きぼう屋

生きているから生きている

バプテストだからこそ

2006年08月26日 | 教会のこと
浦和キリスト教会でのおはなし その4

わたしたちはバプテストです。
バプテストって何でしょう??
わたしは正直に言うとわかりません。
勉強していないわけではないのですが・・・
うねりをあげるような「バプテスト」の物語に出会っていません。
どうもどれも原理的で・・・
「個人」という原理や、最初期の教会「モデル」という原理や・・・

バプテストが個人の救いとか、個人の魂とかに引っ張られるのは、時代の状況に引っ張られていることだというところまでは何とか自分なりにわかっているつもりでして・・・
だから「個人」をバプテストの特徴とすることはできないと思います。

そうではなく
バプテストは巨大な力を放棄し、力にもならない小さな力を連帯するという方向を選び取ったというところに注目したいと思います。

それがたまたま、キリスト教会が国家権力でもあったので、その全体の大きな力から、個という力にもならない小さな力の連帯を選びとる状況もあったと思いますが、
それは状況の話であり・・・
本質は、小さな力の連帯を選び取ることが出来るかというところではないでしょうか。
今なら、個と個の分断、あるいは関係性の喪失という巨大な力のなかで、小さな力、つまり、愛とか希望という、いのちをつなげるものを選び取り、連帯するということではないでしょうか。
小さな力を選び取り、それが共に生きるということは、まず原理にはなりえません。
とても具体的です。

で、

これがバプテストなのだとしたら、
バプテストがホームレスと連帯するのは、
選び取るべき事柄ではないでしょうか。

そもそも
なにゆえに
小さな力にもならない力を選び取らねばならないのか。

繰り返しますが
最も小さい力ってなんでしょう?

それは
十字架の主イエス・キリスト・・・
キリストを選んでいるわけです。
わたしたち。

最も小さな力を。

でも、その力にもならない小さな力が
「すでに世に勝っている」

他人が見たら「アホか」というしかないようなことを
信じつつ・・・

バプテストだからこそ
ホームレス支援もできる

真理性があるとも思いますがいかがでしょうか・・・

教会という「ホーム」

2006年08月26日 | 教会のこと
浦和キリスト教会でのおはなし その3

さて、教会は「ホーム」となれるのでしょうか。
「ホーム」を目指しているでしょうか。
誰の「ホーム」となっているのでしょうか。
「すべての人」のホームとなっているのでしょうか。

これ
「ホーム」に「なろう」とすると
そうならないのであります。
「ホーム」が「ある」ことを
一緒に繰り返し発見せねばならないのです。

どこに「ホーム」があるでしょう。
これは言い換えると
具体的にいつ誰と出会っているでしょうか?
ということにもなるでしょう。

さらに本日の聖書箇所のルカ14:15~24から知るならば
(浦和教会から提示された聖書箇所です)
具体的にいつ、神が招く具体的な隣人と出会っているでしょうか?
ということではないでしょうか。

神は招きます。
教会に隣人を。
わたしたちの信仰生活の日常に隣人を。

でも、人々はいろんな言い訳をして、隣人との出会いを拒否しているのが本日の聖書の箇所からわかります。
さらに、言い訳して隣人と出会わない者は、もう神は招かない!というおどしめいたコトバまで登場します。

わたしたち
言い訳して
ホームレスと出会わない・・・
もっと言うと
排斥するのです・・・

こういう言い訳があります。
わたしは高齢者福祉に取り組みます。ホームレス同様に困窮にある小さき者ですから・・・

半分アッテいます。
半分マチガッテいます。

こちらから出会う相手を決めることはできません。
神が招き出会う者と出会うしかないのです。

もうひとつ
大阪の本田神父は、より小さくされている者たちがいて、それがホームレスだといいます。
多くの困窮かかえる者がいるけれども、その最底辺に網をかけるかたちでかかわらないと、実はみんな、つまり高齢者も、救われないといいます。
最底辺はホームレスというわけです。
実際、
ホームレスは一般人の50倍もの暴力を受けます。
その暴力の度合いまで考えると、たんに50倍という数字では表しきれないほどに命を脅かされています。

来るでしょう。
ホームレスの人
教会に。
神は招いていないのでしょうか。

京都教会がホームレス支援を教会の事柄としてするようにいたるには険しい道のりがありました。
実際に起こったことを客観的に分析しています。
それはホームレスと出会わないようにする言い訳の三段階です。

まずわたしは京都教会赴任時に、京都教会は鴨川の橋のとなりにありますから、隣の住人である橋の下のホームレスの人に挨拶に行き、そこからかかわりが生まれ、支援に発展しているわけですが・・・
その最初期
かかわりが生まれ、ホームレスの人が教会に出入りするようになった頃
教会の何人かの人が、わたしたち家族を愛してくれる中で、
こう言いました。
「奥さんや子どもさんが危ないので、ホームレスとかかわるのをやめて下さい」
これは同時に
「教会にあつまる自分たちも危ない」
ということが含まれていることは、他の状況とあわせる中での単純な心理分析でわかることでもあります。

つまり
教会の「安全」
という理由、言い訳をもって、ホームレス排斥をするわけです。

しかし、聖書の言葉を分かち合う中で、
さらに実際にホームレスと会話する中で、
「安全」を脅かすような「怖い」存在ではないことが共有されて、この言い訳は姿を消しました。

しかし

それから半年後
次に出たのは
ホームレス支援は
教会の「働き」ではない
という理由、言い訳でした。

しかし、これも聖書を分かち合う中で、聖書がまさに「ホームレス支援」を指し示していると共有する中で、
さらに、やはり実際にホームレスと出会う中で、
この言い訳は姿を消しました。

しかし

それから2年後
次は
教会の「疲労」
という理由、言い訳が出てきました。
教会がホームレス支援で疲労している・・・
他の人たちへ手を差し伸べる力がなくなってしまっている・・・

教会の「安全」
教会の「働き」
教会の「疲労」

このホームレス排斥の三段階の言い訳
今回は冷たくも類型化させていただきました。


「疲労」という言い訳ですが・・・

これはキツイ!
ずぼしなので!

他者と出会うことは当然疲労することなので・・・
全く異質の他者同士が出会うのだから、スムーズにいくわけなく・・・
当然疲労するので・・・

しかし、
実は、
この疲労経験なしに
聖書の言葉で救われるという経験も・・・
ない・・・
と・・・
ホームレスと実際に出会う仲間が知っていたので・・・

この言い訳も姿を消したのであります。

これは当然なのですが、
言い訳は出会うことが出来ない者から出てきます。
で、
実は、
この言い訳が出るというところにこそ、キリストの赦しの宣言が必要なわけです。
出会うことが出来ない私たちを赦し
「次は出会おう」

何度も招くキリスト!

ホームレス支援は、出会いのしんどさゆえに、
私も何度も逃げてしまいます。
でも、今一度チャレンジするのは、
信仰によるもの、キリストによるものでしかない・・・
ホームレスとの出会いは、そういうものなのです。
信仰なしにホームレスと出会うことはできないといっても過言ではないと思います。
信仰でなんとか心身が持っているところがあるのです・・・

これはスレスレといえばスレスレ
でもスレスレだからやらない!
とは
ならない。
理由は単純。
マタイ25章を読んでみたりすればよいのです・・・

最も小さき者のひとりにしたのは、わたし(キリスト)にしたのである・・・

最も小さき者
それは主イエス・キリスト・・・

隣に具体的に神に招かれわたしの側に居る困窮深き、いと小さき者・・・
それは十字架の主イエス・キリスト・・・
そして、それは、本田神父の言うところの最底辺のホームレスの仲間たちの只中で出会うキリスト・・・

「故郷」「旅」

2006年08月26日 | 教会のこと
浦和キリスト教会でのおはなし その2

「ホームレス」が関係性の喪失であるならば
路上で生活する人に限らず、関係性を喪失している人はたくさんいるわけで、
サラリーマンにもいれば、
主婦にも、高齢者にも、
若者から子どもにも、
また
それこそ教会にもいるわけで
実は、「ホームレス」は、極めてひとりひとりの身近な事柄であることがわかります。

さて、この関係性という「ホーム」ですが、これの中身をふたつの視点から見てみましょう。

ひとつめ
それは、「故郷」というイメージにおける「ホーム」です。
関係性の基本であるような家族をイメージするとき、
そこには「故郷」というものがかならずあると思います。
とてもホッとするところです。
人はこれがないと生きていけないと思います。
なにしろ無条件でホッとするところ。
「ホームレス」は、このホッとできる「故郷」の喪失でありましょう。

さてしかし
家族なり夫婦というような、あるいはキリスト教会というような
互いの距離が近いほどに、ホッとできないということがあることは、みんな感じていることです。
近いと、互いによく知っていると、あるいはあまりにも知られていると、
ホッとできないわけです。
そこでは細かなことで変な緊張や摩擦も起こります。
岩田先生の言うように愛情と憎悪が行き交う現場となるわけです。

すると
「ホーム」は「故郷」だけでは説明しきれません。

そこでひとつ
たとえば「夫婦」の関係について少しばかり考えたいと願います。
夫婦の関係が、いつもホッとするという方は正直、いますでしょうか。
たぶん、夫婦関係においては、そういう捉え方をされるよりも、次のような捉え方をすることの方が多いのではないでしょうか。
それは、
夫婦とは「旅」である!
というものです。


それは
繰り返しの出会いです。
繰り返し出会うなかで
一緒に
大切な何かを
丁寧に確実に
探し当てるというもの
ではないでしょうか。

夫婦というのは、一生懸命にヴィジョンをかかげて、それに向かって「なっていく」ものではないでしょう。
そもそも「夫婦」とはこれだ!というような答えじみたものなど存在しないのですから。
「夫婦」の原理なり本質は「秘密」なんですよ。
人類誕生以来、他のさまざまなかたちが壊れる中で、なぜか残る夫婦というかたちなのですが、
そのかたちのあるべき姿を説明できた者はいないと思います。
だから夫婦は「なる」のではなくて
夫婦とは繰り返し出会いが「ある」というものでして・・・
その「ある」を繰り返し発見する旅を、
それこそ一緒にやっていくというものではないでしょうか。

家族もしかり
教会もしかり

教会
それは
「故郷」なる拠点=礼拝で共に祈り、主の赦しの宣言を受け
「旅」なる日常の信仰生活にて、正義を行うという
そういう場ではないでしょうか。

「ホーム」レス

2006年08月26日 | 教会のこと
浦和キリスト教会でのおはなし その1

ホームレス支援をする市民と行政はまずかならず岩田正美さんの論文を読んでいます。
彼は2,000年に発行された著書『ホームレス・現代社会・福祉国家―生きていく場所をめぐって』(明石書店)にて次のように書いています。
**************************
「生きていく場所」は物理的地理的な意味だけを持っているわけではない。住居の内部で営まれるプライベートな生活は家族という集団を単位とするものであり、基本的な生活行為は家族というまとまりの中で、その関係性の中で遂行されている。したがって「ホーム」という生活拠点は、家族の愛情や憎悪の交錯する「場所」でもある。人はその中で、家族の一員としての「役割」を割り振られ、その家族の一員である自分を確認する。
**************************
これ、バプテストの一員であるならば、どこかで一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
しかも2,000年より前に。
これ、北九州のバプテストの仲間たちが、ホームレスを強いられている仲間たちとの出会いと対話の中で発見してきた事柄であります。
それも、そのような状況と聖書との対話をもするなかでで発見した事柄であります。
岩田先生は北九州の活動からこういう考えを持つに至ったわけです。
ホームレス
それはハウスレスではありません。
単に「家(ハウス)」がない(レス)ということではありません。
「ホーム(家族、家庭、関係性)」が喪失(レス)しているのです。
ホームレス問題は、物理的困窮(ハウスレス)問題であると同時に、
いやそれ以上に
関係性喪失(ホームレス)問題なのです。
で、
この考え方が日本のホームレス支援の前提となり始めています。
おそらくキリスト教会が聖書から見つけてきたものが、行政を含めた大きな活動の中心になるということは、日本では数例しかないでしょう。
先日、大阪市立大学の教員たちによるホームレス支援調査のグループのMLでは
「さすがバプテスト」
なんてコトバも出てきておりまして・・・
バプテストは、今、日本のホームレス支援で欠かせないどころの騒ぎでないことを
バプテストのパイロットチャーチと呼んでもおかしくない浦和教会のみなさまには
まず知っていただきたいと思うのです。