以下は、公共哲学MLに出したメールですが、昨日の話(この下のブログのつづきです)
私は、自分の主観をあっけらかんと話すことのできない精神風土、客観神話に囚われ、「正解」への強迫観念の下で根源的な不幸の生を営む私たち日本人の問題を主題にしてきました。それは、政治的な左右というレベルの話をはるかに超えている問題です。
その解決には、従来の客観学の深化・拡大では到底不可能で、新たな主観性の学が必要だ、と考えています。それが従来の「哲学という学」の枠組みをおおきく越えて、広くふつうの人々の生活世界の中から昇り来る声(黙せるコギトー)に答える民知(その核になる自覚性の強い知的営みが恋知)だ、というのが武田の思想です。しかもそれを誰か(知的エリート?)が代弁するのではなく、誰でもが実践するーできるものにしていこう!という知の運動―私が30年間細々としかし圧倒的な自信をもって(笑)遂行してきた当のもの、それを「民知」と名づけた(命名は数年前にすぎませんが)というわけです。
客観主義と主観主義という双方の不毛性を越えていくためには、わざと徹底して主観に就きそれを掘り進める営みが必要で、独我論からの脱却には、それ以外の方法はないという見切り(それは認識論の原理です)があるのです。ついでに言えば、独我論が困った問題なのは、それが客観的な不正解!?だからではなく、生の悦びが減じてしまうからです。
最悪の独我論とは、「客観的真理」を信じる主観だ、というのが私の見方です。どのような思想も原理上「主観」にすぎない、という深い自覚が普遍的な納得をつくるための「はじめの一歩」であり、この原理を手放さずに思索を重ねることが必須だ、そう考えています。
はっきりと堂々と「主観」(主観しかないのですから)を主張し合う面白さは、体験的にしか学べません。権威によって強要される客観学という神話に縛られていては何事も始まらないのです。絶対者―特権者がいないのが民主制社会です。民知(恋知)は、民主制を支え・つくり、民主制は民知(恋知)を保証するというわけです。
「宗教」や「学の権威」を超えた世界的な普遍性を生み出す営みを私たちの生きる場―日本から始められたら素敵だと思います。
2006年1月12日 武田康弘