古東山道で岐阜・恵那に通じ、古東山道を分かれて、左に豊橋(昔は吉田・伊那街道)、右に足助(三州街道)に通じた。このいずれの街道も、峠が難所であり、伊那谷から北三河、北遠江には「ゆきよしさま」を祀る習俗が広く分布していた。「ゆきよしさま」は山路の神であり、旅人の道中安全を護る守護(=道祖)神であった。・柳田国男「東国古道記」
浪合合戦
浪合合戦(1442)があったのは事実と思われる。
後醍醐天皇の孫の親王が、南朝のために各地を転戦し、勢力衰退で、比較的南朝勢力の残った南信濃と北三河へ向かっていたが、浪合で土豪に襲われて敗北した。
この時に親王は死んだとも言われ、あるいは更に逃避したとも言われる。
この親王の名前が尹良親王と呼ばれ宗良親王の子と言われている。だが母親は誰かで諸説分かれる。
一つは、井伊道政の女(娘)、二つ目は香坂高宗の妹、三つ目は知久敦貞の女(娘)の三説である。別説では母が香坂高宗の妹で、育ての親が知久敦貞の女(娘)という。
この三家とも南朝の有力なサポーターであり、特に香坂家は最有力な宗良親王の忠臣であった。
この時代地方豪族は、中央政府高官、特に天皇家との血縁を強く望み、この高官が地方豪族家に長期滞在をする場合、豪族の親族の娘などを夜伽に供するのは常であったようである。
従って上記の三例とも宗良親王の奥さんの父親、外戚の可能性はある。
異説では、足利直義の子の之義(ユキヨシ)が浪合合戦で戦死した(1396)とあり、「ゆきよしさま」は足利之義であるという信仰に繋がったとある。・・・知久氏伝記(信濃勤王史)
室町幕府の足利尊氏が北朝方だからといって、一族そろって北朝側ではなく南朝支持の足利あった。足利直義は尊氏に離反しており、子の之義も南朝側である。
この地に元々あった「ゆきよしさま」信仰は、南朝の拠点であった南信濃の浪合で、南朝の宮様の敗北を持って伝説伝承化していった。
諏訪神党の知久家は諏訪神族である。浪合合戦に敗れて自害した尹良親王は、育ての母親の家の知久氏に「車の紋の御旗錦の母衣」を贈り、以後知久氏は諏訪一族の証の梶紋から御所車紋にかえたという。
「浪合記」は信憑性が薄いと言われている。事実時代考証など無理があり、合理性に欠ける。これは、浪合合戦に関係した南朝側の生き残りが言い伝えや伝聞をもとに、かなり後年に書き残した戦記ゆえ、と思われる。そこには誇張や記憶違い、聞き違い、言い違い、不都合なことの省略などなどがある。でも、すべてを偽書と片づけないで真実も見たいと思う。特に新田一族や、人名や構成など精度が高そうだが、戦記など、少し雑な気がする。真偽は不明だが、南朝の宮を奉じて奥三河に流れてきた新田一族(世良田)が徳川家康の祖に繋がったという説もある。
南朝の道 秋葉街道 宗良親王 2012-12-04 00:12:58 | 歴史
秋葉街道、時は南北朝時代、大河原地区は脚光を浴びる事になる。
南朝側の東日本総司令本部がこの南信濃の山奥に設立された。宗良親王こと信濃宮を征東大将軍に任命し、東国の南朝側の拠点である。宗良親王は、南朝の後醍醐天皇の皇子(第四とも第五とも第七皇子とも、説はある)である。以後30年間この地を拠点に南朝の勢力拡大に活動したという。
後醍醐天皇は、実に32人の子供がいたといわれる。それと相関して、30人以上の女性と関わったとも言われている。
南北朝になった経緯を簡単におさらいすると、
建武の新政・・1333年
北条得宗家は武士層から支持を失っていた。北条得宗家は大覚寺統と持明院統と相互に皇位を交代させていた。大覚寺統の後醍醐天皇は自己の政策と皇統の一本化を図るため、両統交代を支持する鎌倉幕府の倒幕を計画し、何度かの失敗のあと、足利高氏や新田義貞の味方を得て、鎌倉幕府を倒すことになる。
新政の瓦解
武士の力を嫌った後醍醐天皇は、当然足利尊氏が力を持つことも嫌った。一旦西国へ放逐するが、尊氏が再び九州から攻め上り、入京すると、後醍醐天皇は比叡山に逃避する。各地に北条残党が反抗を開始すると、実際には各地豪族に支持された尊氏は北条残党を駆逐する。それでも尊氏を認めない天皇は反抗するが、敗れて新政は瓦解する。
南北朝
後醍醐天皇は尊氏と和睦して「三種の神器」を渡し、尊氏は持明院統の光明天皇を擁立し幕府を開く・・北朝・室町幕府。一方吉野に逃れた後醍醐天皇は「三種の神器」は偽物であると主張し、吉野に朝廷を開いた・・南朝。
以後、北朝・南朝の対立時代が始まる。
宗良親王
生涯
後醍醐天皇の皇子として生まれた宗良は、幼少より和歌の道に親しみ、当代一の歌詠みと称せられた。後、妙法院門跡を継ぎ、天台宗座主になるが、後醍醐天皇が南朝をつくると還俗して宗良親王となり、南朝方として活躍するようになる。1338年、南朝勢力拡大のために、伊勢から陸奥(福島県伊達郡霊山町)に船で渡ろうとするが、途中遠江で難破して、井伊谷の井伊道政に身を寄せる。1340年、足利方に井伊城を攻められて落城すると、寺泊(新潟)や放生津(=富山県射水市)などで南朝方で戦い、あと、香坂高宗(大河原、長野県大鹿村)に招かれて、大河原に身を寄せる。以後30年間この地を拠点として、南朝方として各地に転戦することとなる。
この地の利点として、南朝勢力の温存地域で、味方する豪族が諏訪地方や秋葉街道沿いに多く(・・南朝の道)、また味方の遠州の井伊谷の井伊家に通じ、三河の南朝方の味方にも通じていた。事実、劣勢になった南朝の兵(新田一族など)は、大河原に逃げ込むことも多かった。
1351年、正平一統、宗良親王は新田義興とともに、足利尊氏を破り、一時的に鎌倉を占領するが続かず、後に越後で再起するが振るわず、大河原に戻る。1355年、信濃国南朝方、諏訪神党の豪族中心に、桔梗ヶ原(塩尻)で、守護小笠原長基・村上などの北朝と戦うが、敗れて、失意のもとに大河原に帰る。・・桔梗ヶ原の戦い
この戦いのあと、南朝側は諏訪氏、仁科氏などが離反し、停滞・沈静化していく。1369年に関東管領の上杉朝房の攻撃も受けている。南朝の勢力回復ができないまま吉野に戻った宗良親王は、新葉和歌集を編纂したあと、再び香坂高宗のもとに戻ったようである。
個人的見解であるが、宗良親王の大河原での居城は大草城(中川村)であろう、と思っている。当時、高坂高宗の領域は大河原地区と大草地区であり、大草には香坂氏の支城(大草城)があった。宗良親王は、別称信濃宮、香坂宮と呼ばれ、また大草宮と呼ばれた。本人記述の文中に大草の文字が散見される。
大草に隣接する長谷の入野谷が宗良親王の没所の説も支持したい。長谷、常福寺に、文書、16弁菊花の紋章、法名の尊澄法親王の文字の刻まれた無縫塔が発見されている。
宗良親王こと 大草宮戦記 2013-01-04 03:33:58 | 歴史
・・・建武の新政のあと、南信濃の山深き里のあたり、香坂高宗の大河原城があり、彼の領土の端に位置するところに大草城を建てて信濃の宮が住んだという伝承がある。小渋川の川沿いで大河原に通じる道がある。今の中川村である。
延年三年(1338)九月、伊勢から出航した三隻の船のうち、しけで、一番小さい船のみが遠州白羽港(浜松市)に漂着した。この年二度目の浜松である。当時安宅船はまだ無い頃で、それでも2,30人は乗船できたのであろう。他の二隻の船は散り散りになり、一隻は知多の篠島に、もう一隻は伊勢に戻された。宗良親王は、伊勢で還俗したばかりで、天台宗座主の尊澄法親王の名を捨てて宗良親王に替えている。南朝のために働こうと意気軒昂の時である。港に着いたあと、宗良は浜名湖北の三嶽城に入る。南朝側の豪族、井伊道政の城である。
翌年の1339年、武家方の高師康と仁木義長の軍勢が、宮方の三嶽城を攻め、三嶽城が陥落すると、宗良はさらに北の大平城に逃れ、ここで七ヶ月防戦するも耐えられず、流転の戦いの旅に出て行く。この戦いには、北条時行が同行しており、時行はここで分かれて信濃に行き、大徳王寺で南朝側を集め、兵を挙げている。北条時行は先の中先代の乱で敗れたあと伊勢に行き、南朝側につくことを誓っていた。
・・・北条時行を説明すると、建武の新政の時、北条得宗家の高宗は嫡子亀寿丸(後の時行)を諏訪盛高に頼み、盛高は亀寿丸を諏訪に連れ、成年まで隠した。亀寿丸の隠れ家は確定されていないが、現在五カ所が推定されている。1;三義御所平、2;御堂外垣権殿屋敷かくれ久保、3;富県福地時行屋敷、4;四徳小屋、5;大鹿大河原桶谷。そして、建武2年(1335)、北条残党を率いて中先代の乱で挙兵する。
ここで、宗良親王の続きを書く前に、井伊家に触れておく。
井伊谷の井伊城は、現在浜松市北区引佐町井伊谷にある。井伊直政の末裔は、500年余り後の幕末の安政7年(1860)桜田門外で水戸や薩摩藩の脱藩浪士達により殺害された大老で彦根藩主の井伊直弼である。室町・南北朝期に南朝の朝廷を敬って宗良親王を助けた井伊家の末裔が、尊皇を叫ぶ維新の志士に殺害される事になろうとは、歴史の運命の皮肉であろう。
まず、宮方の井伊家は、足利執権の高家に圧迫される。続いては、足利同族の今川家に対立する。この頃、奥三河に拠点を置き、急速に勢力を拡大する松平家に接近し同盟するようになる。ここで奥三河の松平家を簡略に説明すると、宗良親王の子、尹良親王が南朝側として各地を転戦したとき、上野(群馬)の新田一族は、井伊家とともに尹良を護り助けて各地で戦った。新田一族は新田姓とともに世良田姓も多くあった。ともに新田一族である。さらに領国を詳細すると、新田荘は今の太田市の中心部分で、世良田荘は利根川の川沿い部分である。さらに詳しく言えば、源氏の義国流で、渡瀬川を挟んで対岸に、同族の足利家が存在した。新田が兄で足利が弟の分流である。新田が足利の後塵であったのは、最初の後醍醐天皇の北条倒幕の呼びかけに、足利は応じ、新田は躊躇したからである。あとに南朝側に参加した新田一族は、尹良親王が浪合で倒れた(浪合合戦)後、三河に流れて豪族になった。家康に繋がる松平家の源流がこの世良田家である。
井伊家は、松平・徳川家のなかで、各戦に参加し、武闘派として台頭していく。特に、織田・徳川連合軍が武田を破ったとき、信州は織田に、甲斐は徳川に領分され、井伊家は、武田の武闘派残党を組み入れ家臣とした。この武闘派集団の戦い装束は「赤備え」といって赤で統一された物で、「赤備え」もそのまま継承した。この時点から、井伊軍は徳川軍のみならず、豊臣軍までを含め、当代最強と言われる軍団を持つに至る。以後、江戸幕府時代、一貫して老中・大老を歴任して幕末に至るわけである。
井伊家が南信濃と関係する逸話がある。
戦国の頃、井伊家は駿河の今川家に圧迫されていた。形勢は不利で、お家存続の危機を覚えた井伊家は嫡子の亀ノ丞をしばらく隠すことになった。選ばれたのが、南信濃の市田にある松源寺である。松源寺と井伊家の菩提寺の龍澤寺は住職を通して関係が深かった様である。この亀ノ丞は後の井伊直親であり、直親は井伊直政の父である。また、松岡家が武田方として、織田・徳川軍に抵抗したことで改易されそうになったとき、井伊直政は松岡家を助けた。松源寺は松岡家の菩提寺であった為とされる。
さて、宗良親王に戻る。
宗良の生誕から伊勢まで。
応長元年(1311)宗良親王、誕生 後醍醐天皇と大納言二条為世の娘為子との間に誕生。
・・この二条家は和歌の大御所の家系で幼年より歌道に嗜み、文人としての資質を磨いている。
1321年 10歳で妙法院門跡を継ぐ。法名を尊澄法親王(ソンチョウオウシンノウ)とする。
元徳2年(1330)天台宗座主になる。比叡山延暦寺を総本山とする天台宗のトップ。
・・延暦寺を支える三門跡に、妙法院、梨本、青蓮院がある。また当時比叡山は、最大の僧兵をもち、その数二千とも三千とも言われた。後醍醐天皇は、この僧兵に期待して、自分の子を座主に据えたと言われている。
尊澄法親王のまえ、天台宗座主は尊雲法親王(護良親王)で、彼も又後醍醐天皇の子である。
延暦2年(1337)27歳の時、伊勢で還俗して、宗良親王を名乗る。
・・この頃、北畠親房を理論的リーダーとして、後醍醐の皇子達が伊勢に集結し、また有力な豪族を集め、日本各地に南朝の勢力拡大を目指して、計画し出発してゆく。北条得宗家の遺子の時行も、中先代の乱で敗れた後、伊勢に赴き南朝側で戦に参加している。美濃青野原の戦い、奈良の戦い、天王寺の戦いなどである。
そして、伊勢港出航に繋がり、井伊谷の井伊家の三嶽城に入る。
浜松の大平城を出た後の、各地での転戦の様子は、ほぼ歴史書に無いに等しい。ただ、宗良が歌人であり、各旅先で作った和歌を、かっての和歌仲間と交換したり、親王同士で交換したりしている。後年に書き留めた夥しい和歌を自家選集の「李花集」として編纂していて、その詞書に年代と場所が記されていることが多い。これがかなり参考になるが、編纂が後年で記憶に頼っていることから、若干の年代の狂いがあるようである。
以下、宗良親王の転戦先。
興国元年(1340)駿河の狩野貞長のもとに立ち寄る。貞長の館には興良親王(護良親王の子)が滞在していたので、興良に会うためである。貞長の兵力は小さいのでここを出る。
興国2年(1341)越後寺泊、五十嵐城。宮方に新田氏、小国氏参戦。武家方に上杉氏、吉良氏、信濃の市河氏、中野氏参戦。宮方敗れる。
興国3年(1342)越中奈呉浦(なごのうら、新湊市の海浜部に「奈呉」と称する地区があります)。
宗良はここに2年間滞在したことになっている。豪族名は不明。
興国4年(1343)信濃国、大河原城に入る。香坂高宗の居城である。
この時の宮方は、諏訪氏を中心に佐久・小県の滋野氏、海野氏、弥津氏、望月氏、伊那の香坂氏、中沢氏、藤沢氏、松本の仁科氏、川中島の香坂氏、栗田氏など。一方武家方は、小笠原氏を中心とする飯島氏、片桐氏、大島氏、名子氏、松岡氏、坂西氏などであった。
以後、宗良親王は大河原を拠点として南朝勢力拡大に出陣するようになる。
正平2年(1347年)楠正行が吉野で挙兵する。呼応して宗良は、吉野への合流を目指して、御坂峠を経て木曽から美濃に行くが吉野まで届かず、犬山、鳴海(尾張)を通って、興良親王と合流するために狩野介貞の安倍城に入り、ここで6ヶ月の戦いの後、再び信濃に帰ることになる。その時辿った道は、富士の裾野を回り、甲斐に入り、、釜無川を遡って、台ケ原、白州松原(ともに北杜市白州)をすぎて信濃に入るという道程であった。信濃に入ると、富士見から左折し入笠山をこえて伊那谷へ、溝口、市瀬より大河原へ至るルートを取ったとされる。この時に入笠山近辺を支配して宮方だった領主が保科氏であり、宗良親王は保科氏を頼ったとあります。
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甲斐 松原諏訪神社 北杜市白州(はくしゅう)町 21.4.8
ここに登場する「松原諏訪神社」は山梨県北杜市に鎮座しています。
征東将軍宗良親王
境内にある案内板です。
祭神 建御名方命
由緒 寛政7年(1795)11月18日再建の棟札が現存する。
其他 白須松原は南北朝時代、征東将軍宗良親五遠州井伊谷より信濃の保科氏をたよっ山伏姿に変装しこの松原にしばし休まれた。
~御歌~
「かりそめの行かひぢとは ききしかど いざやしらすの まつ人もなし」
白州町教育委員会
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大河原に戻った宗良は、その後大河原に隠棲したわけでないことが詞書きの地名から散見されます。
更級で和歌を作り、姥捨てでも浅間近くでも和歌を作っています。物見遊山でもないことから、多少南朝のために活動していたことが見えます。興国年間から正平初めまで信濃国は穏やかに過ぎます。
正平7年(15352)足利直義と足利家執事の高師直の間に対立が起こり、高師直側に尊氏と足利義詮が付くことによって内訌が始まります。これを観応の擾乱と呼びます。結局足利直義は毒殺されるわけですが、後醍醐天皇の後を継いだ後村上天皇は、この期に乗じて北朝倒幕を企てます。
信濃国大河原にあった宗良親王を、後村上天皇は、征夷大将軍(征東将軍という説もあり)に任じ、南朝側の各豪族に参戦を呼びかけて挙兵し、武蔵野原合戦で勝利するも、小手指原(所沢)で敗北を喫して、宗良親王はまた大河原へ帰ります。村上天皇も山城へ向かうが敗れて賀名生(あのう、奈良五條市)に隠れます。
正平8年(1353)宗良は越後へいって活動します。寺泊か何処かは不明。
また信濃に戻って、最後の合戦の準備をします。宮方は諏訪上社大祝と同族、矢島、武居、上原、金子、知久、仁科、香坂、栗田、三輪の結集です。
正平10年(1355)、桔梗ヶ原(塩尻)の合戦。
小笠原勢は強くて宮方は決定的な敗北をします。敗走で北信を経て越後へ。また正平12年(1357)信濃に戻り諏訪の北野社に寄り、大河原に戻ります。この戦いに期待していた宗良親王は失意します。南朝の勢力回復に諦観したようです。
文中3年(1374)宗良64歳の時、吉野へ帰ります。
だが吉野は顔見知りであった、後村上天皇も、北畠親房も、四条資も、洞院実世もなく未知の顔ばかりであったという。長慶天皇も初対面であり、昔物語や歌会を頻繁に催して過ごしたが、寂しさは消えなかったという。
この間、南朝側の和歌を集めて「新葉和歌集」を編纂し、また自分の書きためた和歌を整理して詞書きをつけて「李花集」を編纂している。これで3年を費やし、天授3年(1377)信濃国大河原に帰る。
以後の消息は不明。
なお、没地は大河原が以前は定説であった。
根拠は三宝院文書という資料に基ずくという。
戦国時代の天文19年、宗詢が文永寺で、宗良親王の和歌を書き写したものの詞書に「大草と申(もうす)山の奥のさとの奥に、大河原と申所にて、むなしくならせ給とそ、あハれなる事共なり」と記され、ここが親王の終焉の地とされています。この宗詢の詞書きも三宝院文書を基にしていると見られます。
昭和15年に、黒河内の溝口(現在伊那市、長谷溝口)より宗良親王に関する遺物と資料が発見されます。これにより、宗良な亡くなった場所がここではないか、と注目され始めます。また、幻の城とされてきた「大徳王寺城」も同時に脚光を浴びてきます。
伊那市教育委員会の資料を以下のそのまま記載します。
常福寺は永禄二年、来芝充胤大和尚を開山とし、高遠町勝間龍勝寺末寺として曹洞宗になる。以来六人の監寺(かんす、住職に替わる)をおき、明治になってから龍勝寺大願守拙大和尚(だいがんしゅせつ)を勧請開山(かんじょうかいさん、師を開山とした)として今日に至り、正住職五代目となる。
以前のことは詳らかではないが、高遠領内寺院開基帳によれば溝口には松風峰大徳王寺と呑海和尚開創による真言宗常福寺の二ケ寺があったと記されている。現在の常福寺はこの二ケ寺を合祀したものと思われる。大徳王寺とは鎌倉時代末期、新田義貞により鎌倉を追われた執権高時の子時行が籠城し、足利尊氏方と四ヶ月に渡り対峙した「大徳王寺城の戦い」(1,340年)として伝わる難攻不落の寺城と言われている。
興国5年(1,344年)信濃国伊那郡大河原(現在の大鹿村)に入り、約30年間にわたりこの地を拠点とした後醍醐天皇第八皇子宗良親王が南朝方諏訪氏と連携をとるため、秋葉街道を通い、当城を利用したとされる。明治の中頃、常福寺領「御山」と呼ばれる小山北側から円形の無縫塔(僧侶の墓塔)が見つかり、これには正面に十六弁菊花御紋章(南朝の紋)と宗良親王法名「尊澄法親王」と刻まれていた。その後昭和6年には当寺位牌堂から新田氏一族の位牌が発見された。昭和15年5月12日、常福寺本堂屋根改修中、屋根裏から僧形座像の木像が落下し、胎内から青銅製の千手観音像とともに、宗良親王終焉の様子と、宗良親王の子尹良親王が当地に御墓を作られ、法像を建立されたこと、親王に随従して山野に戦死した新田一族を弔うことが、大徳王寺住職尊仁によって記された漢文文書が発見された。すなわち「御山」は宗良親王の尊墓であり、この地が宗良親王終焉の地であると考えられている。御尊像はお袈裟から天台宗のものであり、宗良親王は天台宗の座主であったことから、宗良親王像と伝えられる。
大平城が危機に陥っている六月二十四日、時行は信州伊奈谷に旧臣を結集し、大徳王寺城に挙兵した。信濃守護・小笠原貞宗の対応はすばやく、数日にして城を包囲した。苦しい戦いを続ける時行のもとへ、宗良親王が訪れた。援軍を連れて来たわけではない。居城であった大平城が陥落し、保護を求めてきたのである。親王を迎え、城兵の意気は上がった。だが、現実は動かしようもなかった。北朝軍は、大軍をもって城を囲み、隙を見ては攻撃をかけ、時行を確実に追い詰めていったのである。落城が迫っていることを悟った時行は、親王を脱出させた。そして、籠城四ヶ月後の十月二十三日、大徳王寺城は落城した。
尊澄法「宗良親王」御木像
指定 伊那市文化財(有形文化財)
平成3年9月20日
所在地 伊那市長谷溝口
われを世に 在りやと問わば 信濃なる いなと応えよ峯の松風
後醍醐天皇の皇子「宗良親王」は齢十余歳で尊澄と名付け天台坐主となるが、南北朝の争いのため還俗して宗良と名を改め、信濃の国を中心に戦いしかも長く住んでいたので信濃宮とも称せられ、父帝より征東将軍に任ぜられていた。しかし「不知其所終」という悲劇の皇子であった。
昭和15年5月12日、当寺本堂の屋根修理中、屋根裏から大音響とともに厚い煤におおわれた僧形坐像の木像が落下してきた。像の背部には彫り込みがあり、その中から青銅製の千手観音と古文書が現れた。
古文書の終わりの方には、元中8年に至り、尹良親王は大徳王寺に来り、父「宗良親王」のお墓を作られ法像を建立された。法華経を写してお墓に納め、また新田氏一族の菩提を弔うため金2枚をお寺に収め、桃井へ帰られたと記してある。
御尊像が天台坐主であることは、お袈裟からも一目瞭然である。
伊那市教育委員会
御山の遺跡
指定 伊那市文化財(史跡)
昭和49年3月1日
所在地 伊那市長谷溝口
古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。 明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼形の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺の住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。
昭和6年5月20日、郷土史家「唐沢貞次郎」「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に十六弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側側に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。
その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回ねんごろに法要を営んでいる。
御山の遺跡関連資料は常福寺本堂内に展示されている。
伊那市教育委員会
この発見された宗良親王に関して、歴史家の市村咸人氏は年代と資料の紙質などで若干の疑問を呈している。が、概ねこの発見で「大徳王寺城」と「宗良親王の終焉地」の長谷溝口説が有力になりつつあることが確認できる。
さらに、この溝口周辺が宗良親王の知行地の可能性が出てきている。・・資料は確認できていない。
以下は推論である。
宗良親王が「知行地」を持っていたとするならば、大変興味深い。今までの謎の多くが解明できるかもしれない。大草城に拠点を持ち、家族や子を持ち、小笠原守護に対峙して宗良の第一の随臣の桃井宗継の桃井城を前衛に、諏訪族の溝口を右翼に、知久家を左翼に、背後を香坂家に配した布陣の城は強靱であり、30年余の長きにわたり武家方(小笠原守護)に耐えたのは頷ける。また、各地に度々の合戦のため出陣するに都合の良い交通の、連絡にも都合の良い地点でもある。宗良の子の尹良親王が、宗良崩御のあと4年後に大徳王寺で法要し桃井に帰った、とあるが、この時桃井城はまだ健在であったのだろう。この後尹良は桃井宗継を伴って各地を転戦する・・浪合記。諏訪家か諏訪一族の誰かが溝口周辺を、知久家が生田を、香坂家が大草を割譲し、大草を中心に「知行地」か類する「疑似知行地」になった可能性は、かなり高くなる。これを認識すると、後醍醐天皇の他の皇子達と違った宗良像が浮かんでこないだろうか。各地に南朝の勢力拡大のために流転転戦して各豪族の城に入っても、所詮食客であり仮の宿りであろう。各地に出陣し戻り、また出陣しては戻れたのは、大草が、仮ではない拠点であることを本人が自覚していたのではないだろうか。文中3年(1374年)宗良64歳の時、吉野へ行きます。そして、和歌集を二つ編纂した後信濃へ戻ることは、大草か大河原かは別として、ここが自分の「故郷」だということを意識した結果だと思われます。他皇子と比べ長命であったこと、南信濃に30年余居続けたこと、などの疑問が解けた気がします。さらに言えば、知行地、領国の経営とは税の徴収と警察権の行使ですが、戦士の他に行政官が必要になります。この行政官が全員戦地に赴くことは到底考えられないので、宗良亡き後、この文官(行政官)達はこの地に散在して残ったと想像することは極めて当然に思えます。後にこの地に数多く残った伝承が物語っています。
大草、生田、長谷、大河原は宗良親王の歴史の宝庫です。
この地を現在の地名に直せば、中川村、松川町、伊那市長谷、大鹿村になります。
宗良親王が「知行地」を持っていた、とする資料は
「正平より元中年間まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった」・・武家沿革図に基づく説であります。この文章は高遠町誌上巻(P351)にあり、偶然見つけました。南朝年号の正平は1346年から1369年までを指し、元中は1384年から1392年までを指します。宗良親王の没年が元中2年(1386)頃と思われます。
以下、気になっていて解明できていない点を列挙
至徳2年余年(1385)宗良親王崩御 中川村四徳との関係 至徳と四徳の関係
「南ア・赤石岳の大聖寺平」
赤石岳南麓には高貴な方の伝承が多い。南朝の宗良親王は伊那の奥地に幽居したという。また赤石岳北方の大聖寺平は良月親王を埋葬した場所とも伝えている。一説には親王の御守刀の大小(刀)を埋めたから大小寺平であるという人もあるという。そういえば大聖寺平は大小寺平とも書くという。
・・良月親王は宗良の子か?母は?
宗良親王の甲斐より諫訪に入り給ひしは此の道なるべし。次に御所平あり。これまた親王御駐輦所の口は正に其の中央に位す。溝口より東背 ... 然れどもそれを以て親王御終焉の地もまた大河の前望を上蔵の背後より宇津木峠の北方に展開するも可なるべし。
・・宗良親王の住まいと終焉の地は別所、地図上での確認
大徳王寺城址
興国元年(1340、南北朝時代)に、北条時行(鎌倉幕府の執権北条高時の子、南朝側)がこの地に立てこもり、足利氏方の小笠原貞宗(北朝側)と4ヶ月にわたり対峙したと伝えられています。
この城は山を背にし、三方を深い谷に囲まれ、容易に切り崩すことのできない難攻不落の城といわれていたのですが、遂には兵糧が尽き開落し、時行は後方の山中に逃れました。
・・北条時行の終焉の地は?
釜沢から小河内川を上った御所平は親王隠棲の御所と伝え、現在その供養塔である宝篋印塔が残り、「李花集」の詞書に「信濃国大川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりしてすみ侍りける…うんぬん」とあるのは御所近くのことと推定されています。
大河原ノ岳は、西麓信州側の大河原集落からの名前だそうです。南北朝時代、南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王が、南朝勢力挽回のため、北条時行、諏訪頼継、高坂高宗などを従え、しばしば赤石岳山頂に登って、足利氏調伏を祈願したという。
この地区の伝承を複雑にしている原因は、北条得宗家の遺子、時行の遺跡を御所と呼び、宗良親王の遺跡も御所と呼ぶ重複があり、さらに二人ながら同時代の同地区をを生きた足跡であるから、だと思います。
そしてこの時代、信濃では有力領主を四大将と呼び、小笠原、村上、諏訪、木曽がそれにあたり、室町前半・中盤は小笠原・村上と諏訪が、室町後半(戦国期)は諏訪・小笠原・村上と武田が対立し、震源の多くは諏訪神党が中心であった。
諏訪社の守矢文書では、度々「大草香坂」の名が見られます。大河原香坂でないことが気になります。
この項の締めは、幕末の志士、坂本龍馬が好んだという、宗良の和歌(李花集)を載せておきます。
・・「君のため 世のためなにか 惜からん、かぎりある身の いのちなりせば」
大草宮雑記 後書き 2013-01-21 14:38:29 | 歴史
大草宮戦記をアップした後で、消化不良の感を抱いている。すっきりとしない疑問が頭の底に残り、自身に対して納得感が生まれてこない。これでは読まれる方の説得力も無いのだろうと思う。
その一つは、敵対する「小笠原守護」の本拠地の松尾城から距離にして約10Kmに大草・大河原地区はあること。さらに天竜川を挟んで対岸は、当時小笠原の臣の片桐家が存在していること。この時代最大5万人の兵力を動かせる力を持った小笠原守護が、なぜ守護側から地方豪族の香坂・宗良親王を攻めなかったのか、謎であること。
鎌倉時代後期から室町時代前期に小笠原守護の領地の石高は鮮明でないし、半農武士が多い当時は、戦国期の1万石=250人の兵力を保有できるという方程式は成り立たないかもしれないが、それでも不鮮明ながら、直参・旗本・先方衆などは香坂氏を遙かに凌ぐ力だったはずだ。
二つ目は、南朝側の構成に関しての疑問。一概に南朝側と言っても構成は三つの要因を持って成り立つ。香坂家の様に南朝側も宮家を尊ぶ勢力を基にする者と北条残党の勢力拡大・維持を望む諏訪家や北条御家人であった者達・・北条最後の将軍の高行の遺子(次男)時行を象徴に掲げている、さらに新田一族のように幕府側に付き中先代の乱で、北条残党を鎌倉で破り、やがて足利尊氏への対抗から宮方についた者、の混成部隊である。
これは、どう見ても「呉越同舟」であり、「敵の敵は味方」だとする戦略上の方便にしか思えない。この混乱の中に正義は見えてこない。事実、足利尊氏から領土を安堵された地方豪族は、次第に宮方から剥がされてゆく。この様に見ていくと、諏訪神党の、宗良親王に対する立ち位置が鮮明に見えてくる。大徳王寺城の戦いでは諏訪頼継が参戦しているが幼少であることと諏訪上社のみであることが疑問符として認識する点である。この頃、諏訪円忠は足利尊氏に従い政務の中心として信頼を得て、諏訪神社の旧領を戻している。足利幕府との対立軸の一つの経済基盤を回復しているのだ。
三つ目は、北条の遺子、相模次郎こと北条時行が宮方に転じたことも疑問だが、彼の親兄弟を鎌倉で殺害した新田義貞の系譜の新田一族の協力が南北朝期後半より活発化したこと。更に言えば、観応の騒擾以降、足利一族の足利直義の係累が、尊氏との対立から、宮方に参加してくる。この無節操な合流に正義は見えてこず、裏打ちのない勢力争いに過ぎなくなっていく。
小笠原守護の北条残党への対応と、宮方への対応に強弱がある。この強弱を読み解く鍵は、小笠原貞宗がかって宮廷において天皇家に弓馬の礼を伝授して、天皇家に尊愛の情を抱いていたからではないかの説がある・・長谷村誌、この説に賛成である。小笠原一族は信濃守護として武家頭領であるとともに「弓馬の礼」を基とする武家頭領の儀式の宗家でもあった特異な家柄でもある。この弓馬の礼は、奥義を極めて、武家社会における礼式を定め、やがて一家をなして、小笠原四家目(府中・松尾・鈴岡・新たに京都)として京に行き、茶道と花道を加えて「小笠原流家元」となる。
余談だが、小笠原長棟が守護時代に家臣に中島明延がいた。小笠原長棟が引退し家督を長時に相続して2年後中島明延も小笠原家を引退し京に上った。長棟は出家して寺に住み、庭に「牡丹」を育てたという。中島明延は京に隠棲し、日々「茶」を点てたという。時の将軍は、明延のもとに茶を楽しみに通ったという。この話は、しばらく自分の脳裏に焼き付き、小笠原長棟は守護としての武家職務の一方、「礼節の儀」の職務を重んじ、家臣の中島明延に当たらせていたのではないか、と密かに思っている。二人して風流人である。後に、中島明延は茶が因で「茶屋四郎次郎」を号し、子孫が家康を助けて、豪商となった。また文明の頃に、内訌(一族間の下克上の内乱)が小笠原家にもあった。松尾(宗家)、鈴岡、府中(松本)の三家の争いである。小笠原家の文明の内訌は勢力争いの他に、「伝書」の争奪戦の意味もあったという。この伝書は何か?は大いに謎であるが、特異な小笠原宗家を証し立てる書とは、「弓馬の儀式」の礼法書ではないかと想像している。いずれにしても、小笠原家は、他に類を持たない守護であったらしい。
新田一族も数奇な運命を辿った一族で謎な多い。源氏を祖とする兄弟が上野(群馬)に流れ、兄の系譜が新田荘に住み、渡良瀬川を挟んで、弟の系譜が足利に住んだ。後醍醐天皇の命で共に挙兵し、建武の新政を遂げた後袂を分かち、新田一族は上野を追われ、越後を拠点とするも敗走し、南朝宮方の最後の勢力拠点となった信濃の宗良親王のもとに集結するが、ここも敗北する。謎の多い一族である。群馬・太田市中心に研究者も多いと訊く。期待したい。
宗長親王を助けた大河原城主の香坂高宗の香坂家のその後も気になるところだ。事実,大河原の香坂家は歴史書から消えている。中川村誌の気になるところ繋いで想像し物語すると、香坂の領分とした大河原地区は山岳をほとんどとして耕地は極めて少なく、大草は天竜川に面したあたりし平地を有し耕地があり、そこを部奈と福与といった。徐々に疲弊していった香坂家は大草の平坦地に移り住んだ様だ。中川村誌によれば香坂を名乗る農家が数軒存在しているという。
時が移りゆくとき、隣接する河野氏の下でか、直接か、小笠原家に臣下したのだろう。残念なことに、香坂家も知久家も、宗良親王を助けたとする資料を多く持っていない。