さきほど「県政オンブズマン静岡 ~静岡県庁の光と闇~」に論説「県施策における静岡空港の罪過」をUPしました。
県から平成27年度予算の観光・空港関係予算査定資料が届いたので、今後昨年同様これを個々に紹介する前に、その前提知識として皆さんに踏まえておいてほしい事実を書いたものです。
要獅ヘ、空港の存在が県内誘客にとってアドバンテージとなっている訳ではなく、むしろ空港にこだわるあまりハンディキャップになっている現実を、空港のない山梨県との比較で検証したものです。(外国人延べ宿泊者数で、わずか3年で山梨県に大きく逆転されてしまいました)
訪日外国人数全体が増える中で、静岡空港における訪日外国人も増えているため、高揚した情緒的錯覚が起きている現状を、峻厳な現実として冷静に見つめてほしいという意図もあります。
最近、多くの事件が世を騒がせ、その度にそれ以前の出来事が世間の記憶から上書きされるように消えてゆく様を感じています。
まもなく4年目を迎える3月11日ですが、東日本大震災のように定期的に振り返られる例はまれで、多くの出来事は振り返られることなく年単位の日常からさえ忘れ去られていきます。
静岡空港問題(その施策の是非論)もまた、多くの県民にとっては同じく日常から忘れ去られた問題でしかないように感じます。
私たちは望まずにも紛争地域に暮らす人々に比べ、私事以外に無関心であっても何も欠くことがないというある意味平穏な生活環境にあるのですから、この現状もある意味「仕方ない」とも言えます。
しかし、このままでは、これら個人は確実に思考の訓練の機会を喪失して、人間としては退化していきます。
一方で正邪問わず、意思を持つ主体がその間隙を突くかのように、人々を規定する社会的関係性の環境を変えようと動いています。
特定秘密保護法、集団的自衛権、そしてシビリアンコントロールの一翼としてある文官統制の仕組みの改変など、議論を深め総括的説明の受容のないままで、我々の存在を規定するものの一つとして社会に組み込まれていきます。
繰り返される過ちの道程と同じ構造が見て取れます。
では、この道の先に不幸があった場合、それは誰の責任でしょうか。
為政者は決して本当の意味での責任を感じません。それが、民主主義システムの一面だからです。
では、有権者でしょうか。
これも固有の個人に還元され得ないので本当の意味での責任は感じません。
かつての戦争責任もまた同様で、A級戦犯として処罰された人にあっても、(敗北責任は別として)戦争責任を感じて処罰を受け入れたわけではありません。
ここで、責任を感じその結果を受け入れるという主観と責任をとらせるという客観とは峻別すべき事象です。
同じ「責任」という言葉を使いながら話がかみ合わないのはこの別を認識していないことにあります。
このことは、さきに起きたISIによる人質事件の際の政府側からの「自己責任」論争に顕著です。
政府側から言うとき、それは自己の責任を回避・軽減するための後者の意味「責任をとらせるという客観」の意味が強く見て取れますが、一般の人が言うときはある意味主体的個人行動の結果として受容されるべきという自身の信念の投影としての前者の意味「責任を感じその結果を受け入れるという主観」として発言されているように思います。
つまるところ、我々が他者に対して責任を問うとは、後者の「責任をとらせるという客観」という意味においてしかあり得ないのであって、それは現実的には法律上の刑罰であったり、選挙を通じての落選などで行使するしかないわけです。
実際、最近国会で問題になった補助金企業からの政治献金についても、受け取った方が知らなかったと言えば処罰なし、元が国のお金でも天下り法人を迂回させた補充金なら問題なし、などというのは世間一般の常識からかけ離れた仕組みなのですが、これがまかり通っているのは、それが今の法律だからです。
敷衍するならば、諸物諸事象から独立した絶対的善悪などなく、我々は社会的にそれを規定してゆくしかないのです。
その社会を構成する個々の人々の認識力向上とよりよき社会環境構築に向けた不断の努力が必要不可欠であるのはそれ故です。
「投票日には有権者は寝てくれた方がいい」と言った政治家がいましたが、我々が未来に責任を感じるなら、決して寝ている暇などないのです。
県から平成27年度予算の観光・空港関係予算査定資料が届いたので、今後昨年同様これを個々に紹介する前に、その前提知識として皆さんに踏まえておいてほしい事実を書いたものです。
要獅ヘ、空港の存在が県内誘客にとってアドバンテージとなっている訳ではなく、むしろ空港にこだわるあまりハンディキャップになっている現実を、空港のない山梨県との比較で検証したものです。(外国人延べ宿泊者数で、わずか3年で山梨県に大きく逆転されてしまいました)
訪日外国人数全体が増える中で、静岡空港における訪日外国人も増えているため、高揚した情緒的錯覚が起きている現状を、峻厳な現実として冷静に見つめてほしいという意図もあります。
最近、多くの事件が世を騒がせ、その度にそれ以前の出来事が世間の記憶から上書きされるように消えてゆく様を感じています。
まもなく4年目を迎える3月11日ですが、東日本大震災のように定期的に振り返られる例はまれで、多くの出来事は振り返られることなく年単位の日常からさえ忘れ去られていきます。
静岡空港問題(その施策の是非論)もまた、多くの県民にとっては同じく日常から忘れ去られた問題でしかないように感じます。
私たちは望まずにも紛争地域に暮らす人々に比べ、私事以外に無関心であっても何も欠くことがないというある意味平穏な生活環境にあるのですから、この現状もある意味「仕方ない」とも言えます。
しかし、このままでは、これら個人は確実に思考の訓練の機会を喪失して、人間としては退化していきます。
一方で正邪問わず、意思を持つ主体がその間隙を突くかのように、人々を規定する社会的関係性の環境を変えようと動いています。
特定秘密保護法、集団的自衛権、そしてシビリアンコントロールの一翼としてある文官統制の仕組みの改変など、議論を深め総括的説明の受容のないままで、我々の存在を規定するものの一つとして社会に組み込まれていきます。
繰り返される過ちの道程と同じ構造が見て取れます。
では、この道の先に不幸があった場合、それは誰の責任でしょうか。
為政者は決して本当の意味での責任を感じません。それが、民主主義システムの一面だからです。
では、有権者でしょうか。
これも固有の個人に還元され得ないので本当の意味での責任は感じません。
かつての戦争責任もまた同様で、A級戦犯として処罰された人にあっても、(敗北責任は別として)戦争責任を感じて処罰を受け入れたわけではありません。
ここで、責任を感じその結果を受け入れるという主観と責任をとらせるという客観とは峻別すべき事象です。
同じ「責任」という言葉を使いながら話がかみ合わないのはこの別を認識していないことにあります。
このことは、さきに起きたISIによる人質事件の際の政府側からの「自己責任」論争に顕著です。
政府側から言うとき、それは自己の責任を回避・軽減するための後者の意味「責任をとらせるという客観」の意味が強く見て取れますが、一般の人が言うときはある意味主体的個人行動の結果として受容されるべきという自身の信念の投影としての前者の意味「責任を感じその結果を受け入れるという主観」として発言されているように思います。
つまるところ、我々が他者に対して責任を問うとは、後者の「責任をとらせるという客観」という意味においてしかあり得ないのであって、それは現実的には法律上の刑罰であったり、選挙を通じての落選などで行使するしかないわけです。
実際、最近国会で問題になった補助金企業からの政治献金についても、受け取った方が知らなかったと言えば処罰なし、元が国のお金でも天下り法人を迂回させた補充金なら問題なし、などというのは世間一般の常識からかけ離れた仕組みなのですが、これがまかり通っているのは、それが今の法律だからです。
敷衍するならば、諸物諸事象から独立した絶対的善悪などなく、我々は社会的にそれを規定してゆくしかないのです。
その社会を構成する個々の人々の認識力向上とよりよき社会環境構築に向けた不断の努力が必要不可欠であるのはそれ故です。
「投票日には有権者は寝てくれた方がいい」と言った政治家がいましたが、我々が未来に責任を感じるなら、決して寝ている暇などないのです。
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