ときどりの鳴く 喫茶店

時や地を巡っての感想を、ひねもす庄次郎は考えつぶやく。歴史や車が好きで、古跡を尋ね、うつつを抜かす。茶店の店主は庄次郎。

善光寺

2015-04-26 20:56:51 | 史跡

善光寺

長野市へは、学生時代から数えると100回を下らないほど行っているが、実は善光寺には、近辺をかすめただけで、外からしか眺めたことがなかった。かなりの失態である。
出没したのは、権堂などの繁華街と裾花などの学園の周辺と川田・若穂などの郊外だけであった。
学園の周辺は、友人の住むへ潜り込み、郊外へは姉の住居で惰眠をむさぼった。若き時代の、熱き心のあったときにであった。
その時は、どうも一事に偏執し他事に心を遣る余裕がない状態で、風景や歴史を無意識のうちに無視したのであろうか。

 

さて、善光寺が「ご開帳」であるという。


 この「ご開帳」は七年に一度という。そして、やや謎めいている

牛と羊の年の「ご開帳」・
善光寺の七年に一度の「ご開帳」を調べて見ると、実は六年目ごとに「ご開帳」することが分かった。今回は”平成27年4月5日〜5月31日”で、前回は”2009年(平成21年)4月5日(日)〜5月31日(日)”ということのようである。干支で言うなら、丑年と未年がご開帳の年度に当たるらしい。
それにしても、「ご開帳」期間の参詣の人数が、650~750万人という凄まじい数である。この人たちが、日本一と言われる?門前町に溢れかえるという。

秘仏の謎・?
「ご開帳」と言うからには、日頃お目にかかれない秘仏を、期間を限定して、参詣できるように、拝仏できるように開示する行為のようである。
この開示が、ご本尊ではなくてご本尊の「身代わり本尊」というから、話がややこしい。
この「身代わり本尊」は「前立本尊」といって、鎌倉時代に作られて以来、秘仏の本尊の身代わりを勤めてきたという。実に800年間、身代わり本尊を勤めたわけである。しかし、ご開帳の身代わり・「前立本尊」も奧座におわして、遠目からしか眺めることが出来ず、本堂前に回向柱なるものを立てて前立本尊と回向柱を糸で結び、一般の参詣は、この回向柱に触れることで、仏と縁が結ばれて功徳を受けることが出来るという、これまたややこしい縁の結ばれ方のようです。

牛に引かれて善光寺参り・


この回向柱のことが記録が残るのは江戸時代で、上田から松代へ移封された”真田藩”が、善光寺を領域内にして保護し、ご開帳の度ごとに、松代領内から”回向柱”を切り出して善光寺まで運んだ、という記録が残ります。この運搬に”牛‘が使われたそうです。
・・・牛に引かれて善光寺参り・の逸話は、・・・牛の角に布を取られ、その牛を追いかけていると善光寺まで来てしまい、善光寺の仏が光っておったので有難く思い、善光寺を信心するようになった・・・ という話ですが、余り合理的な辻褄でなく逸話に信憑性は感じられません。むしろ、松代・真田藩が、回向柱を牛で運んだことが話題になり、・・○うしとのみおもひはなちそこの道になれをみちびくおのが心を・・と言うような御詠歌もあって、後世の作家・浮世絵師、東都錦朝楼芳虎が、教訓説話として創作したのではないでしょうか。説話の元になった信州・小県郡は、松代に移る前の真田藩の領域で、美ヶ原の麓の村。真田藩が関わっていることが、多少気になります。

 

善光寺の秘仏・「一光三尊阿弥陀如来」・

「一光三尊(いっこうさんぞん)阿弥陀如来」は、ひとつの光背の中央に阿弥陀如来、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が並ぶ、善光寺独特のお姿をされています。
白雉五年(654)以来の秘仏であります。・・善光寺ホームページより
この秘仏は、絶対秘仏といわれ、門外不出。善光寺の貫主(一番えらい人)でさえ拝観を許されていないそうです。・・本当かな?
この門外不出については、基本的にはその通りですが、・・戦国時代、武田と上杉が川中島で争ったとき、上杉が優勢だったとき秘仏は越後へ、武田が優勢だったとき甲斐へ運ばれたそうです。この説は”眉唾物”であり、甲斐へ運ばれた秘仏は”複製”だったのではないかと言われており、甲斐善光寺に鎮座する「一光三尊阿弥陀如来」は、その時のものだ、とされています。
それより信頼性の高い説は、織田信長が、武田を攻めて信州に侵入したときに、善光寺の秘仏を持ち帰り、信長が亡き後は、幾多の人の手に渡り、最後に秀吉のもとに行き着いて、秀吉は功徳多い秘仏を身近に置いておこうと「方広寺」に奉納したが、晩年病気がちになったのは、善光寺の秘仏を善光寺から移した祟りからだと噂になり、漸くもとの善光寺に秘仏を戻したと言われる。・・こちらの方は、記録に信憑性があり、事実のようです。
門外不出の”一光三尊阿弥陀如来”の秘仏も、こんな受難の歴史があるようです。

善光寺の宗教性・
無宗派だそうである。
白雉五年(654)といえば、「寺院派の蘇我馬子」と「神社派の物部守屋」とが争っていた時代の直ぐ後で、法隆寺(607年)の少し後になる。
日本最古の寺院は、飛鳥寺や四天王寺と言われるが、これらの寺は、仏教伝来・伝搬の新羅系仏徒の生活拠点兼政治活動拠点で、寺院の体裁をとっているものの発祥はどうも生臭い。法隆寺も政治活動の拠点で、聖徳太子の拠点でもあったようだ。「蘇我馬子・厩戸皇子(聖徳太子)」と「物部守屋・藤原一族」の政争の最中に、後に善光寺の秘仏になった阿弥陀入来の仏像は、物部氏によって難波の堀河に棄却されたのだという説もある。真偽を辿るのは難しいが、時代としては、推古天皇の時代に仏像は存在したことが確認されている。朝鮮半島から渡ってきたことは事実としても、作られたのは天竺だという説がある。その、”一光三尊阿弥陀如来像”が、本田善光に難波の堀で拾われ、長い旅の後、芋井の郷(長野市)に仏像は安置され、少し後に善光寺が建立されたとなると、仏像自体は日本最古であり、善光寺も最古の寺とほぼ同時代としてもよさそうである。こういうのを表すのに、日本の表現にはないが、西洋では”もっとも古い寺院の一つ‘という言い回し方がある。言い得て、妙な表現である。
最古の寺の一つの善光寺は、天台、真言の宗派以前に存在する。従って法隆寺と同じように無宗派となるわけである。
実際の善光寺の運営を見て見ると、貫主は天台宗の名刹から推挙された住職であり、運営の「大本願」は尼寺で浄土宗、住職は「善光寺上人」とよばれ、ほぼ公家の出身で、現在は鷹司家の出である。無宗派ではあるが、思想的色合いは”浄土宗”が一番近いのかも知れない。
山門と伽藍は特徴的で、東西南北に「四門四額」を配し、東門は「定額山善光寺」、南門は「南命山無量寿寺」、北門は「北空山雲上寺」、西門を「不捨山浄土寺」と称する。
伽藍は、天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊、寛慶寺( - 善光寺山内寺院の一つ、善光寺別当の栗田寺とも)を加えると実に40を数える。

                     天台宗の「大勧進」と浄土宗の「大本願」


一向一揆の起こった愛知県の三河の農家には、「聖徳太子絵伝」「善光寺如来絵伝」が飾られ、宗派は浄土真宗だという家がかなり多いらしいが、これは何を意味しているのだろうかと昔考えた。その時の疑問の収斂は、仏教信仰という巾の広い概念の中に、その時代の流行の”浄土真宗”があり、あるいは浄土宗があり、一般的には矛盾がなく信仰が同居していたのではないだろうか。浄土宗や浄土真宗と禅宗二派(臨済宗や曹洞宗)とは対立関係にあったのだが、善光寺は包括的前提であるがゆえに、矛盾ではなく受け入れられていたのではないだろうか。これが当時の庶民の感覚であり、今に続いているのである。
例えば、秩父札所三十四カ所巡礼の結願の暁には、あるいは東国札所百カ所巡礼の結願の暁には、集大成として”善光寺参詣”があるのは、そういうことではないのだろうか。この巡礼の札所寺院の宗派は様々であり、その集大成が善光寺であると言うことは、包括的前提とか包括的優位性とかの言葉でしか説明が付かないのである。
善光寺のご開帳の”回向柱前の法要”の儀式は、浄土宗一山の儀式であるという。
このややこしい”不思議”の解読は、上記のように結論してみたが、そんなに自信があるわけではない。ただ、浄土宗の包括的前提である善光寺の存在は、なにも三河地方に限定されたものではなさそうに思えてならないのだ。

『善光寺縁起』とは・


お釈迦様が印度・毘舎離国の大林精舎におられる頃、この国の長者に月蓋という人がありました。長者の家はたいそう富み栄えておりました。しかし、長者は他人に施す心もなく貪欲飽くなき生活をしておりました。ある日、お釈迦様は長者を教え導こうと自らその門を叩かれました。
さすがにお釈迦様のおいでと聞き、長者は黄金の鉢に御馳走を盛って門まで出ました。しかし、「今日供養すれば毎日のように来るであろう。むしろ供養せぬほうがよかろう」と急に欲心を起こして家に入ってしまいました。
 月蓋長者には、如是という名の一人の姫君がありました。両親の寵愛は限りなく、掌中の玉と愛育されておりました。
ところがある年、国中に悪疫が流行し、長者の心配もむなしく如是姫はこの恐ろしい病魔にとりつかれてしまいました。
長者は王舎城の名医・耆婆大臣を招くなどあれこれ手を尽くしました。しかし、何の効き目もありません。万金を投じ人智の限りを尽くしても及ばぬ上は、お釈迦様に教えを乞うほかはないと親族たちは申し合わせました。
 長者は初め不本意でした。ですが、我が娘の病苦を取り除きたい一念から遂に大林精舎に参り、お釈迦様の御前に進み、従前の罪障を懺悔し、如是姫の命をお救いくださるようにお願い致しました。
お釈迦様は「それは我が力にても及ばぬことである。ただ、西方極楽世界におられる阿弥陀如来様におすがりして南無阿弥陀仏と称えれば、この如来様はたちまちこの場に出現され、姫はもちろんのこと国中の人民を病から救ってくださるであろう」と仰せられました。
 長者はお釈迦様の教化に従い、自邸に帰るとさっそく西方に向い香華灯明を供え、心からの念仏を続けました。この時、彼の阿弥陀如来様は西方十万億土の彼方からその身を一尺五寸に縮められ、一光の中に観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿を顕現され大光明を放たれました。
すると国中に流行したさしもの悪疫もたちまちにして治まり、如是姫の病気もたちどころに平癒いたしました。長者はもとより一族の者は皆喜ぶことこの上なく、如来の光明を礼讃いたしました。
 長者はこの霊験あらたかなる三尊仏の御姿をお写ししてこの世界に止め置くことを発願し、再びお釈迦様におすがりいたしました。
お釈迦様は長者の願いをおかなえになるため神通第一の目連尊者を竜宮城に遣わされ、閻浮檀金を竜王から貰い受けることとしました。
竜王はお釈迦様の仰せに従い、この竜宮随一の宝物をうやうやしく献上いたしました。
 さてこの閻浮檀金を玉の鉢に盛ってお供えし、再び阿弥陀如来様の来臨を請いますと、彼の三尊仏は忽然として宮中に出現なさいました。そして、阿弥陀如来様の嚇嚇たる白毫の光明とお釈迦様の白毫の光明は共に閻浮檀金をお照らしになりました。
すると不思議なことに、閻浮檀金は変じて、三尊仏そのままの御姿が顕現したのでした。長者はたいそう喜び、終生この新仏に奉仕致しました。この新仏こそ、後に日本国において善光寺如来として尊崇を集める仏様であったのです。そして、この三尊仏は印度で多くの人々を救い結縁なさいました。
 時は流れ、百済国では聖明王の治世を迎えておりました。この聖明王は月蓋長者の生まれ変わりでした。しかし、王はそれとは知らず悪行を重ねておりました。ところが、如来様が百済国へお渡りになり、過去の因縁をお話しになると、たちまち改心して善政を行なうようになりました。
百済国での教化の後、如来様は次なる教化の地が日本国であることを自ら告げられました。百済国の人民は老若男女を問わず如来様との別れを悲しみ、如来様が船で渡る後を追う者さえありました。
 欽明天皇十三年(552年)、尊像は日本国にお渡りになりました。宮中では聖明王から献ぜられたこの尊像を信奉すべきか否かの評議が開かれました。
大臣・蘇我稲目は生身の如来様であるこの尊像を信受することを奏上し、大連・物部尾輿、中臣鎌子は異国の蕃神として退けることを主張しました。
天皇は蘇我稲目にこの尊像をお預けになりました。稲目は我が家に如来をお移しし、やがて向原の家を寺に改め、如来様を安置し、毎日奉仕いたしました。これが我が国仏教寺院の最初である向原寺といいます。
 さてこの頃、国内ではにわかに熱病が流行りました。物部尾輿はこれを口実として、天皇に「このような災いの起こるのは蘇我氏が外来の蕃神を信奉するために違いありません」と申し上げ、天皇の御許しを得て向原寺に火を放ちました。
炎々たる猛火はたちまちにして向原寺を灰燼にしました。ところが、彼の如来様は不思議にも全く尊容を損うことがありません。そこで尾輿は再び如来様を炉に投じてふいごで吹きたてたり、鍛冶職に命じてうち潰させたりなどしました。しかし、尊像は少しも損傷されることはありませんでした。
 万策尽き、ついに彼等は尊像を難波の堀江に投げ捨てました。その後、蘇我稲目の子・馬子は父の志を継ぎ、篤く仏法を信仰しました。そして、これに反対する物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼし、聖徳太子と共に仏教を奨励しました。ここに初めて仏法は盛んになりました。
聖徳太子は難波の堀江に臨まれ、先に沈められた尊像を宮中にお連れしようと、その御出現を祈念されました。すると如来様は一度水面に浮上され、「今しばらくはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待とう。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す時なのだ。」と仰せられ、再び御姿を水底に隠されました。
 その頃、信濃の国に本田善光という人がありました。ある時、国司に伴って都に参った折、たまたまこの難波の堀江にさしかかりました。すると、「善光、善光」と、いとも妙なる御声がどこからともなく聞こえました。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現しました。
如来様は、善光が過去世に印度では月蓋長者として、百済では聖明王として如来様にお仕えしていたことをお話になりました。そして、この日本国でも多くの衆生を救うために、善光とともに東国へお下りになられることをお告げになりました。善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。
 善光は初め如来様を西のひさしの臼の上に御安置し、やがて御堂を建てて如来様をお移しいたしました。ところが翌朝、善光が参堂いたしますと、尊像の姿はそこにはありません。慌てて家に帰ると、いつのまにか最初に御安置した臼の上にお戻りになっておられました。そして、善光に、「たとえ金銀宝石で飾り立てた御堂であろうとも、念仏の声のないところにしばしも住することはできない。念仏の声するところが我が住みかである」と仰せになりました。
また、善光は貧困で灯明の油にも事欠く有様でした。そうしたところ、如来様は白毫より光明を放たれ、不思議なことに油の無い灯心に火を灯されました。これが現在まで灯り続ける御三燈の灯火の始まりといわれます。
如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり、はるばる山河を越えてこの地を訪れるものは後を絶ちません。時の天皇である皇極帝は、善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ、善光と善佐を都に召されて、ついに伽藍造営の勅許を下されました。
こうして、三国伝来の生身の阿弥陀如来様を御安置し、開山・善光の名をそのまま寺号として「善光寺」と称しました。以来千三百年以上の長きにわたり、日本第一の霊場として国内津々浦々の老若男女に信仰されるようになりました。
  ・・・ 善光寺 「善光寺縁起」より 原文そのまま

これを読むと、・・縁起書そのものは、多少の装飾・創作がなされていそうです。事実、善光寺縁起については、細部が異なる”異説”も存在します。何れが正しいかの詮索は、それほど意味がないように思えます。
肝要の部分は、善光寺が、仏教伝来の初期に関わり、仏教と神道の抗争に巻き込まれ、難産の後に建立されて、広範囲の信仰を獲得していった事歴の方です。
信仰の対象という観点からは、仏像への信仰が本意であって、寺院という建物への信仰は副次的産物の筈です。
そう考えると、善光寺への信仰は、仏教への信仰の源流と見なすことも出来そうです。
これは新たなる発見でもないようです。
天台宗も真言宗も、浄土宗も臨済宗も、どの宗派に属する仏徒達何れも、歴史を辿れば、善光寺は”仏教の母なる存在”であることを認めていた伏があります。
これを理解した上で、善光寺を見ると、少し違った風景が見えてきそうです。

 

善光寺は”葵”の紋!

 

                       葵の文様 と 善光寺葵紋


”葵”の紋と言えば、徳川家の”三つ葉葵”が、まず頭に浮かびます。しかし、徳川家のルーツを辿ると、徳川家はもともとは”葵”の紋ではありません。家康の祖先は、後醍醐天皇に味方した新田義貞に繋がります。しかし、上野の新田家の紋は「一つ引両」であり、素直には繋がりません。徳川家のルーツは、新田家の分家筋・世良田家流で得川家と言われ、群馬県の太田辺りに源流を持つと言われています。そういえば、太田市に”徳川町‘というのがありましたが、ここが源流かどうか、定かではありません。南朝側に与した得川家の家康の祖先は、足利尊氏に追われて、遊行僧となり、長阿弥・徳阿弥と名乗って諸国を放浪したすえ奥三河へ流れ着きます。ここで、ここの豪族の酒井家に保護されて養子になり、さらに酒井家の領内の松平家が嫡子がなかったため、松平家を継ぐことになります。この酒井家の領地が、奥三河の加茂郡であり、松平家は加茂神社の神官だったわけで、ここで加茂神社の紋”葵”の紋を使うようになります。
ようやく、徳川家の”葵の紋”が出てきました。

三つ葉葵・徳川家の紋



しかし、京都・上下・鴨神社の”紋”は、「双葉葵」です。

双葉葵・鴨神社の紋


地方の加茂神社の神官は、そのまま「双葉葵紋」は使えません。地方の神官達は、そこで「茎葵紋」を使うようになりました。
この三河地方には、徳川家の重臣で、やはり徳川四天王の一つの本多家があります。徳川大名を20くらい輩出したあの本多家です。有名なのは、家康の幼少からの参謀・相談役の本多正信ですが、本多家も又加茂神社の神官家が出自となっています。当然、この本多家の家紋は、「茎葵紋」です。ちなみに、本多正信の墓は京の龍谷山本願寺にあります。西本願寺のことです。元和二年六月七日卒。戒名は善徳納誨院。墓碑は風雪に晒されて判読が困難な状態になっているそうです。本多正信は、若きとき”三河一向一揆”の主要メンバーで、家康に反旗を企てたそうです。そして家康亡き後は”本音”に戻って本願寺を埋葬の地に選んだと言うことでしょうか。相当にストイックな人物ではなかったかと、想像されます

丸に立ち葵紋(茎葵紋)・本多家の紋


長くなりましたが、ようやく”義光の寺”・善光寺と三河・本多家が繋がりました。善光寺の開祖・本田善光の末裔が、三河・本多家と言うことになります。従って、本田家・本多家の家紋・寺紋は同じだと言うこと。真偽のほどは分かりませんが、三河・本多家は、善光寺の末裔だと信じていたようです。
本田善光が、善光寺を開基した後の系譜を追っかけてみると、善光寺開基の後甲斐の国司に任命され、その後京都へ召還されています。この数代後に血流は途絶えて、空いた本田家の名跡に藤原系(一説には加茂系)の三河・本多家の祖先が入り、本多家を継承します。この本田家は九州に流れて定住しますが、足利尊氏が建武の新政途中で後醍醐天皇と反目し、九州まで落とされます。この尊氏が、九州で、反撃を開始するときに尊氏側として参加し、京都まで攻め上り足利政権を作ります。この功績により、本多家は三河に土地を与えられて、豪族として存立していきます。これは、三河・本多家の家歴ですから客観性が乏しいが、前半の本田善光の名跡を継いだ辺りはやや怪しいが、その他は信じていいのではないかと思っています。

立ち葵(茎葵)・善光寺の紋


善光寺の寺紋・茎葵紋がいつ頃から使われ始めたのか、定かではありません。ゆえに、権力を持った本多正信が、江戸時代から、善光寺に「茎葵紋」を使わせた可能性もあるわけで、あるいは歴代の善光寺の貫主が”加茂神社の加茂一族‘であった可能性もあるわけで、何れが正しいか、あるいは正しくないかは、よく分かりません。

さてさて、これだけ歴史があると、是非に秘仏”一光三尊阿弥陀如来”を拝顔したく希うが、それが叶わぬとなれば”前立観音”を拝みたくもあり、今年行ってみることにします。

善光寺の御詠歌
 ○身はここに 心は信濃の 善光寺 みちびきためへ 弥陀の浄土へ
 ○埋もれし難波の池の弥陀如来 背なに負いめす本田義光

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