きぼう屋

生きているから生きている

十字架に生かされる

2009年12月03日 | 教会のこと
佐々木和之さんが泊まってくれたこの三日間は
僕のこれからの職務と生活に
じわじわと影響してくると思います

音声になったものと沈黙のままのものが
いろいろと交わされ
それのいずれもが足腰にねばりのあるものだったという感触がしっかり残っています

それがこれから少しずつ
見えてくるだろうと思います

彼と私がなんとなく響きあうひとつは
育った境遇に似たものがあることだなあと思いました

身に染み付いているもので言葉にしなくても伝わるというもの


牧師の家系で
しかも
有名な牧師の家系で
それは
賞賛もされしかし相当に非難もされた牧師の家系で

そういうものを背負いつつ生きるという大変さと自由さの中で生き様を選択する・・・


とりわけ今回は他ではなかなか語ることができない
そういう家系だからこその
深い心理面への影響まで含めた分かち合いは
十字架を今一度生々しい出来事として掘り起こす作業でしたが
わたしにはとても有益でした

でも彼は私と違いあれほどまでの働きを担っています

聖書から頂く信仰、精神性、倫理など
また歴史の見方、思想の見方などまで
さらに深く掘り起こしてさらに幾重にもかぶせてという
決してひとつの結論にとどまらないという
とっても近いものがあるのに

私は彼のような働きを担う勇気が出てきません


どこがちがったんだろう・・・

ひとつ気づいたのは

彼は交わりに生き続けているけど
わたしは個人主義を奨励され信仰していた時期があったということ・・・

私は15から25くらいまで個人主義者だったということが
自分の担うことができる働きの幅を実は狭くしているということは丁寧に見ていきつつ
そこをさらに突破していくことを祈らねばならないと思いました

過ぎ去った過去は変えられない!
とは私は考えていません

過去はキリストにより変えられます
過去にさかのぼり
そこでキリストと出会っていた
という事実を今経験し
それによる歴史が誕生します

わたしはもっと真剣に
15から25くらいの時期の歴史におけるキリストの働きを祈り求め
時空を超えるキリストに期待したいと思います


そのあたりのことがよくわかったのは
彼は彼の心に住んでいる人がとてもたくさんいるということ
話をする中でそういう人たちへの思いと愛が語られるということ
を目の当たりにしたことからです

私の心に誰も住んでいないということではないけれども
あれだけのハードスケジュールの中で
ひとりひとりを想起することができるというのは
私から見たら驚異でした

でもその出来事と出会って
はっきりとわたしの次のすべきことが見えました


かつてわたしは
心に住むひとたちを想起することで
自分自身の心身が持たないという経験をしました

私は心に他者が住むという事実と
しかしそれが私に与える十字架とのはざ間で
限界を知って
ゆえに神に赦しを願う

と考えていたし実際に歩んできました

それはまったくそのとおりなんですが

しかし
他者を想起して他者に迫られることが心身をつぶすほどの十字架であるということは
個人主義者だったからこその感触であり
交わりに生きる決断をしている今ならば
もしかしたら異なるのかもしれないと思いました

つまり
交わりに生きるとき
他者を想起するという十字架が同時にキリストの十字架であり
キリストの十字架であるゆえに
実は私の心身をつぶすのではなくて心身を生かす
ということをすこしばかりつかめそうな気がしているわけです

生かすとは言っても
十字架を背負うという困窮度が変わるわけではなく
ますます増えるわけですが
そして
佐々木さんの背負う深い困窮を
時に背筋の筋肉を緩めたら涙がでるという状況で
受け取ったわけですが

(今回、感情移入をなにしろ避けるという行為の重要性を分かち合いました
 他者との共鳴に感情移入は欠かせないのですが
 感情移入を避けねばならないときがあり、
 避けるゆえになおかかわることができるということがあるのです)

しかし
それでも
それでこそ
つぶれるのではなく生かされる!
のです

となると
今回佐々木さんが京都に来られたのは
ただのスケジュールではなく
聖霊の導きだったと信じるしかなくてうれしいです

彼が火曜日の講演で言っていましたが
彼は昨年私に京都に行きたいけど手伝ってくれないかと連絡するものの私に断られたとのことでして・・・

それを聞いて思い出しました
確かにいろいろと忙しくて断っておりました

となると
だからこそ
昨年ではなく今年じっくりと一緒に過ごせたのは
聖霊の導きと言ってもいいわけだ
と思うわけです


キリスト者の奉仕というのは

やっぱり

他者と共に
交わりとして
生きる

ということであり

そのための奉仕なのだと思いました

どれだけ心に他者が住むか
それは心にキリストが住むからこそ
聖霊がその心に他者を導いてくれる
ということ


佐々木さんはますますたくさんの他者と出会い
しかも
ルワンダの歴史の十字架を共に背負うという仕方で出会うわけですが

彼ならほんとにそれができるし
彼だからこそ主が託しているし

だからこそ
私も彼をこれからも覚えて祈り支えたいし

私もこの地で同じ仕方で出会いつつける決意をしたいと思いました

感謝