思索の日記 (クリックで全体が表示されます)

武田康弘の思索の日記です。「恋知」の生を提唱し、実践しています。白樺教育館ホームと共に

胸を締め付けられ、怒りが湧き起こる。幼子のけなげさと、躾と称する大人による子どもへの抑圧・体罰

2018-06-07 | 教育

以下は、東京新聞一面です。2018年6月7日朝刊

 


言葉がない。あまりにも哀しい。

 

このような悲劇の背後には、こどもは、「おどけ・いたずら・悪さ・ふざけ」(これが健全な証)などを経て、段々と成長するもの、という原理を知らない歪なニッポン主義の教育思想があります。幼稚園児に教育勅語を暗唱させ「礼儀正しく!?」させる教育を「すばらしい!」と礼賛した安倍明恵さんやその夫である首相、自民党文教族や有力議員たちの想念であり思想です。

狂った思想による教育改革が安倍政権のもとで進んでいます。安倍晋三の親友でウヨク思想家の八木秀次(麗澤大学教授)は、厳しい「躾」の強化=愛国主義教育の推進=子どもの人権否定という路線で、政府の教育改革をすすめる中心者の一人ですが、子を親の所有物のように見て、躾と称して子どもを抑圧する(国連の「こどもの人権」条約違反)ことが日本では日常茶飯事で、ふつうに行われています。ボディーランゲージやスキンシップを基本にした広義の対話によるのではなく、大人の意思を叩きこむ。

死亡事件にまでなってはじめて取り上げられますが、ソフト化した形で、同じ思想による子育て・教育が蔓延しています。

それは、政府の思想(戦前回帰のウヨク思想=八木秀次の主張する、日本をダメにしたのは人権思想であり、とりわけ子どもと女性の人権である」「個人というのは不毛な概念であり、家族の一員、国家の一員という自覚を植え付けるのが教育である」)が背後にあるからと言えるでしょう。森友の教育勅語暗唱の幼児教育を礼賛しいた安倍夫妻や自民党議員たちの所業により、誰もが知る通りです。

戦前の「明治維新による天皇政治」の狂気性、警察や検察による自由の弾圧や拷問や殺人、非国民という言葉での人権無視と個人の思想の抑圧、それを背後にした戦争政策への反省はなく(安倍首相は戦前の思想と行為の日本への批判は一度もしない)、逆に戦後民主主義への批判だけを行う異様・異常な状況が続きますが、そういう精神風土を背景にして、幼子やこどもたち(中学生の世界に例をみない長時間拘束の部活動は象徴)の受難は今日も続きます。

しかし、はじめから「自由」を奪われていると、豚が飼育小屋で十分な餌を与えられ、小屋の中で好きに動ければ文句がないように(笑・嘆)、やがて、大きな自由を奪われていることに慣れ、それでよいと思い込むまでになります。「精神の自由」とはどういうことかさえ分からない人間に育ち、それを再生産するオトナになるのです。上位者にはまことに都合のよいニッポン人の出来上がりですが、人間はほんらいそういう存在ではありませんから、必ず、オゾマシイ出来事が起きます。全部パーになりるでしょう。

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 おどけ・ふざけ・いらずら・悪さもして、親を手こずらせる「子どもらしい子ども」をではなく、親や教師の言う通りの「いい子」でいることを要求する子育てや教育は、

 『教育勅語』を暗唱させられ、ビシッと躾の行き届いた森友の幼稚園児を見て、「すばらしい子どもたち」「理想的な教育」と絶賛した安倍首相夫人の明恵さんや、教育勅語を礼賛した多くの自民党議員の思想とピタリと符合しています。

 今回の事件に限らず、幼少期→こども時代における教育を「躾」と称してして厳しくすることが多くなってきましたが(死にまでは至らしめなくとも)、なぜそういう傾向が強くなってきたのかといえば、「子どもの特性」を認めず、早くから躾けることが正しい、大人の言う通りにするのが正しい、という復古的な思想の蔓延が、大きな原因の一つです。

 第一次安倍内閣で、安倍首相は教育改革を最大の柱と位置付けて「教育基本法」の改定をしましたが(その改定には公明党の故山下栄一さんが強く反対しましたが、押し切られてしまいました・参議院行政監視委員長室で彼から直接聞きました)、その改革の方向性は、『こどもの人権』を守るのとは逆に、個よりも国家を優先させる思想によっています(それは、自著「美しい国へ」改訂版は「新しい国へ」-内容はほとんど同じーに記載されています)。

 こういう痛ましい出来事は、たまたま偶然に発生したのではないのです。それはこの種の事件が頻繁に起きることで明らかですが、ありのままのこどものありようを認め、肯定し、愛するところから出発せず、「あるべき」姿や型を生身のこどもたちに押し付ける教育に深因があるといえます。たとえ、政治的には野党支持者であっても、受験主義に代表されるように子どもを鋳型にはめるのをよしとする人も大勢いますから、保守主義者だけの問題とはいえません。

 ただし、安倍内閣に集う人の多くは、「日本会議」に所属しているのでもわかるように、上記の【復古的な教育思想】の持ち主であり支持者であることは確かですから、一連の「こどもの人権」軽視のできごとへの【思想的責任】があるのは明白といえます。思想の責任は、暗黙のうちに具体的事象を支配しますから、極めて重たいのです。


武田康弘

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