今週の週報巻頭言です。
****************
「新」
みなさま、クリスマスおめでとうございます。
共にこの日を祝うことがゆるされ幸いです。
現代日本でクリスマスを教会で祝うことはひとつの主の奇跡です。
さて今年も、
清水寺の森貫主による筆で、
「今年の漢字」が発表されました。
「新」でした。
新政権発足、新型インフルエンザ、新記録誕生などを背景としているようです。
しかし「新」はキリスト教会にとってこそ大切な事柄です。
キリスト者は主の日ごとに復活の新しい命を得ます。
本日も!です。
しかも本日は主イエスの誕生という「新」のなかの「新」を得ます。
さらにOさんとTさんのバプテスマという「新」に出会います。
私たちにとって「新」は決定的な救いです。
さて、新しくなると以前のものはどうなるのでしょう。
古いから全部捨てられるのでしょうか。
新政権が発足して面白いことが起こっています。
それは、旧政権と同じ体質を持ち、同じ過ちをすることです。
またさらに面白いことに、
旧政権に対してよりもそれらが厳しく明らかにされていきます。
新しくなることは、古いものが消え去るということではありません。
新しくなるゆえに、
古い体質を今なお持ち合わせ、
それが繰り返し現われ、
それをかつて以上に背負う
という必要が起こるということです。
しかし古い時分とは異なり、
新しさゆえに、
背負うことが赦されつつできる主の業を得ます。
つまり、
「新」とは、かつての罪がかつて以上に明確にされていくということです。
「新」とは、罪を明確にし、それを赦すキリスト・イエスのことです。
「新」とは、我々の罪を十字架で背負い苦しみ嘆き死を迎えるキリスト・イエスを通して赦された、私たち一人ひとりという存在です。
「新」とは赦された者として他者とつながり愛し分かち合う家族となることです。
「新」とはすべてが軽くなりただスッキリすることではありません。
「新」とは、命と世界と歴史の体重をそのまま背負う決断です。
それもキリストが共に背負うゆえに背負うことができる奇跡です。
というわけで、
今年のクリスマスも「新」を共に頂いてまいりましょう。
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「新」
みなさま、クリスマスおめでとうございます。
共にこの日を祝うことがゆるされ幸いです。
現代日本でクリスマスを教会で祝うことはひとつの主の奇跡です。
さて今年も、
清水寺の森貫主による筆で、
「今年の漢字」が発表されました。
「新」でした。
新政権発足、新型インフルエンザ、新記録誕生などを背景としているようです。
しかし「新」はキリスト教会にとってこそ大切な事柄です。
キリスト者は主の日ごとに復活の新しい命を得ます。
本日も!です。
しかも本日は主イエスの誕生という「新」のなかの「新」を得ます。
さらにOさんとTさんのバプテスマという「新」に出会います。
私たちにとって「新」は決定的な救いです。
さて、新しくなると以前のものはどうなるのでしょう。
古いから全部捨てられるのでしょうか。
新政権が発足して面白いことが起こっています。
それは、旧政権と同じ体質を持ち、同じ過ちをすることです。
またさらに面白いことに、
旧政権に対してよりもそれらが厳しく明らかにされていきます。
新しくなることは、古いものが消え去るということではありません。
新しくなるゆえに、
古い体質を今なお持ち合わせ、
それが繰り返し現われ、
それをかつて以上に背負う
という必要が起こるということです。
しかし古い時分とは異なり、
新しさゆえに、
背負うことが赦されつつできる主の業を得ます。
つまり、
「新」とは、かつての罪がかつて以上に明確にされていくということです。
「新」とは、罪を明確にし、それを赦すキリスト・イエスのことです。
「新」とは、我々の罪を十字架で背負い苦しみ嘆き死を迎えるキリスト・イエスを通して赦された、私たち一人ひとりという存在です。
「新」とは赦された者として他者とつながり愛し分かち合う家族となることです。
「新」とはすべてが軽くなりただスッキリすることではありません。
「新」とは、命と世界と歴史の体重をそのまま背負う決断です。
それもキリストが共に背負うゆえに背負うことができる奇跡です。
というわけで、
今年のクリスマスも「新」を共に頂いてまいりましょう。