きぼう屋

生きているから生きている

説教

2009年12月09日 | 教会のこと
今週の礼拝説教は
講解説教をしました。

普段は
講解説教的なものを用意し
そこから京都教会による福音書という物語を築くところまでして
説教となるのですが

そこまで行きませんでした

しかし
えらい評判がよくて戸惑っています

また午後の執事会で
礼拝に仕事でこられず朝の講解説教を聞かれていない方が
まったくそのことを知らない時点で
講解説教がいい
といわれたりもして

ますます戸惑っています

どう戸惑っているのかというと

ならばこれから講解説教にすれば
作業も楽になるし
評判がいいし
そうしたほうがいいのかなあ

ということではなくて

生々しいキリストの働きが物語られるということに
耳や体が慣れるということは本当にむずかしいことなのだ
と改めて知らされたから

戸惑っています

だから

もっと真剣に
キリストの働きを生生しく物語りつつ宣言する説教を
プロとしてつくらねばならないと
気を引き締めつつ
しかしウキウキするのでした

説教って
むずかしいねえ