「県政オンブズマン静岡(静岡県庁の光と闇)~よりよき未来のために~」管理人のブログ

注)teacupブログから移転の2022年5月以前の投稿には、文字コードの違いから多くの文字化けがあります。

2017年を迎えて

2017-01-03 23:22:00 | ノンジャンル
戦争の世紀と呼ばれる20世紀からすでに17年目に入りました。
私たちの世界は、二度と戦争の内容にと起きることのないようにと、様々な仕組みを作り、各国協力して取り組んできました。
その結果、世界はより良くなったのでしょうか。
少しでもそういう方向に向かっていると言えるのでしょうか。
そもそも、私たちが目指しているよりよき世界とはどのようなものなのでしょうか。
今まさに、それが問われる時代に私たちは直面しています。
私は昨年、メ[ランドにあるナチスドイツのアウシュビッツ・ビルケナウ強制・絶滅収容所を訪れました。
「将来、二度とこのような歴史が繰り返されないために」との思いを込めて保存されている場所です
一方で、不幸な過去は早く忘れたい、二度と思い出したくないと思うのは人間の性です。
たとえそれが未来の糧となるようなものであっても、人の精神はそれほど強くなく、傷が深ければ深いほどに、過去は過去として片付けてしまいたいと思うのも無理からぬことかもしれません。
理想や理屈だけで生きられる人はまれで、人はやはり感情や衝動や欲望といった感性で生きています。そして私たちの理屈の多くは大抵後付けのものでしかありません。
だからこそ、人は同じ過ちを幾度となく繰り返し、争いは絶えることなく続いています。
容易に人が人に利用され、戦争、テロ、暴力が引き起こされています。
それは遠い世界の特別なことなのでしょうか。
昨年、アメリカでは、グローバリズムの名のもとに引き起こされた国内の様々な格差への不満から反動的に拡大したナショナリズムを象徴するように、少数民を攻撃対象として喧伝したトランプが、まさに国民によって時期大統領に選出されました。
ヨーロッパでも移民問題を背景にナショナリズムを煽る極右政党が国民の支持を広げています。
その後の歴史はともかく、少なくともその一連の過程には、国民の経済的不満の攻撃対象を少数民に向け誕生したナチスドイツにあった国民心情との類似性を認めるべきでしょう。
ただ、世界が再び寛容と偏狭の曲がり角に来ているというような単純な問題提起は百害あって一利なしです。
いかなる制度の国家にあっても、いかなる仕組みの社会にあっても、それを支える人間一人一人の行動が寛容ならばその程度に、偏狭ならばその程度にならざるを得ず、その程度こそが多様性を持っているからです。
具体的に想像してみてください。
アフリカで今なお飢餓に苦しんでいる人々がいると知って、あなたは救いたいと思いますか。そのために全財産を投げ打つことができますか。
いかなる人にも思いと行動の間には多様性を持った距離があり、それこそがまさに程度です。
私たちはその距離を意識し、その解決の道を探らなければなりません。
少しずつの前進でもいいし、今は出来ないということももちろんあるでしょう。
ただし、無理なんだからとあきらめ、安易に距離を縮めることだけはしてはいけません。認知的不協和な状態からは逃げたいとばかり、思いを否定しそこに理屈という言い訳を用意しては、それこそが自分を否定する偽善であり、厳に慎むべき害悪となってしまいます。
私たちは過去から多くを学ぶことができます。
どのような不幸な出来事からでさえ、ときに我が事のように感じ、反省し、立ち上がれる感性をもっているのが我々人間です。
どのような民主的な仕組みを持った政治体制にあっても、その国民の一人一人が民主主義を理解していなければ民主主義は守れません。平和も同様です。
新年を迎えるに当たって、もう一度本当に自分自身の望むあり方を、理想と現実の間のその立ち位置を振り返ってみてください。
そこから全てが始まります。そこからしか始まりません。

最後に、一つの歴史的過去を振り返ってみましょう。
「こんな(命令と異なる)計画をしても意味はない。私はあまりにも弱かった。これからは命令にだけ従おう。逃げ道はなく、任を逃れようとしても無理でした。服従あるのみ。私の提出する計画など何の役にもたたないことを知りました。つぶされるだけです。」
「私は私に出来ることを全てやりました。私はより強い権力の道具でした。はっきり言って、私は罪を免れたかった。だからそう解釈しました。私にとって、外の要因はさほど関係ありません。自分を守りたかった。」
Q:「良心の葛藤はなかったのか。義務と良心の間の葛藤は。」
A:「私なら分裂と呼びます。意識的な分裂状態です。ある状態から別の状態への逃避です。」
Q:「良心を放棄せねばならなかったと?」
A:「そうと言えます。良心を実行することは出来ませんでした。」
Q:「さもないと自分が責任を負う?」
A:「私がやりませんと言っても、それでどうなるでしょうか。」
Q:「もっと市民的勇気を持てば全ては違っていたのでは。」
A:「確かに、市民的勇気が秩序的に機能する状況であればおっしゃるとおりです。」
「私は命令を受け、人が死のうが関係なく、それに従いました。行政上の手続です。私の任務は全行程のほんの一部。移送に関わる他の部分は他の課が担っていたのです。」
「私たちの生きたあの時代、犯罪が国家によって正当化された時代で、その責任は命令者の側にありました。」
これらの言葉は、ナチスドイツでユダヤ人の移送を担ったアドルフアイヒマンの罪を裁いた彼の裁判での証言です。しかも彼は、ハンナアーレントによれば「真摯に職務に励む一介の平凡で小心な公務員」、裁判の証人においては「穏やかで礼儀正しい普通の役人」と言わしめた、そういう表面的には「普通」の人だったのです。もちろん、彼らを熱狂的に支えた国民もまた「普通」の人々だったのです。あなたの中にまったく彼はいないと断言できるでしょうか。

静岡県の耕作放棄地、知事の解消アピール虚しくさらに増加~2015年農林業センサス~

2015-12-03 22:01:00 | ノンジャンル
今回国が発表した耕作放棄地の数字を見る前に、まずは今年6月8日の知事定例記者会見での冒頭の知事発表から見てみよう。

川勝知事「静岡県では平成21年度から当時12,000haありました耕作放棄地、これを再生するということを決めまして、取り組んでまいりました。そして、平成26年度は1年間で291haが再生されまして、平成21年度からの累計で2,613haの耕作放棄地を再生いたしました。平成26年度までの耕作放棄地再生目標は2,600haでございましたので、これを達成したということです。」「これをあえて発表項目に入れましたのは、先週末、静岡朝日テレビの方でちょっと誤解があってですね、静岡県下に12,000haもの耕作放棄地があるという中身の報道がなされました。これは情報のそれぞれのやり取りに不備があったということで、今週初めに静岡朝日テレビの方はこの内容を簡潔にまとめた報道をしていただきまして、静岡朝日テレビ、今日来ておられるでしょうか、きちっとした対応をしていただきましてありがとうございました。」「私どもは12,000haもともと全部耕作地に変えるつもりでいましたが、それが不可能であることも今分かっています。ですからますます困難な所を耕作地に変えるためにだんだんと伸び率が低くなっているわけですが、それは数字としてはですね、数千haの耕作放棄地があるということで皆さま方もまた報道ができるかと存じますけれども、その実態に対しましてよく取材をしていただいて、正確な報道をこれからもぜひ、していただきたいというふうに思う次第であります。


これは、今年6月4日の夕方に静岡朝日テレビが耕作放棄地が増えていると特集で報道したことに知事が激怒し、翌日の放送で平成26年度までに2,613ha解消したという県の実績をアピールする内容を追加報報道してもらったたことを受けての会見である。
知事にとっては、数少ない実績のアピールャCントである耕作放棄地の解消について、ケチをつけられた、という思いが強かったのであろう。
実際、県議会においてもこれまでたびたび耕作放棄地解消については全国で銅メダル銀メダルの実績だなどとその成果を強調してきたのであるからなおさらである。

ところが、蓋を開けてみたら、何と静岡県の耕作放棄地は増えていたのである。
では次に、その結果を見てみよう。
なお、今回国が発表した「農林業センサス」は5年に1回行われる全国調査である。
東日本大震災により東北地方では耕作放棄地が約2割も増加しているため、単純に全国値との比較は難しいので静岡県隣接の県と比較してみたのが次の表である。

知事の言葉とは裏腹に、「数千haの耕作放棄地」では済まず、前回を上回る万単位の耕作放棄地での発表となったのである。
(ちなみに、長野県で耕作放棄地が大きく減少しているのは山間部の農地の特性として山林(苧ム)原野化し農地ですらなくなったことによる非農地化や公共事業による転用が主要因と思われる)

また、耕作放棄地は増えても解消した分だけ経営耕地面積(耕作している農地:自作地+仮受耕地)が増えているならまだいいのだが、これも以下のとおり状況は悪化しているのである。


ではなぜ減ったと言っていた耕作放棄地が増加したのか?
実は、この答えは既にこのブログで明らかにしているのである。
2013/11/3「想像力の欠如、ダブルスピーク拡散の先にあるもの」
2013/8/14「県実績誇張への疑義、公開質問と回答の紹介」
要約すれば、県が解消してきたと言っている「耕作放棄地」は県が独自に定義したものであって、国が定義した「耕作放棄地」ではなかったということなのである。

県は朝日テレビの報道の翌日、以下のようにホームページでも解消成果を強調しているが、これも、いずれわかる嘘であっても知事から成果を求められれば今この時だけであっても成果を見せたいという役人の「さが」というものなのである。



知事はまさしく「裸の王様」だったのである。

またもや県職員の不適正事務で県民が損害負担

2014-10-09 18:08:00 | ノンジャンル
県は7日に「源泉所得税等の自己点検の結果」という報道資料を公開した。
内容は「自己点検の結果、一部の所属で10人(18件)、196万円余の徴収不足が判明した。」というもので、一見すると、事務の不適正があったことは分かるものの、県民に損害が及ぶとは見えないものだ。
ところが、その後の報道によれば、一部の事務所というのは沼津、富士、静岡、袋井の4土木事務所であり、源泉徴収漏れの分は報酬を支払った相手方から徴収して納めるものの、県が徴収漏れをしたことで納期に遅れたため納めることとなる「不納付加算税」65500円と「延滞税」61600円については、県が県民の税金で補填するとのことである。
つまり、現在県議会で審議中の県くらし・環境部水利用課による「虚偽報告や事務放置で1億8千200万円の損害を県民に与えた県職員に停職6か月、賠償1割の軽い処分で幕引き」事件同様の無責任公務員のつけを一般県民に押し付ける構図が再び繰り返されそうなのである。

問題なのはこれをだれもが他人事のように思っている意識構造である。
前回の水利用課の際の損害額は県民一人当たりにして48円程度であるが、もしこれを県民から直接徴収すると言ったら、なぜ県職員の不適正事務の損害を納めなければならないのかと苦情が殺到するはずである。
しかし、県予算という中から払うと言えば、今のように苦情を誰も申し立てないのである。
実際、税金が来年この分増えるかというとそれもない。
なぜならば、今ですら国と地方の借金は将来世代のつけになって現役世代は負担していないのであるから、将来世代の借金が何倍になろうが、それに伴って国家規模で財政破綻するなどして経済が混乱しない限り、他人事でしかないのである。
ゆえに、納税者である県民も、それを預かる県も、国から以下に予算をとるかは考えても、預かった税金を大切に使うなどという意識は働かなくなるのである。
まして、今回の損害は一人当たりにしたら1円にも満たない。県としては大したことではないとの認識なのだろう。

県行政においては、不適正事務が止まないだけでなく、倫理観の欠如がより促進されることであろう。
本来県民に代わってそういう問題を追及すべき議会ですら、以下の議案を素通りさせようとしているのだから、まさに自虐的状況である。

<国家賠償法>
第一条  国又は公共団体の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によつて違法に他人に損害を加えたときは、国又は公共団体が、これを賠償する責に任ずる。
2  前項の場合において、公務員に故意又は重大な過失があつたときは、国又は公共団体は、その公務員に対して求償権を有する。
(注:つまり、1割の求償で良いなどとは規定していないのだが・・・。)

虚偽報告や事務放置で1億8千200万円の損害を県民に与えた県職員に停職6か月、賠償1割の軽い処分で幕引き

2014-09-03 19:59:00 | ノンジャンル
県は今日、担当職員が申請に必要な書類を約半年間放置し、大井川流域の7市に水道水を供給する「県大井川広域水道企業団」(島田市、石川俊一企業長)が 進めている調整池の工事などに、厚生労働省から交付されるはずだった補助金約1億2800万円が受け取れなくなった」事件(http://navy.ap.teacup.com/hikaritoyami/993.html)について職員の処分を公表した。
また、受け取れなかった補助金相当額128,405千円に51,795千円の損害金を加えた1億8千200万円を、県民の税金で肩代わりして「県大井川広域水道企業団」に支払うこと、及び、うち1割だけ主犯の職員に請求することも併せて発表した。

処分の内容は、
メール等の公文書を偽造したり、虚偽の報告を行うなどした主犯の職員は氏名非公表の上で、停職6か月。これにより、職員は定年まで職務を続けることもでき、退職金も退職時には満額出ることとなる。
また、当時の上司らには文書戒告や厳重注意など形式的な処分のみ。管理監督責任というものの「軽さ」が浮き彫りとなった。
これらのことから、この静岡県庁という組織においては、責任を責任として自覚する組織風土がないということが明らかとなった。
たびたび言われる、空港事業の失敗の責任を誰も取らないこと、さきの住民監査請求事件で違法な事務をしながらも無処分・無責任で済まされる現実、これらを振り返れば、今回の民間の感覚から乖離した組織防衛的無責任体質の発露としての甘い幕引きも容易に想像できよう。

人が自分の行動に責任を感じるためには、その行動が主体的な自己から生じたと感じなくてはならない。
結局、静岡県庁という組織体は「自分を導く権威に対しては責任を感じるのに、権威が命じる行動の中身については責任を感じない」(「服従の心理」スタンレーミルグラム)というぬるま湯環境に依拠し自律できない人種の集合体に過ぎないということである。
ゆえに、そこから破壊的・破滅的なものは生じ得ても、真に創造的なものは生じ得ないのである。
損するのは主たる責任もないのに無責任公務員のつけを一身に払うこととなる一般県民のみだ。