思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

「さん、君、先生」公共空間における呼び分けは非民主的ー小林正弥さん批判

2010-07-28 | 恋知(哲学)

わたしは、議論する人をMLから除名してしまう小林正弥さんの非民主的な思想→態度は、他者に対する「差別的な呼び分け」に端的に見て取れると思い、

「小林さんは、公共空間においてさえも、【さん、君、先生】と呼び分ける。
これは「民主的公共性」とは無縁の行為であることが分からないのですか。
武田」
とメールしました。

すると小林さんは、
「小林です。
呼び分けの件については
地球平和公共MLで議論になったことがあります。おそらく山脇先生もそうでしょうが、
私に「さん」で呼んでほしいと言われる先生方もおられます。
しかし、敬語はその方に対する自発的な敬意の現れですから、
私が尊称をつけてお呼びすることは私の自由であるべきだ、と主張しました。
「さん」で統一するという考え方の方が私は自由に反していると思います。
この考え方は現在も変化ありません。」
と返信があったので、

わたしは、呆れて次のようにメールしました。

小林正弥さん
わたしは、あなたの「個人領域における自由」について問題にしているのではなく、「公共空間における言辞行為」の話をしているのです。両者は、次元が異なる世界です。議論の場である会場やMLなど、対等・自由を根本理念とする「民主的公共性」の時空においては、その主催者が対等・自由の理念を現実に実践しなければならないことは論を俟ちません。
これは、比喩として説明すれば、信号機のシステムと同じで、民主主義における対話・議論の根源ルール・共通ルールなのですからね。
いまからでも改めるべきでしょう。
武田康弘

それに対しては、
「拝復
私も公共領域における話としてお答えしました。公共領域における「さん」への統一に私は反対しています。
小林正弥」
と簡単な返信がありましたので、わたしは、続けて以下のように批判しました。

ーーーーーーーーーーー
小林正弥さん

なるほど、小林さんは、「公共空間」においても他者への呼びかけに「差」をつけるのをよしとするのですね。
そうなると、小林正弥さんは「差別」を肯定する人ということになります。
公共の場においても人への敬称に段階をつけるのを「正しい」行為だとするのでは、民主的倫理に基づく民主的公共性を広げる運動のリーダーとしては相応しくないと思いますが、いかがですか?

どうも「公共哲学」とは、元来民主的なものではないようですね。序列は当然で、ハーバードや東大が偉い、ということでしょう。そうだとすると、「公共哲学」の本質は天皇主権と変わりませんね。どうやら、小林さんらはその差別的体質を糊塗するために南原繁や丸山眞男を賞賛・研究でしているようです。東大総長や東大法学部の教授は武田さんより偉い?わたしは対等だと思っていますが(笑・当然)。
これでは、はじめから「熟議」は成立しません。差別主義による熟議では笑えない笑い話です。

ともあれ、呼び分けられた人の気持ちを考えるという「他者の尊重」がないのでは、みなの力による運動はできないのです。代表者がこれでは、はじめから負けているのですよ。

自由と平等を原理として生きる武田康弘より。
ーーーーーーーーーーーーーーー

わたしは、現代における公共性の追求は、民主主義を原理とする以外にはありえない、との不動の確信を持っていますので(文京区立・誠之小学校での「政治クラブ」活動以来47年間)、議論や対話を行う公共的な場における差別的な呼び分けは、民主的倫理に反し、民主主義を現実化する上において大変よくないことだと思います。

みなさんはいかがお考えですか?


武田康弘

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コメント

がんがらがんーアジアへの玄関 (すかぶら)
2010-07-29 18:30:56

「呼び捨て、さん、君、先生」
論議の前に決めつけてたら話にならないでしょう?
古い博多弁で、がんがらがんと云う言葉があります。
互いの違いを認めフィフティフィフティだから
お互い様で同じ事と云う意味です。
そんな気質がアジアに向けた玄関となり得たのかも?

ーーーーーーーーーーーーーーーー

呼び分けは、多様性を奪う (タケセン)
2010-07-29 21:06:45

日本語における人称・呼び名の多様性こそは、個々人の多様性を元から断つ恐るべき詐術なのでしょう。

これは、レッテルを貼るのと同じ思想で、対等な関係性を認めず、尊敬すべき人、品位が低いと切り捨てる人、その中間の人、自分の配下の人・・・と区別→差別するものです。わたしとあなたは同じ価値を持つという平等思想を育てず、社会的役割によって人間存在の価値に上下をつける行為です。個々人の生のよろこびを消去する悪しき日本主義ですが、右も左も、どこかに「正しさ」の標準型があると信じる「弱い」精神がもたらす悪弊です。
内容そのもので優劣を競うことを恐れる精神は、悪しき惰性ー人間関係の固定化を願うのでしょう。
対等には耐えられない!(笑)。

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民主主義の基本が身についていないことの証明 (荒井達夫)
2010-07-29 23:52:45

「敬語はその方に対する自発的な敬意の現れ」というのも変ですが、だから、「私が尊称をつけてお呼びすることは私の自由」というのは、もうめちゃくちゃな論理ですね。

民主社会の「公=公共」の場においては、「すべての参加者が対等であること」を徹底して意識し実践する必要がある。これが肝心です。

その意味で、呼びかけ方を同じにすること「さん付け」が不可欠となる。そういうことでしょう。

呼ばれる側の者の気持ちを無視して、自分の都合だけで「さん、君、先生」を使い分けることが不当であり、「差別」につながるということが、理解できない。これは、民主主義の基本(民主的な倫理・品性)が身についていないことの証明です。

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「さん」付けの徹底を。 (this boy )
2010-07-30 00:18:56

私はどんな場所においてもどんな立場の人でも
同じ呼称で呼ぶべきと考えます。
それで「さん」付けを徹底しています。

私の現在の会社は超保守的で役職で呼ぶんですが
それがいやで溜まりません(苦笑)

先生と敢えて呼ぶのは学校の先生ぐらいです。
あまり呼びたくありませんが・・・・・。

医者、議員、弁護士、会計士等々を「先生」付け
で呼ぶ人の気持ちが理解出来ません。

特に議員は絶対先生とは呼びたくありませんね。

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最低、滑稽。 ( C-moon )
2010-07-30 00:21:14

公共空間で、呼び分けするのはおかしな話ですね。
明らかに意識的な差異、それも”レベル”差異を抱いているからだと思います。

この国ではまだまだ、天皇を神と崇めていた頃の、聖と賤の構図が、形を変えながら意識の底に残っているようです。

そして何かと、聖に近い場所に見を置きたがるのが悪い癖で、政治家同士が「先生」「先生」と呼び合っているくらい、馬鹿げた、最低で、滑稽な姿はありませんね。
たぶん、小林正弥さんも、そんなところに身を置きたい、「先生」と呼ばれることで、あたかも聖に近いところにいるのだと、気持ちよく錯覚しているのだと思います。「代議士先生」も然り!

「代議士先生」に公共空間で「C-moon君」なんて呼ばれたら、初めから諦めているから腹は立たないせよ、「この程度か」と思います。
僕は国会議員でも直接「~さん」と呼んでいます。その方は「先生」と呼ばれるより嬉しいみたいです。

「先生」と呼び合っている政治家に民主政治は期待できませんね。

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私の経験からー強烈な序列意識 (古林 治)
2010-07-30 00:42:10

私の経験から。

有名な東大医学部教授を筆頭にした医療プロジェクトにかかわったことがあります。
プロジェクトに群がる人々(教授、学生、業者)は教授を先生と呼び、批判はもちろん異論反論は一切なく、皆でご機嫌伺いするという構図。
上位者に従えば(服従すれば)、利得が得られるという何とも浅ましい姿がありました。
異論反論を申し立てる数少ない人々は煙たがられます。私もその一人でした。
当然のことですが、プロジェクトは本来の軌道を外れ、段々おかしなことになり、最後は空中分解に近い形で終わりました。
教授は一切責任を取らず、プロジェクトにかかわった業者(役員全員が東大出)は逃げ、残った数少ない人だけで後始末をしました。私もその一人でした。
同じく東大コンピュータ・サイエンスの有名教授を頭にしたプロジェクトがありましたが、こちらも内実は同様でした。(私は一週間の徹夜を強いられ体を壊してしまいました。)

一体どの時代の話かと思ってしまいますが、これが閉鎖集団の中ではむしろ普通なのかもしれません。当事者たちに序列意識の自覚がまったくないことに唖然とさせられます。

私の実体験からして、少なくとも、内容について語ろうという場では、序列意識を廃さなければ創造的な活動は絶対に出来ません。それにはまず呼称に留意することからはじめるべきでしょう。

ついでに言えば、ある市議会議員に頼まれて後援会会長を引き受けたとき、選挙運動に集まった市民の間でも、いつの間にか序列が出来てしまい、あきれたことがあります。仕事の役割分担上、上下関係が出来ることはありますが、それが人間関係の上下関係になってしまうのです。それはもろに呼称に表れていました。呼び捨てでこき使われる人が何人か出てきたのです。この空気をぶち壊すのはひどく大変なことでした。私が最初にやったのは、私自身を会長と呼ばず、「さん」づけで呼ぶように依頼したことでした。

ちなみに、先日、ノーベル賞学者二名を出した坂田研究室の坂田教授は自由闊達な議論を妨げる序列関係が出来ないよう、日常生活でも相当な努力をされていたと聞きました。さもありなん、です。

日本人の集団内では、序列意識を廃する意識を相当強く持たないと自由闊達な議論は不可能だと確信しています。議論の場では対等な呼称を利用するべき。
当たり前と思いますが、公共哲学を語るなら、まずそこから始めるべきでしょう。
授業聞くわけじゃないんだから。
あ!そうか。彼らは下々に教え諭す構えなんですね。
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がんがらがんーアジアへの玄関 (すかぶら)
2010-07-29 18:30:56
「呼び捨て、さん、君、先生」
論議の前に決めつけてたら話にならないでしょう?
古い博多弁で、がんがらがんと云う言葉があります。
互いの違いを認めフィフティフィフティだから
お互い様で同じ事と云う意味です。
そんな気質がアジアに向けた玄関となり得たのかも?
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呼び分けは、多様性を奪う (タケセン)
2010-07-29 21:06:45

日本語における人称・呼び名の多様性こそは、個々人の多様性を元から断つ恐るべき詐術なのでしょう。

これは、レッテルを貼るのと同じ思想で、対等な関係性を認めず、尊敬すべき人、品位が低いと切り捨てる人、その中間の人、自分の配下の人・・・と区別→差別するものです。わたしとあなたは同じ価値を持つという平等思想を育てず、社会的役割によって人間存在の価値に上下をつける行為です。個々人の生のよろこびを消去する悪しき日本主義ですが、右も左も、どこかに「正しさ」の標準型があると信じる「弱い」精神がもたらす悪弊です。
内容そのもので優劣を競うことを恐れる精神は、悪しき惰性ー人間関係の固定化を願うのでしょう。
対等には耐えられない!(笑)。
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民主主義の基本が身についていないことの証明 (荒井達夫)
2010-07-29 23:52:45
「敬語はその方に対する自発的な敬意の現れ」というのも変ですが、だから、「私が尊称をつけてお呼びすることは私の自由」というのは、もうめちゃくちゃな論理ですね。

民主社会の「公=公共」の場においては、「すべての参加者が対等であること」を徹底して意識し実践する必要がある。これが肝心です。

その意味で、呼びかけ方を同じにすること「さん付け」が不可欠となる。そういうことでしょう。

呼ばれる側の者の気持ちを無視して、自分の都合だけで「さん、君、先生」を使い分けることが不当であり、「差別」につながるということが、理解できない。これは、民主主義の基本(民主的な倫理・品性)が身についていないことの証明です。
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「さん」付けの徹底を。 (this boy )
2010-07-30 00:18:56

私はどんな場所においてもどんな立場の人でも
同じ呼称で呼ぶべきと考えます。
それで「さん」付けを徹底しています。

私の現在の会社は超保守的で役職で呼ぶんですが
それがいやで溜まりません(苦笑)

先生と敢えて呼ぶのは学校の先生ぐらいです。
あまり呼びたくありませんが・・・・・。

医者、議員、弁護士、会計士等々を「先生」付け
で呼ぶ人の気持ちが理解出来ません。

特に議員は絶対先生とは呼びたくありませんね。
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最低、滑稽。 ( C-moon )
2010-07-30 00:21:14

公共空間で、呼び分けするのはおかしな話ですね。
明らかに意識的な差異、それも”レベル”差異を抱いているからだと思います。

この国ではまだまだ、天皇を神と崇めていた頃の、聖と賤の構図が、形を変えながら意識の底に残っているようです。

そして何かと、聖に近い場所に見を置きたがるのが悪い癖で、政治家同士が「先生」「先生」と呼び合っているくらい、馬鹿げた、最低で、滑稽な姿はありませんね。
たぶん、小林正弥さんも、そんなところに身を置きたい、「先生」と呼ばれることで、あたかも聖に近いところにいるのだと、気持ちよく錯覚しているのだと思います。「代議士先生」も然り!

「代議士先生」に公共空間で「C-moon君」なんて呼ばれたら、初めから諦めているから腹は立たないせよ、「この程度か」と思います。
僕は国会議員でも直接「~さん」と呼んでいます。その方は「先生」と呼ばれるより嬉しいみたいです。

「先生」と呼び合っている政治家に民主政治は期待できませんね。
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私の経験からー強烈な序列意識 (古林 治)
2010-07-30 00:42:10
私の経験から。

有名な東大医学部教授を筆頭にした医療プロジェクトにかかわったことがあります。
プロジェクトに群がる人々(教授、学生、業者)は教授を先生と呼び、批判はもちろん異論反論は一切なく、皆でご機嫌伺いするという構図。
上位者に従えば(服従すれば)、利得が得られるという何とも浅ましい姿がありました。
異論反論を申し立てる数少ない人々は煙たがられます。私もその一人でした。
当然のことですが、プロジェクトは本来の軌道を外れ、段々おかしなことになり、最後は空中分解に近い形で終わりました。
教授は一切責任を取らず、プロジェクトにかかわった業者(役員全員が東大出)は逃げ、残った数少ない人だけで後始末をしました。私もその一人でした。
同じく東大コンピュータ・サイエンスの有名教授を頭にしたプロジェクトがありましたが、こちらも内実は同様でした。(私は一週間の徹夜を強いられ体を壊してしまいました。)

一体どの時代の話かと思ってしまいますが、これが閉鎖集団の中ではむしろ普通なのかもしれません。当事者たちに序列意識の自覚がまったくないことに唖然とさせられます。

私の実体験からして、少なくとも、内容について語ろうという場では、序列意識を廃さなければ創造的な活動は絶対に出来ません。それにはまず呼称に留意することからはじめるべきでしょう。

ついでに言えば、ある市議会議員に頼まれて後援会会長を引き受けたとき、選挙運動に集まった市民の間でも、いつの間にか序列が出来てしまい、あきれたことがあります。仕事の役割分担上、上下関係が出来ることはありますが、それが人間関係の上下関係になってしまうのです。それはもろに呼称に表れていました。呼び捨てでこき使われる人が何人か出てきたのです。この空気をぶち壊すのはひどく大変なことでした。私が最初にやったのは、私自身を会長と呼ばず、「さん」づけで呼ぶように依頼したことでした。

ちなみに、先日、ノーベル賞学者二名を出した坂田研究室の坂田教授は自由闊達な議論を妨げる序列関係が出来ないよう、日常生活でも相当な努力をされていたと聞きました。さもありなん、です。

日本人の集団内では、序列意識を廃する意識を相当強く持たないと自由闊達な議論は不可能だと確信しています。議論の場では対等な呼称を利用するべき。
当たり前と思いますが、公共哲学を語るなら、まずそこから始めるべきでしょう。
授業聞くわけじゃないんだから。
あ!そうか。彼らは下々に教え諭す構えなんですね。
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