ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

磐船祭祭祀遺跡

2016-05-25 11:00:51 | 史跡

   磐船祭祭祀遺跡

本来、氷川女体神社(浦和・三室)の祭祀は”御船祭”と呼ばれるものだったらしい。
見沼田んぼに、氷川女体神社に隣接し”祭祀場”があり、それに船の由来だと聞くと違和感があるのは確かで、その経緯について調べてみる。

                                          

まずは見沼だが、今でこそ見沼田んぼとして、低地の広大な農作地であるのだが、江戸時代中期までは”御沼”とよばれる広大な湖であった。どのくらい広大かというと、日光の「中禅寺湖」よりやや広く「諏訪湖」よりやや狭い、細長の湖であった。ここ給水源は、荒川支流の綾瀬川の、そのまた支流の原市川だったといわれる。

江戸幕府・三代家光のころ、急増する江戸の人口の食料の増産の必要から、関東郡代伊奈忠治が関東周辺の広大な湿地帯の開拓を命じられて、利根川の東遷、荒川の西遷とともに”御沼”の開拓がはじまったわけである。伊奈忠治がとった方法は見沼溜井である。見沼を挟む大宮舌状台地の最も狭いところを塞き止めて、そこからの下流域の低湿地地帯の水田化であった。鳩ケ谷、川口、舎人、足立、葛西などの地域は、広大な水田に変わったわけであるが、今では住宅が密集して水田の面影などかけらもない。

  

 祭祀跡の周囲の神池:伝承では片目の鯉がいるというが見たことはない。緋鯉やら黒い鯉やらうじゃうじゃいる・

話を元に戻すと、そのころまで、水を豊富にためていた”御沼(=見沼)”では、氷川女体神社の”御船祭”とよばれる祭祀が隔年で行われていたようである。そしてそれは今の”磐船祭”とは違うようだ。


その経緯を「新編武蔵風土記稿」に沿ってみてみよう。
 ・・・ (ポイント抜粋)
 祭祀は御船祭と称し、隔年の九月八日に見沼に坐す女神に対して行われた。まず神主は垢離取りと呼ばれる潔斎を荒川で行う。神輿船に鉾を立て神輿を載せて見沼を渡り、餅・小麦御飯・神酒を献じて祭祀を行った。しかし、古来より続けられてきた御船祭は、享保十二年(1727)見沼新田の開発が始められたため、沼中の祭祀が不可能になった。このためやむをえず磐船祭と称し、沼跡の新田の中に小山を築き、舟形の高壇を設けて周囲に池を掘り、ここを見沼に見立てて祭祀を行うこととし・・・武笠神主家文書・・・同十四年(1729)九月から斎行された。・・・現在当社には、この祭祀に使用した鉾・牡丹文瓶子・神輿が所蔵されている。

・・・ 氷川女體神社の由緒

・・・ 文中の荒川は、そのまま読むと違和感を覚えると思う。関東郡代・伊奈家の荒川の西遷の前の荒川だから、今の元荒川が文中の荒川に該当する。

  祭祀は、本来船の上で行われていたらしい。

 

 

 

      


養寿院と川越館のこと

2015-07-25 19:14:20 | 史跡

養寿院と川越館のこと

川越の”藏通り”から脇に少し入ると菓子屋横町がある。ここの菓子は基本駄菓子で、ある時、あまりの長さに見初めて、”ふ菓子”なる物を買った。聞けば日本一の長さだという。味は、期待していなかったが、案の定そんなにうまいものではなかった。その菓子屋横町が、先月6月26日に火事になった。地元では”てんやわんや”の大騒ぎ。川越観光の目玉地区のひとつだから界隈の商店は、こぞって心配したらしい。今では落ち着いて、商店も商売を再開しているという。

話は、菓子屋横町のことではなく、菓子屋横町に隣接している”養寿院”という寺のことである。
「養寿院は曹洞宗に属し、寛元元年(1243)、秩父平氏の末裔河越次郎経重公(遠江守)が開基となり、大阿闍梨阿圓慶法師が開いた古刹である。」と由来に記されている。


山門の脇に、大きな石碑が建っていて、「不許葷酒入山門」と文字が彫ってある。読みは・「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」、意味は・「臭いが強い野菜(=葱、韮、大蒜など)は他人を苦しめると共に自分の修行を妨げ、酒は心を乱すので、これらを口にした者は清浄な寺内に立ち入ることを許さない」と言うことらしい。
寺院の境内は、いたって静寂で、菓子屋横町や藏通りの喧噪が噓のようである。

ここで注目したいのは、河越径重のこと。桓武流平氏の、平良文の末裔がこの寺を創ったのだと言うこと。その経緯を辿ってみると、・・
「河越氏は源頼朝が挙兵した当時、敵対していたが、重頼の妻が頼朝の乳母・比企禅尼の娘であったこともあり、後に頼朝方について平氏を追討、鎌倉幕府の樹立に力を尽くした。重頼の娘は、義経の正妻に選ばれ上洛するが、頼朝・義経が不和になると、重頼は誅殺され、所領は没収された。」とある。比企尼と河越氏の関係も興味深いが、源義経の正妻が、河越重の娘(=郷御前)であったことは知らないことであった。つまり、義経の奥さんは、”静御前”であり、”静御前”だけであると思い込んでいた。”無知”の”無恥”である。こういうのを浅薄な知識と言うのだろう。
それにしても、義経の外戚として、権力の頂点に手が届きそうになりながら、義経追放と比企の乱での比企氏滅亡の二つの憂き目は、政変に翻弄された河越氏の、天国から地獄へ転落であった。
「養寿院は、鎌倉時代(寛元2年/1244)に河越太朗重頼のひ孫、経重が開基し、大阿闍梨円慶法師が開山した。」
 ・・・養寿院:埼玉県川越市元町2-11-1 TEL:0492-22-0846

河越館:かわごえかん/かわごえやかた
「河越館は、埼玉県川越市上戸に所在した日本の城。川越市北西部、入間川右岸に位置し、約二町四方の占地規模を持つ館跡遺跡。」とあります。


河越館は、中世の豪族・河越氏の拠点の居館。場所の川越市上戸は、東武東上線・霞ヶ関駅を、入間川下流に向かう方向で、入間川と小畦川の狭地にあります。下流に向かって、入間川左岸、小畦川右岸に当たります。あれ!案内文と違うみたいですが、川の左右は川下に向かってが正しいはずですが、???。
ここの”河越館”周辺は、現在「河越館跡史跡公園」となっています。

せっかくですから、河越氏の”栄枯盛衰”の足跡を辿ってみます。
「河越氏は、平安時代末期に河越荘の開発領主として勢力を伸ばし、自領を後白河上皇に寄進し、その荘官となった。河越氏は、川越市上戸に館を構え、河越氏を名乗ったことに始まるとされています。12世紀中頃に、京都の新日吉社に河越荘を寄進し、代々その荘官として勢力を振るいました。
河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘(郷御前)が源義経の正妻となったが、義経没落の際に縁坐して重頼は誅殺された。
しかしその後も河越氏は武蔵国における在庁筆頭格として鎌倉幕府有力御家人の地位にあり、義経に連座して河越氏から剥奪されていた武蔵国留守所総検校職は重頼の三男・重員に再任され、河越館は河越氏の居館としてだけではなく、幕府の武蔵国政庁として機能した。室町時代に至るまで、栄華を誇った河越氏であったが、河越氏は、応安元年(1368)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重も伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。
戦国時代初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城を攻撃するために7年にわたってこの地に陣を構えた、と記録に残ります。
それより前 ・・・河越氏の祖である秩父重隆は、秩父氏家督である総検校職を継承するが、兄・重弘の子で甥である畠山重能と家督を巡って対立し、近隣の新田氏、藤姓足利氏と抗争を繰り返していたことから、東国に下向した河内源氏の源義賢に娘を嫁がせて大蔵の館に「養君(やしないぎみ)」として迎え、周囲の勢力と対抗する。久寿二年(1155)8月16日、大蔵合戦で源義朝・義平親子と結んだ畠山重能らによって重隆・義賢が討たれると、秩父平氏の本拠であった大蔵は家督を争う畠山氏に奪われる事となり、重隆の嫡男・能隆と孫の重頼は新天地の葛貫(現埼玉県入間郡毛呂山町葛貫)や河越(川越市上戸)に移り、河越館を拠点として河越氏を名乗るようになる。本拠大蔵は奪われたものの、総検校職は重頼に継承された。」

参考:源義賢のこと・・旭将軍・木曾義仲の父
埼玉県比企郡嵐山町大蔵には大蔵館跡がある。都幾川に沿った段丘上で、川をへだてて水田が開け、現荒川の沖積平野に続いていて鎌倉街道の要路にあたっている。近くには源義賢の墓と伝えられている県内最古の五輪塔がある。木曾義仲は、大蔵の地に生まれた。
源義賢とは?源義賢は源為義の次子で近衛天皇が皇太子の時に仕え、帯刀の長となったので、帯刀先生(たてわきせんじょう)と称し、その後東国に下り、上野国多胡館を本拠地としていましたが、更にその後にここ大蔵館に移住してきた。久寿二年(1155)に大蔵館で義朝の長子である甥の悪源太義平と争い討たれた。この騒動は大蔵合戦と呼ばれている。ここにある源義賢と伝えられる墓は一説には尼御前(源義賢の妻)の墓とも伝えられる。
*帯刀先生とは、天子とか皇太子の、今で言う護衛官のこと。律令制度の官名ですが、制度発令時代は任務の実態があったが、後に形骸化して官名のみが残り、官名は詐称された。


勝呂廃寺跡と古代寺院の時代

2015-07-08 13:13:38 | 史跡

勝呂廃寺跡と古代寺院の時代 ・・・

改訂:7/10

廃寺は、仏教関連用語の一つ。「廃止された仏教寺院」を指します。
勝呂廃寺も、仏教が伝来して間もない頃・飛鳥時代に建立されて、いつの日か姿を消した幻の廃寺・・・・・ある時、瓦が大量に発見されたのを端緒に確認されました。

勝呂廃寺 ・・・

「勝呂廃寺は、坂戸の石井の舌状台地北端部には将軍山・御殿山など意味ありげな地名がみられ、勝呂廃寺はその付近にる。建立が飛鳥時代(600年代後半)と言うことは比定されているが、廃寺になった年代や理由は謎のまま。勝呂廃寺が建立された時期は、とにかく仏教が伝来してから初期の頃というのは疑いのない事実のようだ。
地名が暗示するのは、なにやら武力を持った裕福な豪族が、この付近に住居を構え、寺院を管理していたのではないか、とみられる。その豪族が中世にこの地で名を残した勝呂氏であるかどうか、可能性はあるが定かではない。」
・勝呂館:坂戸市石井勝呂町/略歴:勝呂氏は武蔵七党の村山党の一族。
-・鎌倉御家人勝呂氏は、村山党の山口兵衛尉家恒の子須黒(=勝呂)太郎恒高を初代とし、須黒(=勝呂)左衛門頼高、左衛門尉行直と続く。・・行直の子供達である須黒(=勝呂)兵衛太郎、兵衛次郎らは承久の乱(1221)において、宇治橋合戦で活躍している。-・この地にはその頃勝呂氏の何れかの者の館があったと伝わる。

この仏教伝来から初期の頃の、各地につくられて廃寺になった寺は、どのような目的があり、どのような影響をもたらしたか、気になる所です。
初期の寺院の歴史を簡単に辿ると、・・・
 ・587:法興寺(飛鳥寺)建立
 ・607:法隆寺建立
 ・574-622:聖徳太子:生没
 ・551?-626:蘇我馬子:生没
 ・644:善光寺建立
 ・774-835:空海:生没
 ・
 
日本の仏教伝来期の背景は・・

*日本最古の本格的寺院は法興寺(仏法が興隆する寺の意)といわれる。法興寺は後に飛鳥寺と呼ばれrっようになった。おそらく奈良の明日香村にある寺院だからだろう。蘇我氏の氏寺であり、仏教伝来の原初の寺で、仏教派の拠点だったともいわれ、仏教導入時の渡来人の巣窟でもあったようだ。やがて在来の土着文化の神社派の物部氏と対立するようになる。
*法隆寺は聖徳太子の建立と言われる。聖徳太子は進取の気運が高く、大陸・随の文化の取得に勤めて翻訳し位階制度や法律などをつくる。随の文献に精通していた所を見ると大陸からの渡来人の一族の可能性は極めてたかい。・・・仏教の初期の拡大期には、官(朝廷)主導で各地に寺院が作られた。仏教の経文は漢文であり、漢文を読み書きできる知識人が各地の寺院に派遣された。大陸からの文明がもたらされて間もない頃、倭人がただちに漢文を習得して読み書きが出来るようになったとは到底思えないので、各地に派遣された仏教の伝道師や国司や郡司たちは、多くは渡来人だったのであろうと想像する。当然全国に覇権を握ろうとする朝廷の意は汲んでいただろう。その勢力の頂点にいたのが聖徳太子であったと読むのは、深読みだろうか。
・・蘇我氏と聖徳太子(厩戸皇子)は同盟して物部氏と反目・戦いに至る・・600年前後。
この勢力争いは、仏教派と神社派の宗教争いの側面もあった。しかして、仏教派の蘇我馬子・聖徳太子連合が勝利し、次の局面に入る。
*勝利した仏教派・馬子&聖徳太子連合は、全国各地に仏教普及のため寺院の建立を企てる。時は飛鳥時代の中頃からであった。この頃建てられて現存する有名な寺は長野・善光寺である。善光寺は、仏教普及の先駆け。善光寺はインドで作ったとされる日本最古の仏像を有しているので、日本最古の寺として崇められた。飛鳥時代に建てられた日本の初期の寺は、建築様式に同一性が見られる。日本最古の寺とされる”飛鳥寺”とほぼ同じなのである。そして多くが、現在では廃寺となっている。これらの寺の建立の目的を再確認すると、仏教の全国普及展開と渡来文化の伝搬、全国への覇権確立であった。


・・勝呂廃寺もこの頃上記の目的で建立されたものと思われる。

*この頃の地方の住居様式は、弥生時代からの様式がまだ残り、基本的には竪穴住居、屋根は「萱」などの草を屋根に敷き詰めたものだったと想像できる。この為、大陸の建築様式の瓦葺きの屋根を持った寺院の異様/偉容は、畏敬の念の衝撃をもって各地に伝えられたと想像できる。布教に役だったかどうかは不明だが、渡来文化の伝搬と覇権確立には貢献したと思って良い。

こうして、瓦の重要性が特筆でき、良質の粘土と燃料と技術のある所で”瓦”が生産された。勝呂廃寺の瓦は、鳩山町の赤沼窒で生産されたと言われている。直線距離で2Km以内か・・鳩山町・農村公園内。
なお、勝呂廃寺などの初期の仏閣も大陸文化なら、瓦職人の渡来人が主であった。

坂戸ではないが、この付近で”将軍”と名がつく遺跡を時々見かける。前から気になっていたのだが、いつの時代の、何という”将軍”なのだろうか、と。

*例えば、野本将軍塚古墳 ・・・東松山市下野本612

 --前方後円墳なので、弥生時代後期か大和王朝・古墳時代なのであろうか。・・稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)の辛亥年(471年)の紀年銘となっている所から類推すると、500年前後か。そうすると”将軍”は、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の一人・ 武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)が見えてくる。ヤマト王権による支配権が地方へ伸展する様子を示唆しているとする見解があるが、その平定ルートは、四世紀の前方後円墳の伝播地域とほぼ重なる。・・”武渟川別”は、大彦命の子。阿倍朝臣等の祖と伝えられる。さらに”武渟川別”は、東海道平定の際比企地方に来訪したと言われる。また『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命(=武渟川別・同一人か)が合流した場所が会津であるとされている・・会津の地名由来説話。”武渟川別”は、晩年比企に再訪し、比企に定住して没したという伝承も残る。いずれも「古事記」「日本書紀」の内容だが、将軍塚古墳が現存しているので「作り話」としてしまうことができない。
・・・行田の古墳公園には、日本を代表する前方後円墳が数基存在して大きな古墳公園を存立させている。この古墳が東国を代表する大豪族(大王)であることは、古墳の規模から、一大工事・事業であったことは確かで、可能にしたのは大豪族の富が莫大であったと言うこと。この大豪族と四道将軍の誰かと関係があったとする説も存在するが、確かではない。
仮説であるが、大和朝廷が東国を平定したとき、東国在住の豪族は、大和朝廷に服従を誓い土地をそのまま安堵された。その代償として一定期間の朝廷勤務を命じられ、それが武渟川別命にとっては、東征・征夷の蝦夷の征伐であった。この任務を成功裏にやり遂げると、武渟川別命は”将軍”の名をもって故郷へ帰った。後年の平将門なども朝廷などに勤務している所を見ると、この時代から既に土地安堵の代償として朝廷勤務の奉公の概念は存在していたのではないか、と思う。そうすれば、親と覚しき大彦命もこの近辺の人で、あるいは行田に住んで、古墳墳墓の主になったという仮説が成立する。
そうとでも考えなければ、東征・征夷のために、通過しただけの比企の地方に、晩年に舞い戻るという理由が見つからないのだ。
同じ武蔵野の地名ながら、東京周辺には古墳が存在しないのは地理的理由で、その時東京は海か海辺であり、豪族が定住するには無理があったのだろう。

*例えば、将軍沢/将軍神社 

--将軍沢にある日吉神社の境内には将軍神社。日吉神社の参道に建つ将軍神社は征夷大将軍坂上田村麻呂を祀ったもの・・延暦十五年(796)には陸奥按察使、陸奥守、鎮守将軍を兼任して戦争正面を指揮する官職をすべてあわせ、加えて翌年には征夷大将軍に任じられた。延暦二十年(801)に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。この二回の東征の途中のどちらかに比企地方に宿泊したというらしい。
・・場所は、笛吹峠から嵐山町へ向かう大蔵手前の集落。将軍沢の”沢”に拘ると、山の小川をイメージするが、どうも集落名らしい。・・伝承として残るのは、「東松山市の岩殿周辺で人々を苦しめていた悪龍を坂上田村麻呂が退治した」話。
・・坂上田村麻呂が生きた時代は、奈良時代 - 平安時代前期で、生:天平二年(758)-没:弘仁二年(811)と考証されています。

・・この悪龍退治に池の近くの巌殿正法寺は、「寺伝によれば、養老二(718)年に沙門逸海がこの地で修行をしていた際、霊夢に僧侶に化した観音様が現れたため、逸海は千手観音像を刻み、四十八峰、九十九谷といわれた岩殿山の山腹の崖を削り、その岩窟に安置して、そのかたわらに正法庵をむすんだのが開山とされ」、悪龍退治はこの頃の伝承と言われています。
この話は眉唾物で、龍という想像上の動物も創作であり、時代考証もかなりいい加減です。巌殿正法寺自体、その頃(718)に存在していたとは思えません。
勝呂廃寺を含め、比企郡周辺に散在する初期古代寺院は、ほぼ600年期から700年前期にかけて作られたであろうことが歴史考証されています。

比企周辺の古代寺院(廃寺)は、・・
 ・寺谷廃寺(滑川町)
 ・馬騎の内廃寺(寄居町)
 ・西別府廃寺(熊谷市)
 ・勝呂廃寺(坂戸市)
 ・小用廃寺(鳩山町)


・寺谷廃寺(滑川町)・てらやつはいじ。
-市野川に隣接する水田地帯です。平谷窯跡・たいらやつかまあと、と付近に沼が点在します。寺谷廃寺は東国最古の寺とされています。

・馬騎の内廃寺(寄居町) 名前からして官製牧場があったと思われます。-場所は、R140とR254の共用道路の天沼陸橋を渡ると右・富岡方面R254、左・秩父方面R140の分岐点、この背後に馬騎の内廃寺があります。川は荒川玉淀付近。釣りの名所・円良田湖を水源とする円良田川も流れます

・西別府廃寺(熊谷市)深谷と熊谷の境界あたり水田地帯。
-西別府遺跡群。深谷市幡羅遺跡。西別府遺跡・古代寺院の西別府廃寺。祭祀遺跡。3つの遺跡が有機的に機能。隣接で福川が流れ、深谷と熊谷の境界になっています。

・小用廃寺(鳩山町)
-越辺川の左岸台地上には小用廃寺。鎌倉街道上道沿いの鳩山町今宿の西隣が小用。南北朝時代から鋳物の生産地であったようです。”たたら”の痕跡は見つかっていません。

・勝呂廃寺(坂戸市)-この文章の命題につき略。

・・・この廃寺の一連は、古代鎌倉街道で繋がっているのかも知れない。

その立地場所を確認すると、田園の中と河川の沿岸でほぼ平地にあるようです。これは、古代寺院が建立された目的が、「仏教の全国普及展開と渡来文化の伝搬、全国への覇権確立」であり、さらに「農耕の新技術」の伝搬も兼ねていたのかも知れません。従って人が住む場所や目立つ場所の平地や河川沿いが選ばれたのだと理解出来ます。瓦屋根の偉容を誇るにも民衆が見てくれなければ目的は果たせません。

寺院・仏教にも発展に歴史があり、発展の段階や過程があります。
山岳仏教が修行をかねて流行ってくるのは、空海や最澄の時代以降で、比叡山や高野山の密教の寺が山中に立地してくる時代は、初期から少なくとも50~100年後のようです。巌殿正法寺の建立時期(718)とあり、この時代に、山中に隠れて山陰に目立たなく建つ寺があることは時代が合いません。正法寺が古代寺院であったという噂も聴きません。どうも伝承の創作は、時に時代を簡単に飛び越えてしまうようです。

坂上田村麻呂が比企に来たのは事実としても、武渟川別命・将軍の事跡と重なっている可能性も考えられます。
なお、比企周辺の古代寺院の廃寺になった理由は、火事や老朽化などではなく、洪水による流失・損壊と見た方が合理的です。
いずれにしても、これだけ古墳時代、飛鳥時代、奈良時代の遺跡や伝承が残っていると言うことは、この比企周辺の地は、朝廷の橋頭堡的存在であり、かなり先進的な地域であったことは疑いの余地はなさそうです。

 


毛呂山のこと

2015-07-04 19:02:51 | 史跡

毛呂山のこと

毛呂山には、毛呂山という山があるのかと思った。
しかし、町内何処を探してもそんな山はない。

毛呂山は、・・・
覚えでは、埼玉医大・国際医療センターのある場所。
お世話になったことがある県内の最先端医療の病院。県内2番目のペット設備、身内がこれで10年ぐらい前診断した

今一つの覚えでは、武者小路実篤の「美しき村」。
大正デモクラシイの白樺派の理想郷。
越辺川と高麗川に挟まれて、北に鳩山町、南に坂戸と日高を隣接する。

越辺川と高麗川の落合(合流点)

合流点の拡大写真

R407を高坂橋で越辺川を越す。この高坂橋の上流・200mぐらいで、高麗川と越辺川は落ち合う。この合流点のことを昔から落合という。
この狭地は扇状に上流に向かって扇を広げて外秩父に突き当たる。
もともとの土壌は関東ローム層だが、外秩父の山岳を水源とする越辺川と高麗川の水脈は、広大な山岳に降った雨量を集合するため、洪水になると氾濫原は広大になった。もっと北に流れる都幾川も、外秩父の山岳を水源にするため、性質はほぼ同じだと見て良い。
標高60mの毛呂山の平坦地は、従って土地が痩せているわけではなく、水田に適した土地になったようである。削られた外秩父の山岳の土砂が堆積したのであろう。

出雲伊波比神社・本殿

昔、‘毛呂一族’がこの地へやって来た。
太宰権帥藤原季仲の子周防前司季清が毛呂郷に移り毛呂冠者を称した。
従って、‘毛呂一族’は藤原氏族だと言われる。
この‘毛呂一族’の氏神が”出雲伊波比神社”で、古式ゆかしい「流鏑馬」で有名な神社である。
 ・・・流鏑馬 本祭り・・11/3の早朝、厳かに大谷木一族(毛呂郷の領主であった毛呂氏の子孫)による神社への参詣が終わると、いよいよ本祭り。午前の「朝的」と午後の「夕的」の二回行われます。常に先頭を走る一の馬は白で源氏、二の馬は紫で藤原氏、三の馬は赤で平氏を表しています。朝的は、三騎が一度ずつ矢を放ち、その後二度ずつムチを持って走ります。・・・ 毛呂山町広報
中世、大谷木氏(毛呂一族の嫡流)は、松山城主・上田氏の配下であったようです。従って、扇谷上杉の陣営。松山城陥落の後は、後北条に靡いたと言われています。

さて、毛呂山の毛呂はどうにか分かったとして、”山”が残ります。
国際医療センター”や”美しき村”のある辺りが”山根村”。外秩父山系の麓の村だから山根なのか??。
昭和14年(1939)4/1 - 毛呂村と山根村が合併し、毛呂山町となる、とあります。その後、大学が点在すする川角村も併合するが、川角の名残の文字は無い

合併の経緯が、なんとなく「とりあえず」感、「便宜」的に思えます。町名の名付けに、熟慮と”ひねり”は感じられません。

周りはほぼ水田の農地です。その中に、大学が幾つかと大病院と駅前にあまり大きくない商店街があります。背後には外秩父山系があります。・・・典型的な日本の里山風景。

武者小路実篤は、この毛呂山の「美しき村」のなにを”理想郷”として求めたのでしょうか。鈍感なせいかあまり見えてきません。

この町は、「美しき村」を観光資源として売り出そうという気もないようです。

美しき村の美しき・・

美しき村美術館

       

我 野菜を愛す

仲良きことは美しき哉

 

こうゆうのも 大正デモクラシー というのかしら




浄蓮寺

2015-05-23 00:04:56 | 史跡

浄蓮寺 in 東秩父村

橋を渡り、東秩父村和紙の里、伝習館へ行く手前 ・・・

地籍が、東秩父村御堂とあります。隣が小学校、槻川が流れています。
浄蓮寺。 ・・・浄蓮寺自体が御堂なのでしょう。

この寺の墓地に「松山城主上田朝直の墓」があります。

墓地の前の狛犬?狼?

上田朝直の墓・どれだか分からず・ 

上田朝直は、文明の頃、戦国初期の武将。
はじめ、扇谷上杉の重臣として、後北条と戦いました。
松山城の城主は、最初難波田氏、後に岩槻の太田氏。
太田氏が岩槻城の城主を相続するため岩槻に戻るとき、
上田朝直に松山城が託されました。
変遷した”松山城”の城主は、すべて”嫁さん”を通じての姻戚関係。
以後、後北条に敗れて後北条の家臣になり、
越後上杉が進出してきたとき上杉の家臣になり、
戦国の世に翻弄されます。
後に、出身の東秩父に隠棲し、居館を浄蓮寺に開基したそうです。

それにしても、墓石ではなく板碑が多い墓地ですね!板碑・いたひ・と読みます。

そういえば、小川町の仙元山(道の駅近くの長い滑り台のある山)の端の方に、板碑採掘場があったような?・・・


善光寺

2015-04-26 20:56:51 | 史跡

善光寺

長野市へは、学生時代から数えると100回を下らないほど行っているが、実は善光寺には、近辺をかすめただけで、外からしか眺めたことがなかった。かなりの失態である。
出没したのは、権堂などの繁華街と裾花などの学園の周辺と川田・若穂などの郊外だけであった。
学園の周辺は、友人の住むへ潜り込み、郊外へは姉の住居で惰眠をむさぼった。若き時代の、熱き心のあったときにであった。
その時は、どうも一事に偏執し他事に心を遣る余裕がない状態で、風景や歴史を無意識のうちに無視したのであろうか。

 

さて、善光寺が「ご開帳」であるという。


 この「ご開帳」は七年に一度という。そして、やや謎めいている

牛と羊の年の「ご開帳」・
善光寺の七年に一度の「ご開帳」を調べて見ると、実は六年目ごとに「ご開帳」することが分かった。今回は”平成27年4月5日〜5月31日”で、前回は”2009年(平成21年)4月5日(日)〜5月31日(日)”ということのようである。干支で言うなら、丑年と未年がご開帳の年度に当たるらしい。
それにしても、「ご開帳」期間の参詣の人数が、650~750万人という凄まじい数である。この人たちが、日本一と言われる?門前町に溢れかえるという。

秘仏の謎・?
「ご開帳」と言うからには、日頃お目にかかれない秘仏を、期間を限定して、参詣できるように、拝仏できるように開示する行為のようである。
この開示が、ご本尊ではなくてご本尊の「身代わり本尊」というから、話がややこしい。
この「身代わり本尊」は「前立本尊」といって、鎌倉時代に作られて以来、秘仏の本尊の身代わりを勤めてきたという。実に800年間、身代わり本尊を勤めたわけである。しかし、ご開帳の身代わり・「前立本尊」も奧座におわして、遠目からしか眺めることが出来ず、本堂前に回向柱なるものを立てて前立本尊と回向柱を糸で結び、一般の参詣は、この回向柱に触れることで、仏と縁が結ばれて功徳を受けることが出来るという、これまたややこしい縁の結ばれ方のようです。

牛に引かれて善光寺参り・


この回向柱のことが記録が残るのは江戸時代で、上田から松代へ移封された”真田藩”が、善光寺を領域内にして保護し、ご開帳の度ごとに、松代領内から”回向柱”を切り出して善光寺まで運んだ、という記録が残ります。この運搬に”牛‘が使われたそうです。
・・・牛に引かれて善光寺参り・の逸話は、・・・牛の角に布を取られ、その牛を追いかけていると善光寺まで来てしまい、善光寺の仏が光っておったので有難く思い、善光寺を信心するようになった・・・ という話ですが、余り合理的な辻褄でなく逸話に信憑性は感じられません。むしろ、松代・真田藩が、回向柱を牛で運んだことが話題になり、・・○うしとのみおもひはなちそこの道になれをみちびくおのが心を・・と言うような御詠歌もあって、後世の作家・浮世絵師、東都錦朝楼芳虎が、教訓説話として創作したのではないでしょうか。説話の元になった信州・小県郡は、松代に移る前の真田藩の領域で、美ヶ原の麓の村。真田藩が関わっていることが、多少気になります。

 

善光寺の秘仏・「一光三尊阿弥陀如来」・

「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来」は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特のお姿をされています。
白雉五年(654)以来の秘仏であります。・・善光寺ホームページより
この秘仏は、絶対秘仏といわれ、門外不出。善光寺の貫主(一番えらい人)でさえ拝観を許されていないそうです。・・本当かな?
この門外不出については、基本的にはその通りですが、・・戦国時代、武田と上杉が川中島で争ったとき、上杉が優勢だったとき秘仏は越後へ、武田が優勢だったとき甲斐へ運ばれたそうです。この説は”眉唾物”であり、甲斐へ運ばれた秘仏は”複製”だったのではないかと言われており、甲斐善光寺に鎮座する「一光三尊阿弥陀如来」は、その時のものだ、とされています。
それより信頼性の高い説は、織田信長が、武田を攻めて信州に侵入したときに、善光寺の秘仏を持ち帰り、信長が亡き後は、幾多の人の手に渡り、最後に秀吉のもとに行き着いて、秀吉は功徳多い秘仏を身近に置いておこうと「方広寺」に奉納したが、晩年病気がちになったのは、善光寺の秘仏を善光寺から移した祟りからだと噂になり、漸くもとの善光寺に秘仏を戻したと言われる。・・こちらの方は、記録に信憑性があり、事実のようです。
門外不出の”一光三尊阿弥陀如来”の秘仏も、こんな受難の歴史があるようです。

善光寺の宗教性・
無宗派だそうである。
白雉五年(654)といえば、「寺院派の蘇我馬子」と「神社派の物部守屋」とが争っていた時代の直ぐ後で、法隆寺(607年)の少し後になる。
日本最古の寺院は、飛鳥寺や四天王寺と言われるが、これらの寺は、仏教伝来・伝搬の新羅系仏徒の生活拠点兼政治活動拠点で、寺院の体裁をとっているものの発祥はどうも生臭い。法隆寺も政治活動の拠点で、聖徳太子の拠点でもあったようだ。「蘇我馬子・厩戸皇子(聖徳太子)」と「物部守屋・藤原一族」の政争の最中に、後に善光寺の秘仏になった阿弥陀入来の仏像は、物部氏によって難波の堀河に棄却されたのだという説もある。真偽を辿るのは難しいが、時代としては、推古天皇の時代に仏像は存在したことが確認されている。朝鮮半島から渡ってきたことは事実としても、作られたのは天竺だという説がある。その、”一光三尊阿弥陀如来像”が、本田善光に難波の堀で拾われ、長い旅の後、芋井の郷(長野市)に仏像は安置され、少し後に善光寺が建立されたとなると、仏像自体は日本最古であり、善光寺も最古の寺とほぼ同時代としてもよさそうである。こういうのを表すのに、日本の表現にはないが、西洋では”もっとも古い寺院の一つ‘という言い回し方がある。言い得て、妙な表現である。
最古の寺の一つの善光寺は、天台、真言の宗派以前に存在する。従って法隆寺と同じように無宗派となるわけである。
実際の善光寺の運営を見て見ると、貫主は天台宗の名刹から推挙された住職であり、運営の「大本願」は尼寺で浄土宗、住職は「善光寺上人」とよばれ、ほぼ公家の出身で、現在は鷹司家の出である。無宗派ではあるが、思想的色合いは”浄土宗”が一番近いのかも知れない。
山門と伽藍は特徴的で、東西南北に「四門四額」を配し、東門は「定額山善光寺」、南門は「南命山無量寿寺」、北門は「北空山雲上寺」、西門を「不捨山浄土寺」と称する。
伽藍は、天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊、寛慶寺( - 善光寺山内寺院の一つ、善光寺別当の栗田寺とも)を加えると実に40を数える。

                     天台宗の「大勧進」と浄土宗の「大本願」


一向一揆の起こった愛知県の三河の農家には、「聖徳太子絵伝」「善光寺如来絵伝」が飾られ、宗派は浄土真宗だという家がかなり多いらしいが、これは何を意味しているのだろうかと昔考えた。その時の疑問の収斂は、仏教信仰という巾の広い概念の中に、その時代の流行の”浄土真宗”があり、あるいは浄土宗があり、一般的には矛盾がなく信仰が同居していたのではないだろうか。浄土宗や浄土真宗と禅宗二派(臨済宗や曹洞宗)とは対立関係にあったのだが、善光寺は包括的前提であるがゆえに、矛盾ではなく受け入れられていたのではないだろうか。これが当時の庶民の感覚であり、今に続いているのである。
例えば、秩父札所三十四カ所巡礼の結願の暁には、あるいは東国札所百カ所巡礼の結願の暁には、集大成として”善光寺参詣”があるのは、そういうことではないのだろうか。この巡礼の札所寺院の宗派は様々であり、その集大成が善光寺であると言うことは、包括的前提とか包括的優位性とかの言葉でしか説明が付かないのである。
善光寺のご開帳の”回向柱前の法要”の儀式は、浄土宗一山の儀式であるという。
このややこしい”不思議”の解読は、上記のように結論してみたが、そんなに自信があるわけではない。ただ、浄土宗の包括的前提である善光寺の存在は、なにも三河地方に限定されたものではなさそうに思えてならないのだ。

『善光寺縁起』とは・


お釈迦様が印度・毘舎離国の大林精舎におられる頃、この国の長者に月蓋という人がありました。長者の家はたいそう富み栄えておりました。しかし、長者は他人に施す心もなく貪欲飽くなき生活をしておりました。ある日、お釈迦様は長者を教え導こうと自らその門を叩かれました。
さすがにお釈迦様のおいでと聞き、長者は黄金の鉢に御馳走を盛って門まで出ました。しかし、「今日供養すれば毎日のように来るであろう。むしろ供養せぬほうがよかろう」と急に欲心を起こして家に入ってしまいました。
 月蓋長者には、如是という名の一人の姫君がありました。両親の寵愛は限りなく、掌中の玉と愛育されておりました。
ところがある年、国中に悪疫が流行し、長者の心配もむなしく如是姫はこの恐ろしい病魔にとりつかれてしまいました。
長者は王舎城の名医・耆婆大臣を招くなどあれこれ手を尽くしました。しかし、何の効き目もありません。万金を投じ人智の限りを尽くしても及ばぬ上は、お釈迦様に教えを乞うほかはないと親族たちは申し合わせました。
 長者は初め不本意でした。ですが、我が娘の病苦を取り除きたい一念から遂に大林精舎に参り、お釈迦様の御前に進み、従前の罪障を懺悔し、如是姫の命をお救いくださるようにお願い致しました。
お釈迦様は「それは我が力にても及ばぬことである。ただ、西方極楽世界におられる阿弥陀如来様におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来様はたちまちこの場に出現され、姫はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と仰せられました。
 長者はお釈迦様の教化に従い、自邸に帰るとさっそく西方に向い香華灯明を供え、心からの念仏を続けました。この時、彼の阿弥陀如来様は西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿を顕現され大光明を放たれました。
すると国中に流行したさしもの悪疫もたちまちにして治まり、如是姫の病気もたちどころに平癒いたしました。長者はもとより一族の者は皆喜ぶことこの上なく、如来の光明を礼讃いたしました。
 長者はこの霊験あらたかなる三尊仏の御姿をお写ししてこの世界に止め置くことを発願し、再びお釈迦様におすがりいたしました。
お釈迦様は長者の願いをおかなえになるため神通第一の目連尊者を竜宮城に遣わされ、閻浮檀金を竜王から貰い受けることとしました。
竜王はお釈迦様の仰せに従い、この竜宮随一の宝物をうやうやしく献上いたしました。
 さてこの閻浮檀金を玉の鉢に盛ってお供えし、再び阿弥陀如来様の来臨を請いますと、彼の三尊仏は忽然として宮中に出現なさいました。そして、阿弥陀如来様の嚇嚇たる白毫の光明とお釈迦様の白毫の光明は共に閻浮檀金をお照らしになりました。
すると不思議なことに、閻浮檀金は変じて、三尊仏そのままの御姿が顕現したのでした。長者はたいそう喜び、終生この新仏に奉仕致しました。この新仏こそ、後に日本国において善光寺如来として尊崇を集める仏様であったのです。そして、この三尊仏は印度で多くの人々を救い結縁なさいました。
 時は流れ、百済国では聖明王の治世を迎えておりました。この聖明王は月蓋長者の生まれ変わりでした。しかし、王はそれとは知らず悪行を重ねておりました。ところが、如来様が百済国へお渡りになり、過去の因縁をお話しになると、たちまち改心して善政を行なうようになりました。
百済国での教化の後、如来様は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げられました。百済国の人民は老若男女を問わず如来様との別れを悲しみ、如来様が船で渡る後を追う者さえありました。
 欽明天皇十三年(552年)、尊像は日本国にお渡りになりました。宮中では聖明王から献ぜられたこの尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれました。
大臣・蘇我稲目は生身の如来様であるこの尊像を信受することを奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。
天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになりました。稲目は我が家に如来をお移しし、やがて向原の家を寺に改め、如来様を安置し、毎日奉仕いたしました。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺といいます。
 さてこの頃、国内ではにわかに熱病が流行りました。物部尾輿はこれを口実として、天皇に「このような災いの起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するために違いありません」と申し上げ、天皇の御許しを得て向原寺に火を放ちました。
炎々たる猛火はたちまちにして向原寺を灰燼にしました。ところが、彼の如来様は不思議にも全く尊容を損うことがありません。そこで尾輿は再び如来様を炉に投じてふいごで吹きたてたり、鍛冶職に命じてうち潰させたりなどしました。しかし、尊像は少しも損傷されることはありませんでした。
 万策尽き、ついに彼等は尊像を難波の堀江に投げ捨てました。その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ、篤く仏法を信仰しました。そして、これに反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼし、聖徳太子と共に仏教を奨励しました。ここに初めて仏法は盛んになりました。
聖徳太子は難波の堀江に臨まれ、先に沈められた尊像を宮中にお連れしようと、その御出現を祈念されました。すると如来様は一度水面に浮上され、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ。」と仰せられ、再び御姿を水底に隠されました。
 その頃、信濃の国に本田善光という人がありました。ある時、国司に伴って都に参った折、たまたまこの難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえました。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現しました。
如来様は、善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になりました。そして、この日本国でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになりました。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。
 善光は初め如来様を西のひさしの臼の上に御安置し、やがて御堂を建てて如来様をお移しいたしました。ところが翌朝、善光が参堂いたしますと、尊像の姿はそこにはありません。慌てて家に帰ると、いつのまにか最初に御安置した臼の上にお戻りになっておられました。そして、善光に、「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも、念仏の声のないところにしばしも住することはできない。念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになりました。
また、善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様でした。そうしたところ、如来様は白毫より光明を放たれ、不思議なことに油の無い灯心に火を灯されました。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりといわれます。
如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶ちません。時の天皇である皇極帝は、善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を都に召されて、ついに伽藍造営の勅許を下されました。
こうして、三国伝来の生身の阿弥陀如来様を御安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称しました。以来千三百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として国内津々浦々の老若男女に信仰されるようになりました。
  ・・・ 善光寺 「善光寺縁起」より 原文そのまま

これを読むと、・・縁起書そのものは、多少の装飾・創作がなされていそうです。事実、善光寺縁起については、細部が異なる”異説”も存在します。何れが正しいかの詮索は、それほど意味がないように思えます。
肝要の部分は、善光寺が、仏教伝来の初期に関わり、仏教と神道の抗争に巻き込まれ、難産の後に建立されて、広範囲の信仰を獲得していった事歴の方です。
信仰の対象という観点からは、仏像への信仰が本意であって、寺院という建物への信仰は副次的産物の筈です。
そう考えると、善光寺への信仰は、仏教への信仰の源流と見なすことも出来そうです。
これは新たなる発見でもないようです。
天台宗も真言宗も、浄土宗も臨済宗も、どの宗派に属する仏徒達何れも、歴史を辿れば、善光寺は”仏教の母なる存在”であることを認めていた伏があります。
これを理解した上で、善光寺を見ると、少し違った風景が見えてきそうです。

 

善光寺は”葵”の紋!

 

                       葵の文様 と 善光寺葵紋


”葵”の紋と言えば、徳川家の”三つ葉葵”が、まず頭に浮かびます。しかし、徳川家のルーツを辿ると、徳川家はもともとは”葵”の紋ではありません。家康の祖先は、後醍醐天皇に味方した新田義貞に繋がります。しかし、上野の新田家の紋は「一つ引両」であり、素直には繋がりません。徳川家のルーツは、新田家の分家筋・世良田家流で得川家と言われ、群馬県の太田辺りに源流を持つと言われています。そういえば、太田市に”徳川町‘というのがありましたが、ここが源流かどうか、定かではありません。南朝側に与した得川家の家康の祖先は、足利尊氏に追われて、遊行僧となり、長阿弥・徳阿弥と名乗って諸国を放浪したすえ奥三河へ流れ着きます。ここで、ここの豪族の酒井家に保護されて養子になり、さらに酒井家の領内の松平家が嫡子がなかったため、松平家を継ぐことになります。この酒井家の領地が、奥三河の加茂郡であり、松平家は加茂神社の神官だったわけで、ここで加茂神社の紋”葵”の紋を使うようになります。
ようやく、徳川家の”葵の紋”が出てきました。

三つ葉葵・徳川家の紋



しかし、京都・上下・鴨神社の”紋”は、「双葉葵」です。

双葉葵・鴨神社の紋


地方の加茂神社の神官は、そのまま「双葉葵紋」は使えません。地方の神官達は、そこで「茎葵紋」を使うようになりました。
この三河地方には、徳川家の重臣で、やはり徳川四天王の一つの本多家があります。徳川大名を20くらい輩出したあの本多家です。有名なのは、家康の幼少からの参謀・相談役の本多正信ですが、本多家も又加茂神社の神官家が出自となっています。当然、この本多家の家紋は、「茎葵紋」です。ちなみに、本多正信の墓は京の龍谷山本願寺にあります。西本願寺のことです。元和二年六月七日卒。戒名は善徳納誨院。墓碑は風雪に晒されて判読が困難な状態になっているそうです。本多正信は、若きとき”三河一向一揆”の主要メンバーで、家康に反旗を企てたそうです。そして家康亡き後は”本音”に戻って本願寺を埋葬の地に選んだと言うことでしょうか。相当にストイックな人物ではなかったかと、想像されます

丸に立ち葵紋(茎葵紋)・本多家の紋


長くなりましたが、ようやく”義光の寺”・善光寺と三河・本多家が繋がりました。善光寺の開祖・本田善光の末裔が、三河・本多家と言うことになります。従って、本田家・本多家の家紋・寺紋は同じだと言うこと。真偽のほどは分かりませんが、三河・本多家は、善光寺の末裔だと信じていたようです。
本田善光が、善光寺を開基した後の系譜を追っかけてみると、善光寺開基の後甲斐の国司に任命され、その後京都へ召還されています。この数代後に血流は途絶えて、空いた本田家の名跡に藤原系(一説には加茂系)の三河・本多家の祖先が入り、本多家を継承します。この本田家は九州に流れて定住しますが、足利尊氏が建武の新政途中で後醍醐天皇と反目し、九州まで落とされます。この尊氏が、九州で、反撃を開始するときに尊氏側として参加し、京都まで攻め上り足利政権を作ります。この功績により、本多家は三河に土地を与えられて、豪族として存立していきます。これは、三河・本多家の家歴ですから客観性が乏しいが、前半の本田善光の名跡を継いだ辺りはやや怪しいが、その他は信じていいのではないかと思っています。

立ち葵(茎葵)・善光寺の紋


善光寺の寺紋・茎葵紋がいつ頃から使われ始めたのか、定かではありません。ゆえに、権力を持った本多正信が、江戸時代から、善光寺に「茎葵紋」を使わせた可能性もあるわけで、あるいは歴代の善光寺の貫主が”加茂神社の加茂一族‘であった可能性もあるわけで、何れが正しいか、あるいは正しくないかは、よく分かりません。

さてさて、これだけ歴史があると、是非に秘仏”一光三尊阿弥陀如来”を拝顔したく希うが、それが叶わぬとなれば”前立観音”を拝みたくもあり、今年行ってみることにします。

善光寺の御詠歌
 ○身はここに 心は信濃の 善光寺 みちびきためへ 弥陀の浄土へ
 ○埋もれし難波の池の弥陀如来 背なに負いめす本田義光


円阿弥

2015-04-02 19:21:59 | 史跡

円阿弥 
    円阿弥 ・・えんなみ/えんあみ

円阿弥 ・・この地名に興味を抱くのは自分だけだろうか?
この人名のような地名は与野にある。
もとい、現在はさいたま市中央区円阿弥。合併により、味も素っ気も薄らいだ。

 

 

 

 

 

人名と言ったのは、自分の脳に蓄積された貧弱な知識の語彙から拾うと、
観阿弥、世阿弥、音阿弥という室町期の猿楽師、
つまり能を大成し発展させた人物を連想するからに他ならない。
もっとも観阿弥は、本名を服部清次といった。
当時流行していた浄土宗の宗派の法名として観阿弥を名乗ったらしい。
北条時宗が、浄土宗を信仰して、法名を”阿弥陀仏”としたのに習い、
清次は、生前法名を”観世音阿弥陀仏”としたが略されて”観阿弥”となった。
これは”号”である。
俳人である‘芭蕉’が俳号であるなら、画家である‘雪舟’が雅号であるなら、まさに”観阿弥”は能号である。
観阿弥に続いた嫡流の”世阿弥”、”音阿弥”も継承した‘号’を名乗った。
しかし円阿弥は地名である。法名で”円阿弥”を名乗る人物がいたかどうかは、かなり興味深いものがある。
円阿弥は、与野の地籍で、大宮に隣接する。
ここは大宮台地の上にあり、荒川の、古くは入間川の氾濫原河原より標高を高くする。
したがって、古より古代人の住居をもつ生活地であったようだ。
付近は、縄文後期、弥生期の遺跡跡、貝塚が多く発見されている。

御屋敷山

円阿弥の地名が文献に登場するのは、中世の頃 ・・・
円阿弥の中心は、どうも御屋敷山のようだ。
御屋敷山と呼ばれた地は江戸時代初期に伊奈氏によって築かれた陣屋跡とされているが、実際には岩槻城主太田氏により築かれた城館を陣屋として再利用したものだろう。
 ・・・ 岩槻城主太田氏虜の家臣・円阿弥氏が、奉行人として御屋敷山に住んだ、という文章を目にしたのは、円阿弥・日枝神社の由緒からである。
御屋敷山はさいたま市円阿弥の舌状台地斜面に位置し、関東郡代・伊奈半左衛門の陣屋跡と云われている。

円阿弥陣屋

伊奈家三代目・伊奈忠治が、”荒川西遷”の大事業の差配の拠点として、円阿弥の御屋敷山に”陣”を構えたのは確からしい。
伊奈忠治は、関東郡代として赤山に城を構え、赤山道を与野まで引き、その延長線上に、円阿弥陣屋、土屋陣屋を、少し離れて川島に出丸陣屋を作っています。
伊奈家の場合の陣屋は、治水事業の作業の指揮所兼代官・役人の宿泊所の内容で、今で言う飯場も兼ねていたようです。現存する土屋陣屋は、当節の代官・永田氏に払い下げられ、現在に繋がっています。土屋(永田)陣屋屋敷の概容を眺めると、かなり立派な長屋門を持ち、権勢が覗い知ることが出来ます。出丸陣屋の概容も文献から、広大な敷地と屋敷であったと記録(川島町史誌)されています。
資料の少ない円阿弥陣屋も、推して然るべき規模と推察されます。

円阿弥・日枝神社: 円阿弥の鎮守・岩槻城家臣円阿弥氏の郎党・野本氏の勧請?

伊奈家の陣屋は土木作業の飯場?指揮所?

伊奈忠治の荒川西遷の事業のの内容は、まず荒川を、熊谷・久下で締め切ります。水路を開鑿して和田吉野川へ繋げます。和田吉野川は下流の市野川に合流しており、さらに流下して、越辺川を合流した入間川と合流します。和田吉野川以下は既存の水路です。
ここで大工事となるのは、久下の締め切りと吉野川へ繋ぐ開削工事です。さらに、水量の増えた荒川は、そのままでは直ぐに氾濫を起こします。沿岸の堰堤の構築が大工事になります。堰堤の内側の水路の整備が、農作地には絶対不可欠です。上尾、大宮、与野、浦和、戸田、川口の荒川沿いの水田地帯の水路の確保。荒川から取水した鴨川などと、利根川から取水した見沼用水路などがこれに当たります。荒川の西遷は、荒川のみでなく、付帯の水路の工事を含めた総合の治水事業になるわけです。
関東郡代・伊奈家の円阿弥、土屋、出丸の陣屋をみると、同じ方式で、熊谷の久下、吉野川辺りにも、伊奈家の陣屋がありそうです。ありそうですが聞こえてきません。文献に見落としがあるのでしょうか?久下の締め切りは、実行者が忍藩になっていますので、設計と技術指導を伊奈家が行い、忍藩内に、間借りをしたとも考えられます。

円阿弥陣屋の今!
現在、円阿弥陣屋はさいたま市中央区円阿弥の住宅街の中にあります。雑木林の中に遺跡として土塁と空堀が残っていたが、周辺の開発が進み、残念ながら遺構は宅地化により消滅してしまったものもあります。台地の先端部を利用した縄張で規模も案外と大きいもののようです。現在は、雑木林の前に御屋敷山と書かれた木製の札が立てられているが、消滅の危機が迫っている様子。公園化するなどの保存対策が採られていれば良いと思ったが、与野や浦和の再開発は残された僅かの自然も根こそぎ奪ってしまうのでしょうか。

 

綾瀬川沿い・・ :幕藩体制下の幕府直営地からの年貢米の運搬の水路

綾瀬川

 

浦和・イオン付近

草加・市内

草加・古綾瀬川と合流付近

伊奈陣屋の余談


大川戸陣屋屋敷・・埼玉県北葛飾郡松伏町大川戸字新川
 ・・松伏町の北西部。庄内古川と古利根川に挟まれた土地で 、利根川東遷の拠点。
 ・・慶長六年(1600)家康が会津の上杉景勝を討とうと出陣し、石田三成挙兵の報を受け江戸に引き返す途次、伊奈忠次に築かせた陣屋御殿。
 ・・大川戸陣屋御殿、杉浦陣屋 ・伊奈忠次は代官・杉浦定政にその構築を命じ、やがて定政に払い下げた--『杉浦氏文書』 
小菅陣屋・・現東京都葛飾区小菅
 ・・伊奈氏の江戸屋敷・代官をおいた。
 ・・将軍の鷹狩りの「御膳所」に供した場所
  ・・水戸橋付近に河岸あり、 小菅籾藏で綾瀬川で運ばせた米の貯蔵倉庫があった。
蔵前陣屋
・・浅草・墨田川河岸に幕府の米倉があった。御蔵という。江戸の台所としての機能。御蔵の前の地を蔵前といい、米問屋や役人が住んだと言う。
・・伊奈家はここの奉行として、墨田川の河川管理、集荷・貯蔵管理の責任者として陣屋があった。
・・JR浅草橋駅蔵前口降りて、右橋を越して右側川縁。

参考
越谷御殿:越谷市御殿町:徳川家康が鷹狩りのために造営。-伊奈忠次が築・管理。
会田出羽屋敷:越谷市御殿町:家康が鷹狩りのために造営。-伊奈忠次が築・管理。

伊奈陣屋は、前述の3っつと合わせて、六カ所を確認している。
大工事の時、付近に陣屋を建てるのが伊奈流ならばもっとあるのかも知れない。


赤山歴史自然公園の計画 ・・川口

2014-12-18 11:36:54 | 史跡

赤山歴史自然公園の計画 ・・川口

 

概容・首都高初の「ハイウェイオアシス」の計画
 ・・・ ハイウェイオアシスとは、高速道路上にある一部のSA・PAに連結されている、道路区域外の都市公園・地域振興施設等の呼称である。高速道路の料金所を出る事なく、隣接する公園・レクリエーション施設を利用出来る。HWOまたはHOと略称される。・・・wikipediaより
 ・・・ 有名どころ 
  ○道の駅オアシスおぶせ(小布施総合公園)・上信越自動車道
  ○道の駅富楽里とみやま・富津館山道路
  ○道の駅富士川楽座・東名高速道路・上り線のみ
  ○佐久スキーガーデンパラダ・上信越自動車道・スキー場として有名
  ・・・ 関東近辺のみ

(仮称)赤山歴史自然公園の基本設計が完了しました  ・・・2014/06/20
 ===>概算事業費は約180億円を予定しています。平成29年4月に完成予定・・・

 

~(仮称)赤山歴史自然公園及び(仮称)川口市火葬施設の基本設計がまとまりました~
平成24年3月の都市計画決定、首都高速道路株式会社との事業連携を踏まえて、今年度、実施してきた(仮称)赤山歴史自然公園及び(仮称)川口市火葬施設の基本設計が完了しました。

(仮称)赤山歴史自然公園の完成予定図

 ・・内容・・・
 ・・・公園、火葬施設、高速道路PAの調和
・ 約 10.9ha の区域に、公園、火葬施設、高速道路PAの3つの施設が立地する世界的にもめずらしいプロジェクトであり、計画全体の一体感や統一感を保ちつつ、利用者の動線や視線を十分に配慮して、各拠点施設や大池・緩衝樹林・中島などを配置しています。
 ○公園内外の回遊性の確保
・ 高速道路PAに隣接して周辺施設への周遊バス発着所を設けるとともに、赤山オアシスゾーンから公園ゾーンへの入口部分に、公園や地域の情報発信施設、公園を見渡せる展望テラスを配置しています。
 ○「植木のまち川口」ならではの公園
・ 地元の植木の専門家の方々とのワークショップを重ね、周辺の開放植木圃場「オープンナーセリー」と連続する、日本ではじめての公園を計画しています。
・ 公園の随所に、江戸時代から続く伝統的な植木と近年の国際色豊かなモダンな植木を織り交ぜた植栽を行うとともに、赤山オアシスゾーンや(仮称)地域物産館において、植木や花鉢・ミニ盆栽などの販売スペースを計画しています。
 ○広域的な集客の確保
・ 高速道路を降りずに公園や地域を散策することができる、首都高初のハイウェイオアシスを計画しており、赤山オアシスゾーンと公園ゾーンの合計で、年間約350 万人の来訪を見込んでいます。
・ 赤山オアシスゾーンにおける物販・商業イベント、(仮称)歴史自然資料館におけるアートイベント・映像・展示、プレイロットにおける子ども向け大型遊具、(仮称)地域物産館における植木販売・各種教室、水源かん養育成樹林における環境学習など、市民はもとより、首都圏からの広域的な来訪者の多種多様なニーズにも対応できるよう、各施設を計画しています。
○赤山オアシスゾーンの施設概要
・商業休憩施設(建築面積 約 2600m2・地上2階建)諸室: 店舗(物販・飲食)、休憩室、情報発信施設 等・イベントテント広場(建築面積 約 700m2・地上1階建)
○公園ゾーンの施設概要
・(仮称)歴史自然資料館(建築面積 約 400m2・地上1階建)
諸室: 展示室 等
・(仮称)地域物産館(建築面積 約 600m2・地上1階建)
諸室: 植木展示・販売スペース、集会スペース 等
○駐車場の概要
公園東側駐車場(高速): 約 150 台(この他、既存川口PA駐車場 119 台)公園東側駐車場(一般): 約 70 台

植木の郷の「植木園」

赤山城(赤山陣屋)跡・治水事業の名門・伊奈郡代の屋敷跡

 赤山陣屋を見守る神社

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 ・・ PAに隣接してと言う表現があり、かつ圏央道・首都高に隣接し、東北道から離れているので、PAと言うことは、川口PAのことでしょうか。
 ・・ モデルにしたのは、長野自動車道の小布施PAに隣接した「ハイウェイオアシス」とのことです。

これは、参考モデルの「小布施ハイウェイオアシス」


 ・・ 力の入れ方は、相当なもので、埼玉の大都市、”川口”を、植木の郷 ・・自然をアピールして、歴史上の偉人・伊奈郡代をからめて、”鋳物の町”にかわる、もとい・並ぶ、川口のアピールのようです。
 ・・ 小布施と同じように、”スマートIC”で高速道への出入りが可能になる計画のようです。
 ・・ 現状は、宅地造成でどんどん自然が破壊されています。


赤山城跡 ・・・伊奈郡代屋敷跡

2014-09-15 02:50:34 | 史跡

赤山城跡 ・・・伊奈郡代屋敷跡

 

興禅院と金剛寺を訪ねたら、興禅院から100m、金剛寺から300mの所に赤山城跡があった。
過去に何度も来たところだが、何かの花が咲いていないだろうか、と寄ってみた。

 

 

ここらは、植木の里でもある。

赤山城跡の秋桜 ・・・

夏の終わりの城趾公園は、老夫婦と犬に散歩のご婦人がいた。

近くの梨畑に、梨が色づき、収穫を待つばかり ・・・ 確実に秋が近づいている。


 

赤山陣屋は、東京外環自動車道川口東ICに隣接。
県道越谷鳩ヶ谷線沿いの日枝神社前の交差点に「赤山城址入口」の石柱が建っています。
舌状台地を利用した城のようで、複雑な周辺の地形の湿地帯を巧みに利用した城です。
浸食谷に緩やかに囲まれ、当時は湿地帯で、湿地や浸食谷の天然の要害を利用した城です。

伊奈氏の卓越した土木手腕がみえます。
案内によると、規模は”大阪城”に匹敵するそうです


 

 


金剛寺  ・・・ 川口八景

2014-09-14 21:50:35 | 史跡

金剛寺  ・・・ 川口八景

所在地:川口市大字安行吉岡


曹洞宗・山号・富雙山 ・・・入間郡越生町龍穏寺の末寺。
室町時代・明応五年(1496)に、豪族・中田安斎入道安行の開創。

 ・・・ この人物名・安行・”やすゆき”が「あんぎょう」の地名の由来。


七福神のレリーフ ・・碑

縁起 ・・・当時戦乱の世で中田氏自身も多くの人々を殺傷し、その罪業に苦しみ、
当地を行脚していた禅僧に出会い、吉岡の地に草庵を結び、金剛般若経で供養した、という。
この縁で、この地に伽藍を造営し、その禅僧・龍穏寺庵良を開山とし、
自らは開基となり、寺名は金剛寺として開創した。

 

 


江戸時代に三代将軍家光により御朱印十石を賜り、門派は十数寺に及んだ。

伽羅木

 

萱葺きの四足門

山門は桃山様式の四足門、市内最古の棟門。

墓地には県指定旧跡『安行植木開発の祖 吉田権之丞の墓』がある。
当山十九世海牛禅師開始の灸施療は有名で、現在も『お灸の金剛寺』として有名。



吉田権之丞は、文献等の資料が少ない。

伝聞では、権之丞は、草花や盆栽に興味を持ち、珍しい草木を集めたところ、
土質・風土が適合し、その生育がよかったという。
権之丞の子孫である吉田家は、現在も安行地域で植木業を営んでいる。
 ・・・これが安行植木の始まり・・・

なお、中田安行(安斎入道)と吉田権之丞との関係を示すものは不明。檀家の一つ?


中田安行は、岩槻城・太田家の家臣だったと言われる。
 ・・・ 殿山城・現金剛寺の場所
 ・・・ 『新編武蔵風土記稿』によれば、吉岡将監の居城とされる。
将監は中田安斎入道安行の子で、太田資頼に仕えていたとされる。
吉岡氏のその後は不明である。

 

金剛寺・入口


 

謎の 宝鱜印塔 塔笠が落下

○○居士・姉 ・・とは、墓なのか?!

 

 ・・・ 山門の前の参道の”もみじ”は一見に値するという。11月末から12月始め。