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「県政オンブズマン静岡(静岡県庁の光と闇)~よりよき未来のために~」管理人のブログ

注)teacupブログから移転の2022年5月以前の投稿には、文字コードの違いから多くの文字化けがあります。

喜びの温度差の根底にあるもの

2008-10-07 22:04:56 | 日記
日本人として6年ぶり。
南部、小林、益川の三氏にノーベル物理学賞の授与が決まった。
35年ほど前の研究に対してのものだ。
しかも、大学の独立行政法人化の中で直ちに利益・成果を生むまず軽視されがちな基礎科学分野での受賞であり意義深い。
面白いのは、周りの騒ぎと本人たちの温度差だ。
この3人の中の一人、益川氏が受賞の取材を受け「たいしてうれしくない」「科学者にとってたてた理論が実証されたことが重要」「後の評価としてのノーベル賞は世俗的なこと。科学とは関係ない」などといったことに科学者の姿を見た。

科学者は問題を解くのが喜びであって、その後にどうのこうのといった他人からの評価は二の次でしかないのだ。この点、勝海舟の「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せずと存候」と共通する。
私も試験前というのに試験には出ないような難問集を解いては一人喜んでいたが、他人から見れば無駄な事をというところだろうが、個人の喜び楽しみは実利・合理性などとは容易に一致しないものだ。
ゆえに、自身は他にやりたいことがあるのでゲームはやらないものの、最近の若者がゲームに熱中するのも気持ちとしては理解できる。ただ、国家的に見ればこれら若者のエネルギーを無駄に拡散しているということの証左ではあるが。

人は答えを求める。人間は考える葦であるがゆえに考え真実を求める。自然科学は現実と思惟を結ぶ基礎である。それを冒とくしたのがひとつ前のブログで触れた御用専門家たち。そして、権威を守るために地球は回っていないとした中世の教会のように(地すべり対策です、木が生長したんですなどと)真実に目を背け裁判で勝つというメンツにこだわり続ける知事や役人たち。

「理学が醸成する自然および真理探究の精神的風土が,日本が最先進文化国家として世界の尊敬と信頼を獲得するための必要条件であることを強く主張する。」、益川氏も幹事に名を連ねる日本学術会議による理学(基礎科学)研究の振興についての提言の一文である。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/17youshi/1728.html

この「日本学術会議第4部会報告」のまえがき中の「我が国の繁栄の基盤としての理学」には「江戸時代から近代にかけての我が国における基礎教育重視の結果、自然の真理探究の精神的基盤が日本人の心に築かれてきた」こと、そしてそれが今日の繁栄につながっていることなど、基礎科学教育の重要性とその危機が書きつづられている。
この機会に、皆様にも是非読んで考えてほしいと思う。
何を次の世代に伝えていくべきかを。
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/17pdf/1728p.pdf

美の冒とく者たちへ

2008-10-05 00:15:49 | 静岡空港
アメリカがくしゃみををすると、日本が風邪を引くといわれているが、そのアメリカがくしゃみや風邪どころではなくなりそうな中、多くの国民は漠然とした不安を抱いている。
その国民を安心に導くべき政治・行政が逆に不安を増す要因となっているのは何とも皮肉だ。
選択と集中。いまこそ求められるときにもかかわらず、未だバブル感覚でお気楽な将軍様も政治の世界では異質でもないようで、麻生のゴルフ練習に興じるパフォーマンスを見ると誰が一体危機感と責任感を持って問題に取り組んでくれるのか、あきらめに近い絶望感を抱かざるを得ない。
役人や専門家は相変わらず無責任な論評で国民を惑わし、責任者はそれに依存する。
最終的には責任者であったものたちは逃げ、今と未来の国民が重い負担を負い続けるのだろう。

そんな中、私はといえば、休みを使って金曜日に久しぶりに国会図書館で調べものをした。だが、この豊富な資料への地方からのアクセスは容易ではない。もちろんネット経由でコピー請求はできるが閲覧請求した資料の別のページからヒントを得ることも多く、やはり現物を見ないと満足は得られないものだ。
翌土曜日は稲刈り。刈るのは機械化されても鰍ッるのは人力。安全な食にはコストがかかるものだ。
今日は普段使っていなかった筋肉が痛む中、読書三昧。
晴耕雨読の理想に近い生活で、このようなゆっくりした時間は久しぶりだ。
たぶん私には今不満足がない。
ならばなぜ変革を求めるのか、悪との争いをやめないのかといえば、真実を、答えを、理性的アプローチをことごとく歪める者たちが許せないからなのかもしれない。
社会的なことにも興味を持ちながら私が物理学を専攻としたのも真実探求という美しさにひかれた面が強い。一見無秩序な現実を説明するシンプルな数式と理論の美しさと存在感は格別だ。それを穢している者がいる。

役人に取り入って学問的な良心を放棄した専門家といわれる学者たち、求めたはずの美を自ら冒とくした彼らを今は憐れむ。いったいどのような喜びや満足を得たというのか。渇きを感じないのか。
結局は悪政に加担したこととなった静岡空港専門家委員会委員たち
http://www2.ocn.ne.jp/~sizuoka1/kukousp.html
そして、静岡空港需要等検討委員会委員たち
http://www2.ocn.ne.jp/~sizuoka1/kusp1-2.html
静岡県事業評価監視委員会委員たち
http://www2.ocn.ne.jp/~sizuoka1/kujg.html
君たちは、今何を思うのか。もう何も感じられなくなってしまったのか。

行政の責任

2008-10-02 23:43:38 | 静岡空港
「拡張の根拠となる将来の需要予測が過大に設定され合理性を欠く」
最高裁まで争い、今年3月に静岡県に対して下された伊東市内の幅員17メートルの拡張計画に対する違法判断の理由である。
県は昨日までに計画を変更し17メートルを11メートルに変更告示した。
税金を投じて最高裁まで争ったが敗訴。
しかも、杜撰な根拠で違法との認定だ。
にもかかわらず、誰一人責任を取らない。
行政が計画したにもかかわらず。
これが行政の本質である。
理論的には政治、すなわち議会が判断したことで責任は議会にありそれは選挙で審判を受けるべきもの。行政はあくまでその政治の判断に基づき執行するだけの機関であるとして実質無責任がまかり通るのだ。

結局犠牲になるのは国民であり県民であるが、建て前というか理論上は選挙民の責任に帰するという主張の前に泣き寝入りである。

県議会が始まったが、そのほとんどは陳情型の質問に終始している。
実質の政策決定権が役人の側にあることを承知し、承認しているからだろう。
これでは、無答責の上に安心感を持って無駄遣いを行える役人天国の構図は終わらない。

国政の場では政治主導が芽を出しては消えつつも、しぶとく生き残っている。リスクと困難を承知で公務員改革を唱える信念の政治家たちによって。
一方県政では、・・・残念ながら皆無である。希望はない。



静岡県、しみついた隠ぺい偽装体質

2008-10-01 23:46:16 | 静岡空港
「平成20年4月1日から平成20年9月12日までに「一定の公職にある者等からの提言等に関する対応要領」に基づき作成され本庁及び全出先機関で管理又は保存されている「提言等記録票」及び「提言等確認票」の一切。(なお、開示に当たっては同要領の手引6に十分留意の上、適正な開示とされたい。)」
9月17日に県のホームページから公文書開示請求した内容である。
結果は、「上記の期間に「一定の公職にある者等からの提言等に関する対応要領」に基づき作成された「提言等記録票」及び「提言等確認票」はなく、当該公文書を保有していないため」開示できない獅フ通知。

管理職レベルでも既に忘れ去られている要領のため確かに少ないだろうとは思っていたが0とは驚いた。
なぜならば、市町長、県議、県OBなどから県職員(部長、室長、所長、課長だけでなく一般職員含む)に「職務に関してなされた提言、要望、意見その他これらに類する行為」があったならば作成しなければならないことになっているからだ。

無いわけがない。
特に出先の所長のもとにはよく市町や政治家は訪れる。
何の意見も述べないなどということがあろうか。

この制度はそれほど古いものではない。
産廃業者の処分にからむ県議の口利き事件を受けて平成16年に制定されたものだ。
ゆえに、氏名も含めすべて原則公開との取り扱いが示されている。

県にとって不都合なものはわずか4年で忘れ去られるのか。
これも根底には隠ぺい偽装体質がある。

県が外部から受ける意見は、この要綱に基づく文書のほか「県民のこえ記録票」や「口頭記録用紙」があるが、先日、隠ぺいと職員による要約と称する偽装等を指摘異議申立て・意見書提出まで行っている「県民のこえ」の件も隠ぺい偽装体質の象徴だ。
http://navy.ap.teacup.com/hikaritoyami/252.html

昨日の県議会では空港の立木問題を1年前に知りながら議会や県民に知らせていなかったことに関連して大石裕之県議から「(県の)の隠ぺい体質が見受けられる」(朝日新聞)と指摘されたようであるが、トップダウンでしみついた体質は容易には変わらない。裁判中のために真実が答えられないというのも(裁判で)勝つという目的のためなら隠ぺいを是とすることを行政が奨励しているようなものだ。

空しさだけがつのる県政。国政は停滞、県政は冬眠。経済だけは見えざる手に任されている。
逆説的な言い方だが、これが本当の自由経済か。
弱肉強食に耐えられない人々にとっては今は地獄だろう。