きぼう屋

生きているから生きている

8.15集会発題要旨

2006年08月15日 | 平和のこと
本日開催されました「8.15」を問い続ける京都集会での発題要旨でございます。
長めでございます。
テーマは「ヤスクニ」でございます。
前回のきょうとネット例会の最終的に残ったテーマ
ヤスクニの精神と人間の本性の関連、とりわけ、歴史に詳しくない若者が巷にあふれるヤスクニの精神に惹かれるワケを考えたいと思いました。

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死者を覚えることは決定的に大切です。
その意味では、小泉さんの言うところの、日本は生きている人だけで成り立っているのではなくて、戦争で死んだ人の上に成り立っている、というのも、間違いではありません。
ただ、かなり乱暴な言説であることも間違いないのですが。
でも、こういう言葉に若者が惹かれるのも、ごもっともでありましょう。
だって、今を生きる者は誰しも、誰かしらの先に亡くなった者との関係性なくして、自らの生を語ることは出来ないのだから。
だからみんな死者を覚えたいのです。

それがヤスクニと重なっていくということが起こっているのでしょう。

しかし
死者を覚えることで忘れてはならないのは、自らと具体的に関係性のあった死者しか覚えられないということ。
しかも、本当に死者を覚えて、その死者を悼むことができるのは、相当に近い関係性にある場合に限るということ。
それはつまり、死者のありのまますべてを、なにかしらのかたちで受けているという者であるということ。
決して、死者のよいところ、格好いいところのみでなくて、
だめなところ、弱いところ、汚いところ、も、ひっくるめて、
全部を受け入れていくという覚悟があった者であるということ。
また、その関係においても
嬉しいこと、楽しいことのみでなく、
苦しいこと、悲しいこと、しんどいこと、も、ひっくるめて
全部を受け入れていくという覚悟があった者であるということ。
さらに、その死に様も覚えられるということ。
それが無残な死、悲惨な死だったか、あたたかい死だったか、誰かに手を握られての死だったか、ひとりっきりの死だったのか。

となると、見えてくる。
死者を覚えるということ、それは
愛していないとできないということ。すべてを受け入れるというのは愛であるということ。

となると、見えてくる。
死者を覚えるということ、それは
極めて近しい人の特権であるということ。愛し愛されてきた者の特権であるということ。

となると、見えてくる。
死者を覚えるということ、それは
遺されて生きている者の他者への関係性が問われているということ。
死者が生きているとき、愛せたか、対話できたか、ということ。
もっと言うと
今生きている者どうし、対話できているのか、互いに愛し合い、心底受け入れ合い、心配し合い、共に悲しみ苦しみを担い合い、共に生きているかということが問われているということ。
ひとりで勝手に生きていないか、と、問われているということ。


これ
正直に胸に手を当てると、
わかるのです。

やりきることができないのです。わたしたちには。

これ、人間の限界なのです。関係性の限界なのです。

死者を覚えるということ。
これは人間の限界性が問われるということなのです。

近しい関係にある者たちほど、この限界性にぶつかります。愛しきれない限界性、対話しきれない限界性。
夫婦、家族、キリスト教会などのように血縁でなくとも家族同然となる決意をする群れ、
こういう限界点をとりわけよく知るのです。

でも
死者を覚えるということは
この限界性のゆえに逆方向に逃げるのではなく、覚え続けるということにおいて、対話し続け、愛し続けるというチャレンジを繰り返し頂くということなのです。

これは歴史認識もそうです。
歴史との対話にチャレンジし続けることが歴史を知ることであり、対話をしなくなると、すっきり気持ちいい歴史認識が生まれます。

で、死者との対話、関係性がなく、死者を覚えるとなると、
そこでは、
すっきり気持ちいい死者認識が生まれます。
その究極は
死者はヒーロー!
と、認識することです。
これ
ヤスクニ
なのです。

ヤスクニは、こうやって、死者をありのままぜんぶ覚えるのがしんどいゆえに、
またあんなにたくさんの死者を覚えるのは物理的にやりきれないゆえに、
(で、だからやるべきではないのだけれども)
そういう愛とか対話とか関係性とかを得ることが不可能なゆえに、
また、そもそもそういうものを無視しているゆえに、
それを放棄して、
みんなヒーローにするわけです。

でも
こういうことってどこでも起こります。
どの宗教の葬儀でも、その焦点になるのは、なぜか
死者の経歴、業績

死者を格好よくする・・・これ
その死者との関係性が稀薄だったということの暴露なのです。

さてさて
今生きている私たち、自分の経歴とか業績でもってみんなに受け入れてもらいたいのでしょうか。
たしかに社会がそれを求めることは多いですが、
しかし、それに窮屈さを感じているのではないでしょうか。
みんな、自分の強いところ、格好いいところで判断されるのではなく、自分の弱さも含めて受け入れてくれる人を求めているのではないでしょうか。

ならば
死者はどうでしょう。
もうモノ言わぬ死者のことはどういう受け入れ方をしてもいいのでしょうか。
死者に関しては強いところ、格好いいところのみ受け入れればいいのでしょうか。
いいえ
死者も、ありのまますべてを受け入れてもらいたいはずです。

でも、そうはしないことが多いのはなぜ。
そんなに愛とか対話とか関係を続けるのはしんどいから放棄したい???

そうなんですよ。

で、
モノ言わぬ死者は
生きている者の都合で語られ、
つまり
利用されるのです。

戦争で死んだ!彼はヒーローだ!って。

君も次のヒーローになろう!戦争に行こう!ヤスクニで会おうって。

死者を覚えるときの関係性、対話、愛というしんどいことを放棄するというのは、
実は生きている者にもそれを放棄しているということ。
つまり、生きている者どうしも、覚えあっていないということ。
つまり、生きている者どうしも、利用しあっているということ。

死者を、その弱い面を見ないで、業績をみたり、ヒーローにしたりするということは、
生きている者が、互いに弱い面を隠したくて、逆にヒーローになりたがっているということ。

だから、今の社会
みんな、自分の中の半分、あるいは一部で生きています。
半分とは、例えば、積極性賛美、肯定賛美、プラス思考賛美
逆の半分、つまり、消極性、否定、マイナス思考は、あってはならないものとされています。

人間のあらゆる組織を運営、経営していくためには、またそこで成果がでるためには、
積極性と、自己肯定と、プラス思考という、いわば上半分をうまいこと組み合わせた手法が求められています。
こういう手法をマーケティングという学問として大学で研究したりします。
心理学者の友人は言いました。
「患者さんがなおるという成果が必要だから、僕らは、患者さんが言ったことに対して、『それでいいんだよ』『間違ってないよ』『すばらしいよ』と、全肯定するのだ。すると一時的に直る。それが成果となる。でも一時的だよ。本質はついてないから」。
ごもっとも。

この手法、京都の教育でも使用されています。
息子の小学校入学式での校長の話
「かがいているよ」「すばらしいよ」の連発。
話の中身はなし。
ただ全肯定して、気分をよくさせて、ムードでもっていってました。
市の教育委員長の話もいつもそれと同じですね。
「京都の教育はかがやいてますよ」。

愛すること、対話すること、が、しんどくて、それをする覚悟がないどころか、それから逃げていった結果
気持ちよさとムードでもっていくのが今の社会。
今の生きている人の社会。
そこでは、対話がないから、全部一方通行。
権力の一方通行。原理の一方通行。

これが人間の本性です。
カントさんは、こういう人間の本性は「暴力」と言いました。
ごっもとも。

で、
死者を覚えることも一方通行なのです。
小泉さんの言う原理と、彼の権力が一方通行なのです。

死者も気持ちよさとムードで持っていかれてしまうのです。

つまり
生きている者がヒーロー賛美をする社会は、死んでいる者をもヒーローにするのです。
生きている者が互いに愛さない社会は、死者をも愛さないのです。
生きている者が互いに対話しないなら、死者とも対話しないのです。
生きている者が互いに丁寧に出会うことを放棄し、ムードで流れることを選ぶなら、死者もまたムードでもっていかれるのです。
生きている者が互いに「人間」を放棄し「モノ」を選ぶなら、死者もまた「モノ」とされるのです。

と、いうわけで

死者を利用する社会は、生きている者をも利用するのです。

国に会社に利用される生きるわたしたち

で、
これ
戦争にも利用されるわたしたちなわけで・・・
これ
戦争状況なのです。
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とまあ、こんな感じです。いかがだったでしょうか。